世界はこんなにも素晴らしい
拙い文章ですが、よろしくお願いします。
ジジジ、ジジジ、ジリリリリリリ…………。
「うーん……」
カーテンの隙間から光芒が差し込む朝。
目覚まし時計はカチャンと軽快な音と同時に、朝一番の産声は鳴りを潜めた。
時間を確認すれば十時を過ぎたところ。寝坊してしまったが、焦る心配はない。
気怠げな身体をベッドから引っ張り出し、カーテンを豪快に開ける。
本日は雲一つない快晴。爛々と照らす朝日が心地いい。
「うんっ!いい朝!」
もうすぐ昼だが気にしない。
半分寝ていた意識も完全に覚醒を果たす。
憂鬱だった気分が少しだけ軽くなった気がした。
大きく背伸びをし、学校に向かうために早速準備に取り掛かる。
「あー、これ昨日そのまま寝ちゃったんだっけ」
クローゼットの取手に指をかけたことで、昨日のことを思い出した。
やっぱり僕は馬鹿だなと自虐しながら、両手に装着していたゴム手袋を脱着する。
カサついた手が顕になると、そのままパジャマのボタンを下から外していく。
上下全て脱ぎ終わると、鎖骨の下あたりから臍部の当たりまで、大きな斑点のように内側から浮き出ている赤紫色のものが数箇所顕になった。僕はそれを無意識に撫でる。
チクリとした痛みが脳に伝わり、思わず軽く顰めた。
「ま、いいや。それより早く着替えないと」
扉を開いたクローゼットから、学ラン一式を取り出す。
「いやぁー、学校は久しぶりだなぁ」
数ヶ月ほど登校していなかった母校に、心を躍らせながら感慨深く思う。
着替え終わった僕は鞄を肩にかけ、ドアノブを握りガチャリと開き一歩廊下に出るが、ふと一考する。
「そういえば、ここにはもう戻らないんだった」
最後に今一度記憶に残してからと、振り返る。
ぐるりと見渡せば、まるで人間の個性を微塵も感じ取れない部屋。ベットに目覚まし時計と机、そしてクローゼットがあるだけ。彼のこれまでの人生を魅せるような思い出の品は何一つない。
特に見る必要もなかったと、少しばかりの後悔を抱き、踵を返した。
再び廊下へ出ると、階段の方へ二歩三歩と歩みを進め、階段を降りる。
一階に降りた後はそのままリビングへと向かう。
目的地へ到達したところで、ぐぅ〜とお腹から空腹の合図。
昨日から何も胃袋に入れてなかったので、ご立腹のようだ。
キッチンへ向かい大型の冷蔵庫の前に立つ。観音開きの赤いメタリックな冷蔵庫。
ガチャリと開ければ、室内にライトが点灯する。早速見渡すが、中には萎れたレタス、半分に切ったレモンに麦茶と牛乳。あとは調味料類がちらほら。生憎だが、この腹の怒りを鎮めるものは入っていない。どうやら、今日あたりに買い物をする予定だったのだろう。
仕方がないのでコンビニで軽食を調達することに決める。
次の方針が決まったところで、両親の寝室へと向かう。部屋に備えられている大きめのクローゼットから母のバッグを見つけると、財布を取り出しそのままお金を拝借。3万円ほど入っていたので、全て抜き取る。
どうせもう使うことはないのだから。
ーーーーーーーーーーーー
身支度は済んでいるので、このまま出立してもいいのだが、最後に両親に挨拶してから行くことを決める。
目的の人物がいる場所へ向かうと、一言。
「お母さん、お父さん。逝ってきます。」
彼の言葉に返事はない。
そんなこと既にわかりきっている。数秒沈黙の後、踵を返しそのまま玄関へと歩む。
ローファーを履いた彼は、そのままガチャリとラッチボルトの擦れる音と共にやけに重く感じる扉を開け出ていく。
バタンとしまった家の中には
