Scene-3 / 探偵の手腕
「ステータス」
無意識にそう呟いた。
目の前が急に光り出し、空間に文字が現れた。
私はそれを眺めながら喋りはじめた。
「そうだジム、慌てなさんな。
元々記憶が無いんだ。
何が起きても不思議と思うな。
見たことが無いものだと思ってもな。
そもそも何も覚えてないんだ。」
眼の前に現れた文字。いや、透明な文字盤に書かれた文字かもしれない。それに話しかけた。
「驚くことじゃない。
大切なのは受け入れ、観察すること、冷静に対処することさ。
ただし、答えが見つかるようならば。」
その文字は単一の光で構成されているわけではなかった。よく見ると、様々な色と光、明度を持った細かな砂粒のようなものでできていて、文字の形をそのまま崩さずに、内部では液体かのように流れを持ち、対流しているようだった。
右から、左からと、身体の位置をずらしてそれを眺めると、常に私の正面を追うように向きを滑らかに回転させた。
自然現象というわけではない。何か仕組みがあるものだろう。私が知らないテクノロジーだ。
懐からチーフスペシャルを抜き、銃の先を文字の一部に向けた。
銃先で軽く文字に触れようとする。
光の文字に手応えはなく、銃は文字を突き抜けた。
何度か、銃先で文字をかき混ぜる。
光の文字はかき乱されるということがない。
私は、銃口を覗き込まないようにしながら、短銃の先が何か変化していないかを見つめた。
微かに、ほんの僅かに、微量な光の粒が付着したようにも見えた。
ハンカチを出し、銃先を拭った。
ハンカチを眺めたが、何も付着していないように見えた。
私は下を向いた。タバコが落としている。火はまだ残っているようだ。
腰をかがめ、それを拾い、その場で一息吸い込んだ。
タバコの中ほどまで来ていた赤い火が、フィルター付近まで一気に近づく。
タバコの葉の香りを鼻孔で感じながら、肺を膨らます。
私はゆっくりと身体を起こした。
何気なく、森の方を見ると、そこに2つの巨大な瞳が私の前に対峙していた。
鱗に覆われた瞼に隠れているもの。その瞳。眼球はサッカーボールの2倍はあろうかという大きさだった。私の頭ぐらいの大きさの黒目。というか光彩の円。2つの瞳が私の視野いっぱいに拡がっている。
それの鼻息を感じる。
2つの目の中心の下に鼻孔らしき穴が2つあった。私の腕2本が容易に入るような大きさの穴だ。
鱗に覆われたそれが、開いたり、やや閉じたりしている。
鼻の下に大きな口といくつもの牙、そして巨大な舌が蠢くのを視界の端で感じていた。
2つの瞳が上下左右に揺れながらも、私を見つめていた。
私は動かなかった。動かないようにした。
簡単に言えば、さきほど見かけた、空を飛ぶ巨大な鳥だか、翼竜だか、なんだかが、音もなく浮遊しながら、崖の裂け目に張り付いている私を覗き込んで見ていた。
私は”それ”から視線を外さないようにしつつ、手探りでゆっくりとシガレットケースをジャケットから取り出し、新しいタバコを一つ取り出した。といっても指先が震えて、タバコを取り出すのにだいぶ手間取った。吸い終わりかけていたタバコと替えて咥える。火の残った古いタバコの火先を咥えタバコの先に押し当て、息を深く吸った。新しいタバコに火が移る。
もちろん、自分が馬鹿なことをしている自覚はあった。
ゆっくりと紫煙を吐くと、”それ”は鼻孔を拡げて、煙をまたたく間に吸った。
私はその後、2度タバコを吸い、2度、煙を吐いた。
1度目は”それ”は煙を吸ったが、2度目は吸わなかった。もう飽きたのかも知れない。
「ハロー。
俺はジェームズ・ハートリーだ。
ジムと呼んでくれ。」
私は精一杯の愛想笑いを向けた。ハリウッドの全ての女性が振り向くぐらいの笑顔だったはずだ。女優もダイナーのウェイトレスも。
「あんたには知性があるようだ。
それもそうとうな高度な知性だろう。
お会いできて大変光栄だ。」
私は話しかけた。
私は私立探偵だ。
きっと、人と話をするのが得意だろう。
事件の手がかりを様々な町の人々、数々の悪党どもから聞き出すのが得意なはずだ。
きっと、人に好かれやすいのだろう。
ウィットに富んだ会話もお手の物のはずだ。
そうでなければ、私立探偵などが務まるわけもない。
言葉が伝わるかどうかもわからない巨大な相手、人など簡単に瞬殺するような化け物に話しかけるジム。
まったく滑稽だ。
酒場での良い武勇伝になりそうだ。
”それ”の瞳は、私が話すごとに、表情を微妙に変えた。
言葉を理解しているどうかはわからないが、反応はしている。
私を観察しているようだ。
オーケー、こちらも観察のプロだ。
根比べといこうじゃないか。
私は再び、タバコを深く吸い込み、煙を静かに吐いた。すぐにかき消される煙を追いながら、天を仰いだ。
仲間だろうか、眼の前に居る”それ”と同じ生き物が、2体、はるか頭上で浮遊していた。
またとないチャンスだ。ジム。
この場をを切り抜ければ、武勇伝どころか、英雄譚の主人公になれそうだ。
酒場では、一生の間というもの、酒に困ることは無いだろう。
誰もが私の話を聞きたくて、酒を奢るのだ。
それも密造酒ではない。
本物のバーボンだ。
ジム、今夜も聞かせてくれよと。酒を飲むことしか能が無いような者ども、夜明けの酒場通りにぶち撒けられた吐瀉物のような奴らが。すり寄ってきてくれることだろう。
「あー、、。
まずは君の名前を教えてくれないか。
あー。
あなたが、敵意を持っていないのはなんとなくわかる・・・。
わかるんだ。何故かね。
種族が異なるとはいえ、、その、友好の印として、名前を呼び合うなんていうのはどうだろう?
そう・・、君がその・・、人間と同じように発音できるとしてだけどね。」
いいぞ、ジム。
順調な滑り出しだ。
ただ、さきほどから脚に力が入らない。
足の感覚も腕の感覚も無い。
可愛らしい“それ”は、頭を傾けて私に顔をさらに近づけた。
鼻先を裂け目に突っ込んでくる。
眼前に鱗が迫る。
私はただ動かずに待った。
熱い抱擁とキスだろう。願わくば。
“それ”は私を吸い込むかのように、鼻孔を拡げて、大気を吸い込んだ。
わたしはよろけて、吸い込まれるそうになる。
トレンチコードがバタバタと激しい音を立てるが、その音さえも吸われていく。
吸い込まれないように、後方に身体を倒すと、視界に上空を旋回する2体のお仲間の姿が見えた。
その2体の周囲に先程は無かった厚く暗い雲が集まり、無数の光、雷が光っているのが遠目の一瞬でも見て取れた。
大気を吸い込むのをやめたのか、ふっと、私の身体が自由を取り戻した。
その場に尻もちをつく。
“それ”の大きく開けた口元が見え、そこに光の球体が出現しているのがわかった。
しだいに輝きを増す。
私は転がるようにして、裂け目の底に身を投げ込んだ。
すぐさま、私の世界は光と灼熱に包まれた。
全てが光だった。