名
がらんとしたその部屋の外からは、子供の笑い声が聞こえていた。それもひとりふたりではない。多人数のものだ。
故郷ではとんと耳にしたことのない、無邪気な音に、苑はしばし意識を奪われる。
耳慣れない言葉、景色、匂い──。
ここまで揃えば、流石に理解しないではいられなかった。
どうやら自分は異国に流れついてしまったらしいことに。
嘆息を堪えて、目の前の女に視線を戻す。
女は、変わらず気落ちした様子で苑の顎や首筋を拭っている。
出された粥は美味かった。
塩気が強い気もしたが、蕩けた卵との相性がよく、また貰えるのだろうかと思うくらいには気に入った。
しかし自分は食事の作法で、女の気分を害してしまったらしい。
もしもこの女が〝次〟の主人に当たるのなら、このままにしておくのはまずいだろう。
苑はどうにか女の機嫌を取れないかと考えた。
言葉の通じないのが痛手だった。
(ひとまずは様子見だ……)
苑は思い、女の気の済むに任せ、身体を拭わせ続けた。こそばゆいが不快とは思わなかった。
「ーーーー」
苑の顔や手を綺麗にし、満足したのか。女はまた理解のできない言葉を発すると、苑の手をとり、席を立たせた。
次に連れて行かれたのは、苑が寝ていたその部屋だった。
「ーー、ーーー」
中にいた男が振り返る。
さっきもいた、茶髪の男だ。
手振りで寝台に座るようにと指示される。
苑は大人しく腰掛ける。
相手は成人男性だ。逆らって手を挙げられでもしたらたまらない。せっかく生き延びることが出来たのだ。なるべく賢く立ち回らなければと思った。
男は、鏡台の前に置かれていた木椅子を片手で持ち上げ移動させると、自分はそこに腰を下ろした。苑と真向かいになる。
真似をしろと言っているのか、男が正面で大きく口を開けたので、苑も口を開けた。男はひとつ頷くと、苑の顔に手を当て、中を覗き込んできた。
女はそばに立ったまま、傍観を決め込んでいる。
男はそれから、苑の目の下を押したり、首筋に手を這わせてきた。
くすぐったいが、痛みはない。
腹を見せるようにとまた手振りで指示され、上衣の裾を持ち上げる。脇に触れられた瞬間、反射的に身体が強張った。
そこにはまだ、アンディックらに遊ばれた痕が残っていた。
「……ーーー」
女が何か呟き、男が渋い顔を上げた。
──……こいつらもあの女と同じ嗜好でないとは限らない。
苑は従順を装いながら、警戒を忘れはしなかった。
と、男に何か言われた女が、苑の隣に腰掛けてきた。
寝台が柔く揺らぎ、遠慮がちに手を伸ばされる──おそらく、上衣を脱がせようというのだろう──女の細い指が、薄汚れた首元の留め具を探った。が、服の作りが違うからか、なかなか外せず、苦戦する。
仕方なく苑が自ら外してやると、女は感心したように目を瞬かせた。
異国の服が珍しいのか。
女の視線を感じつつ、苑はそのまま服を脱ぎ、素肌を晒した。
男は痣に触れないよう、けれどしっかりと苑の身体に触れ出す。と、その眼差しが背中に移ったところで、ぴたりと動きを止めた。
「ーーーーー」
男が見ていたのは、アンディックに付けられた『印』だった。
女もそれを確認するように指示されたのだろう。回り込むようにして苑の背を見た女が、息を呑むのがわかった。
苑はその印を直接見たことはないが、よほど醜い傷になっているのだろうか。
心配になり、そうだここには鏡があったのだとそちらを見やる。
身体を捻り、自分の生白い背を確認する。
そこには。
刺青のように濃い黒星の焼印が、くっきりと刻みつけられていた。
「私ミーリア。オマエの名は? 年齢は? どこから来た?」
──茶髪の男の〝観察〟が終わったあと、入れ替わるようにして入ってきたのは小柄な女だった。
名をミーリアと言うらしい。
縮れ気味の赤い髪をおさげにし、両肩から垂らしている。
歳は金髪の女よりいくらか上に見えた。
「はよ言え。私忙しい」
男が座っていた木椅子に腰掛けたミーリアは、矢継ぎ早に質問を投げてきた。
言葉がわかることには安堵したが、その無遠慮な態度は心地よくなくて、苑は渋々、口を開いた。
「……苑。歳は多分、十かそこらだ。了国からきた、船が嵐に遭って」
「了のどこよ」
「……柳条だ。って言って、おまえわかるのか?」
「なんとなくね。私、了国の言葉いっぱい勉強した。留学経験もあるよ」
早口に言った女は、今度は突っ立っていた茶髪の男と金髪の女に母国語で話し出した。
おそらく、苑の言葉を変換しているのだろう。
金髪の女はミーリアの話を聞きながら、熱心に何度も頷いてた。
そうしてふと苑を向くと、恐る恐ると言った様子で、話しかけてくる。
「…………え……ん?」
「…………」
名を呼ばれた。
苑はぎこちなく肯首する。
と、女は両手を胸の前で握り合わせ、これ以上はないんじゃないかと言うくらい破顔した。
「────えん、えん」
それから先があるわけでもないだろうに、繰り返し名を呼ばれる。
何がそんなに女の心を動かしたのか、苑には少しもわからない。
だが、女に名前が伝わったのは良かった、と思った。
意思疎通の一歩を踏み出せた。
それから苑は、ミーリア伝いにここにいた経緯を説明された。
「オマエ、海辺で倒れてたのよ。それをこのコが見つけた。手枷と足枷は痛そうだったから外したって。大変だったらしいぞ」
「だろうな」
鉄を外すのが容易なはずがない。
「ええと。で、ここは街にひとつしかない孤児院よ。孤児院、わかるか?」
「馬鹿にしてるのか」
「そう怒るな。確認よ。オマエ、ここでしばらく暮らしていいて。良かったな」
(……孤児院)
だから子供の声がそこかしこからしていたのか。
納得し、苑は日が傾きかけた窓の外に目を向けた。まだ、あの騒がしい笑い声は聞こえている。
この国も、夕暮れは祖国とおなじ色をしていた。
燃えるような赤が、薄青の空に混じっていく。
「じゃあ、私はそろそろ帰るよ。達者でな」
ミーリアの滞在時間は、正味いくらもなかった。壁に掛けられた時計は、ものの数分しか動いていない。
「ーーー」
立ち上がったミーリアが何事か言い、金髪の女に手を差し出していた。女は手にしていた財布から数枚の紙幣を取り出し、ミーリアに手渡す。
「……金を取るのか」
思わず呟いた苑に、ミーリアが振り向く。
「当たり前よ。私の知識、努力、慈善事業するためじゃない。生きるため。タダ働き絶対いやね」
「守銭奴」
「はっ。難しい言葉知ってるのね、クソガキ」
苑には金髪の女が払った対価が、安いのか高いのはわからなかった。ただ知識が金になるのは確かだと思った。
ミーリアが見透かしたように口端を上げてくる。
「オマエ、このコの名前知りたくないか?」
「…………」
「出世払いでもいいよ」
「いい」
言葉くらい、どうとでもなる。
実際目の前の女だって、了国の言葉を会得しているのだから。
苑はミーリアから金髪の女に目線を移した。
「自分で聞く」
それくらい、やってのけなければ。この先、生き延びて復讐を果たすことは叶わないとわかっていた。