シャァァ……というシャワーの水を打ちつける静音が、洩れ出るだけだった——————。
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家を出た彼は軽食を手に入れる為、コンビニへと向かう。時間にして十時半前。
登校及び通勤時間はとっくに過ぎている時間帯である。おそらく人は少ないだろう。
歩く事数分、目的地へと到着する。
7の数字を冠したコンビニエンスストア。家から近いので度々お世話になっている行きつけの店舗。
昨今における値上げや上底事情は芳しくないものだが、彼は馴染みあるこのブランドの味が好きだった。
ピロロンピロロン、ピロロンピロロン————。
軽快な機械音と共に店内へ。室内には立ち読みしている中年の男性と、会計中のジャージ姿の女性が一人。予想通り人は少ない。
先ほどまで空腹で沢山食べようと考えていた彼だが、どうやら胃袋さんは怒りを通り越し不貞腐れてしまったらしい。今ではそこまで空腹を感じられなかった。
彼はシャケのおにぎり1個と350ml入りのお茶、そして最後に一番重要な物を手に取ると、レジへ運ぶ。すると、レジ担当であろうの女性店員の人はこちらに顔を向けると驚愕の表情を見せた。
「?あの、どうかしましたか?」
訝しげに思った彼は店員へと声をかける。
「っ!い、いえ。おにぎりとお茶が一点、それと———」
合計料金を提示され、小銭を入れる。
政府の対策によりレジ袋は有料化してしまった近年、マイバックかそのまま手に持つという選択肢が自ずと増えてきた。しかし彼は学生、通学用鞄を肩にかけている。
彼はポイポイと鞄に今し方購入した軽食を乱雑に入れると、その場を後にしようとする。
「あ、あの!」
再び後ろから声がかけられる。
やはり何かあるんじゃないかと思い、振り向く。
「どうしました?」
「そ、その……か、顔に!あの、その……」
いまいち要領を得ない彼女に、何を言いたいのか答えを見出せない。
「顔」という単語を聞き、徐に右手を頬あたりに持っていく。
「僕の顔に何かついてますか?」
「ええっと、その……はい……」
彼女の力のない返答に、少し頬あたりと指で掻いてみる。しかし何もない。
今度は強めに掻いてみた。
すると人差し指の爪と肉の間に、粉のような赤い物体が付着していることに気づく。
それを視認した事で、彼も先ほど彼女が驚愕していた理由に気がついた。
「い、いやぁ〜、すみません。昨日夜転んじゃって。そのまま気付かずに寝ちゃったみたいです。ははは」
右手で後頭部を摩りながら、軽い口調で笑いながら言う。
「そ、そうですか。あ、あはは。お大事にしてください」
自分でも苦しいとわかっている言い訳にも、彼女は特に何も言わなかった。
彼はやや早歩きでコンビニのトイレへと向かう。
洗面台に備えられている鏡で自分の顔を確認する。
「あー、やっぱり」
そこにはボサボサの髪に、生気を失った黒い瞳。頬はやつれ、肌の乾燥も酷くボロボロ。しかし、問題はそこではなく右頬に顕著に見える赤いそれ。
彼はポケットティッシュを手に取り、三枚ほど取り出すと蛇口から水を出し濡らす。
それを右頬に当て優しく擦るように拭いていく。やがて頬からは赤いものが消え、代わりにティッシュに移色していた。
さらにもう一枚取り出し、頬の水気を取っていく。
「これで完璧だな」
満足した彼はゴミ箱へ使用済みのティッシュを投げ入れ、今度こそコンビニを出た。
通学路を歩きながら、購入したおにぎりを食べる。程よい塩気のシャケにご飯が合う。パリパリの海苔もいいアクセントになっている。
