新しい日々
◇ ◆ ◆
「ーーーウ、エン」
──日々繰り返されるそれはおそらく、朝の挨拶なのだろう。
食堂に足を踏み入れた瞬間、苑は今日も女から笑顔を向けられた。
躊躇いつつも小さく頷き、定位置となった椅子に腰を下ろす。
その間も女は忙しなく動きまわっていた。
重そうな料理を運び、声をかけてくる子供の受け答えをし、空いた皿を下げていく。
見慣れつつあるその光景を眺めたあと、苑はのろのろと木製の匙を手にとった。
今朝の献立は葉野菜とアサリのスープ、それにほかほかの白パンと、橙色の果物だった。
果物は食べやすいよう半月型に切り分けられ、硝子の器に盛られている。
見ているだけでも腹が鳴りそうな、香ばしい匂いと瑞々しい輝きを放つ餌を前に、苑は密かに眉を寄せる。
こんなに綺麗な食事を与えられている現実が、まだ信じられなかった。
苑が孤児院で暮らし始めて、一週間が経っていた。
海に面したその街は温暖な気候で、窓を開けていても眠ることができる。
苑は、歳の近い男児と同室になった。
その男児は火に近い赤茶色の髪とそばかすを鼻頭に散らしたよく喋る子供で、苑にもしきりに話しかけてきた。
言葉が通じていないにも関わらずだ。
苑は少年から、食べ終わった食器は厨房に戻すことや、朝は全員で掃除をすること、子供は彼と苑を含めて8人いることを教えられた。
その少年は朝食を食べ、掃除を終えると、他の子供らと共に外へ出かけていく。
そうして夕刻になると戻ってきて、金髪の女が作った夕飯を堪能し、順番に入浴をし、それぞれの寝室で眠りにつく──そんな毎日を送っていた。
苑はというと、彼らが出かけたあと、残った女とふたりきりで言葉の勉強に勤しんでいた。
その日課は今日も同じだった。
先に食事を終えた少年が、大声で金髪の女に何かいう。
多分、【ごちそうさま】だとかそういう意味なのだろう。
空になった皿を重ね厨房に運んでいく少年が、苑を見やり何かをいう。
きっと、【早くしろよ】だとかそういう意味なのだろう。
食事を終えた苑も、少年に倣い厨房へ食器を運び、その足で庭にでる。
そこが苑と少年の掃除場所だった。
箒を手にした苑は、一本だけ生えている大きな木のそばや、玄関に散っている落ち葉を掃いていく。
少年は雑草をむしっている。
さわさわと風が鳴り、花壇の──女が毎日水をやっている──桃色の花を揺らした。
「────」
苑は箒を動かす手を休めて、背後の孤児院を見上げる。
二階建ての古い民家風のその家は、歩くと軋むし、床や壁は傷だらけだ。寝室も狭く、おまけに孤児たちはみないつだってとてもうるさい。誰かと誰かがはしゃいでいて、喧嘩をしていて、かと思ったら仲を戻していて、またうるさく話し始める。──今だってそうだ、見上げた家の二階から、笑い声とも泣き声ともとれぬ音が漏れ聞こえていた。
間違っても住み心地がいいとは言えない。場所。
──早く戻らなければ
腐臭と汚泥、暴力と喧騒に塗れた故郷を想い、苑は緩く箒を握った。
暖かい風に頬を撫でられる。
草と花、それから潮の嗅ぎ慣れない匂いがまとわっていた。
少年たちが出かけたあとは、女との時間が訪れる。
食堂の隣──夜、食後にみなが集まって寛いでいる部屋に呼ばれた苑は、中央に置かれた布張りの長椅子に、女と横並びに腰掛ける。
女はいつものように手にしていた大型の本を開いた。
この国の言語の教本だ。
女は一覧になっている畝った文字をひとつひとつ指差し、ゆっくりと発音していく。
苑はそれを復唱する。
「【ア】」
「……あ」
「【ヴィ】」
「……び」
「【ツィ】」
「…………つい」
開け放した窓からは、小鳥の囀りが聞こえていた。
のどかで穏やかな時間が流れていく。
一通り文字の復唱を終えたあと、女は数個の文字を連続で指差した──彼女の名だ。
それは殊更ゆっくり音に乗せられる。
「【リーシャ】」
「………………いー……しゃ……?」
少し違う気がしたのだが。
昨日より、いくらかマシになったのだろうか。
その日の女は、昨日一昨日よりずっと嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
そうして【もう一回】と言うように人差し指を立ててきて──苑は、要望に応えた。
「いー……しゃ」
また嬉しそうに微笑まれ、苑の困惑は深くなる。
(わからない……)
なぜそんなに嬉しそうなのか。
にこにこと教本をめくる女の横顔に、苑はふと、善良とはこんな人間を指すのだろうかと考えた。
故郷では病も貧困も、突然の不幸すら自業自得とみなされていた。道端で倒れる者がいたところで駆け寄るものなどありはしない。生まれが悪いのが悪い。それが故郷、特に柳条では常識だった。
なのに隣に座る女は──彼女は、縁もゆかりもない自分を助け、こうして庇護している。
感謝すべきなのだろう。
しかし苑は。
その厚意を受け取るには黒い世界を知りすぎてしまっていた。
朝の勉強を終えたあとは、彼女と昼食をとり、午後は買い出しに付き添う。
孤児院からしばらく歩いた場所にある市は常に人でごった返しているから、逸れないよう、苑はよく彼女に手を握られていた。
街の人々は最初、苑を見るなりその容姿の珍しさに目を丸くしていたが、だんだんとそんな奇異の視線も少なくなっていた。
彼女が店の人間とやりとりする合間も、苑にとっては勉強の時間だった。
値札を読み、彼女がどれにいくら払っているかを確認する。
「3ツーーーー」
「! ーーーー」
「…………」
数枚の硬貨と野菜を交換している辺り、やはり先日ミーリアに払った代価はだいぶ高かったのだろうと察せられ、苑は小さく息をこぼした。
院に戻ったあとはまた少し勉強して、日が傾き始める前に夕食作りに取り掛かる。
厨房で彼女が野菜を洗うのや切り分けるのを手伝うのは苦ではなかった。
言葉の勉強も出来る上、こっそりつまみ喰いもさせて貰えるからだ。
その日のメインは、鶏肉と根菜を牛の乳で煮たスープだった。
「エン」
最後の味付けをする頃、彼女に手招きされ、歩み寄る。
屈んだ彼女が、匙で掬ったそれを口の中に流し込んでくれた。とろりとした甘い塩気のあるスープには、肉も混じっていた。
彼女が尋ねてくる。
「ーーーー?」
これはもう、覚えた。
苑は頷く。
「【美味しい】」
はっきりと発音すると、彼女はまた嬉しそうに笑うのだった。
◇
夜半。ルイは安置された子供らを前に言葉を失っていた。
検死を依頼され受けはしたものの、彼らの末路が痛ましくてならなかった。
「それでは、我々はこれで」
言った市警らが部屋を出たあと、孤児院の長──ガブリエルが苦々しく口を開いた。
「……まさか、まだこんなことをやってる連中がいるとはな」
「…………リーシャに、伝えますか?」
伺うように問えば、ガブリエルは考える間もなく首を振った。
「いや、いい。不安にさせるだけだからな。あの坊も」
黒星の焼印を付けた子供たちが、浜辺に流れついていたなど。
知ったところで、自分たちにはなんの対処も出来ない。
「わかりました……」
ルイは言って、子供たちにそっと毛布をかける。
せめてその眠りが安らかでありますようにと、祈っていた。