こうなってくれば喉が渇いてくる。
食べ終わった彼は、お茶を開封すると一気に呷る。ゴクゴクと心地いい音と共に喉を潤していく。
「プハーッ。やっぱおにぎりにはお茶だよね」
自分が日本人で良かったと改めて実感したところで、学校へと歩みを進めた。
ーーーーーーーーーーーーー
ややあって彼が今いるのは校門前。時間にして十一時過ぎといったところ。今は授業が始まったばかりだろう。
一度閉じられた校門は来客用に備え、九時から十二時、昼休憩を挟んで一三時半から十七時まで開放されている。
もちろん警備員の見張りはあるが、彼はこの学校の生徒であり、学ランも着ているので怪しまれることはない。
精々遅刻と思われるくらいだろう。
堂々と歩みを進め、正面玄関へとやってきた彼は自分の下駄箱を覗く。そこには案の定上履きは入っておらず、多彩な装飾が施されていた。
「…………」
しょうがないので土足のまま教室へ向かう。幸いどこも授業中のため教師に会うことはなく、注意されることはなかった。
彼の教室はB棟2F、クラスは2-A。すぐに向かうべく誰もいない廊下を静かに闊歩する。コツコツとローファーの心地いい反響音をBGMにしながら進む。
どこの教室からも教師の声や生徒の笑い声が聴こえてくる。少し前の彼ならば、それに対し憎悪や嫌悪感を抱いていただろう。しかしながら、今日の彼はそのような気持ちは一切なかった。寧ろ清々しいくらいだ。
今ならば何をされても、彼の心のキャンパスノートは真っ白のまま。どこまでも白紙のページが広がっている。そう、どこまでも。
やがて教室まで辿り着くが物音はしない。チラリと覗けばどうやら小テストの中のようだ。
これが幸か不幸かはわからない。
少量の緊張を胸に、扉をガラッと開ける。物静かな教室に突如響いた異音に誰もが此方へ顔を向けた。
物音の正体に気づいたクラスメイト達の反応は様々。無言で興味ない風を装う者、クスクスと嘲笑する者、驚愕のためか目を見開く者。後者2種の方が、圧倒的大人気。
教師も此方に一瞥するが、すぐに興味を無くしたのか視線を落とす。眼鏡をかけた30代くらいの冴えない男性。2-Aの担任教師その人。
見て見ぬ振りをすれば、自分には関係ないと考えているのか。
きっと今までも無愛想で無責任な対応ばかりしてきたのだろう。そして、これかもそうやって責任逃れな教師人生を歩んでいくつもりなのだろうなとは彼の寸感だった。
そんなクラスメイトと教師を他所に彼は堂々と教室に入る。チラリと自分の机に視線を送れば、そこには細長い花瓶に一輪の彼岸花。なかなか皮肉の効いた演出だ。
それに机には何かしらの文字が刻まれている。何が書いてあるかまでは、こちらからは視認できなかった。
だが生憎彼の目的は、授業を受けにきたわけでもなければ、机の清掃をしにきたわけでもない。
真の目的は別にある。
目的のうちの一つ———否、一人の方へ脚を運ぶ。
窓際の一番後ろの席。そこに彼はいた。
名前は龍ヶ崎 玄太郎。
着崩した学ラン。金色に染められた髪は、ツーブロックにマンバンヘア。両耳には数十個にわたるピアス。
ここまであからさまな見た目の人間も減少傾向にあるものの、未だいるところにはいる。
そんな彼はこちらを嘲笑うかのように、厭らしいニヤついた笑みを浮かべている。
「久しぶり、龍ヶ崎くん」
「ヨォ、山下ァ」
その声を聞いた瞬間、脳裏にフラッシュバックする。思い出したくもない記憶が鮮明に描写されていく。
一瞬強張り、一粒の冷や汗が背中を伝うがすぐに落ち着きを取り戻す。
ちなみに山下とはこちらの苗字である。
「おめぇ、よくここにこれたもんだな?」
「うん、そうだね」
「あんなことされたのにヨォ」
下衆な笑いを浮かべる龍ヶ崎。まるで無くしたおもちゃを見つけたかのように此方を見つめている。
「騙される側の気持ちってのはどうだったよ?ぇえ?」
山下にだけ聞こえるように放たれた言葉に、彼は再び当時の記憶が蘇る。
「っ……やっぱり、冤罪を吹っ掛けたのは君だったんだね」
「ひゃひゃ、今更お前が騒いだところで誰も信じねーけどナァ?それより夏希が傷付いちまったんだからヨォ……慰謝料、わかってるな?」
笑みを浮かべていた表情から一変。慰謝料という言葉を口にした瞬間、虎視眈々とした表情になる龍ヶ崎。
やはり最初から目当てはそれだったのだろう。
「おい、山下ァ。聞いてんのか?人の彼女に手ェ出そうとしといて無事に済むと思うなよ。あぁ?」
「大丈夫わかっているよ。だから今日やってきたんだ」
授業中にも関わらず、こんなに好き勝手して何も注意しない教師に再度呆れつつ、山下は鞄へと手を伸ばす。
今朝買っておいたあれを取り出すためだ。すでに中身を開封しており、刃も十分な長さまで露出させている。
「なんだぁ?その口の聞き方よぉ。テメェ舐めてんじゃ———」
「あ、龍ヶ崎くん。肩に何かついてるよ」
「あ?テメェ何言って……」
「ハッピープレゼント」
ドスッ
それは、不意の一撃だった。ほんの一瞬注意を逸らした隙に、鞄から取り出したプレゼントを龍ヶ崎の首を目掛け、一直線に刺す山下。
すぐに引き抜くが、首からはドクドクと液体が流れるのみ。
「っ!?!?あ゛、阿゛阿゛亞゛ァ゛ア゛!?!!?!??」
遅れてやってきた痛みに声にならない声を上げる龍ヶ崎。
両手で刺された左側の首を押さえる。指の隙間から、赤黒い液体が漏れ出ていた。
「あれ?しくったな。もう一回!」
プレゼントを持ち替えると、反対側の首を目掛け再び突き刺す。今度はすぐに抜かずに、手前に引くようグリグリ刃で傷口を抉る。
龍ヶ崎は、目尻に涙を浮かべながら最後の力を振り絞り、刃を突き立てている方の手首を握ってくる。
しかしながら、抵抗虚しく数センチほど刃を動かしたところで、肉を割く感触に手応えを感じた山下は思い切り引き抜いた。
三回目ともなれば手慣れたものである。
刹那、龍ヶ崎の首からは噴水のように鮮血がそこらかしこに飛び散る。
龍ヶ崎の机はもちろん、前の席の生徒や床、窓ガラス、白のカーテンetc……飛沫の進行方向全てに大小様々な紅の水玉模様を作っていく。
最後にゴポリと吐血した龍ヶ崎は、ドサリと床に倒れ伏し絶命する。
そこで此方を観戦していたギャラリーの方々も我に返ったのか、一斉に悲鳴が湧き上がる。
それはもう廊下を通して近隣の教室へ被害が及ぶほど。
「うわっ!服に着いちゃったじゃん。汚いなぁもう。黒だから目立たないけどさぁ」
パニックに陥るクラスメイトのことよりも、龍ヶ崎の血液が付着したことに顰蹙する山下。
辟易した様子で最後に龍ヶ崎先の顔を蹴り飛ばすと、彼は手にハッピープレゼントを握りしめたまま教室の中央辺りへ向かう。
もう一人の目的の為だ。
目当ての人物は、逃げようとして椅子に引っかかったのか、それとも脚に力が入らなかったのか、床に倒れ仰向けで此方を見上げていた。
「こんにちは、夏希さん」
「や、や、山下……さん」
怯えた表情で応える彼女の名は、東雲 夏希さん。
一応、山下の元カノである。気付いているとは思うが、彼女は龍ヶ崎とグルだったわけだが。
「へぇ。秀治の次は、カス下。そしてその次は山下さん、か。随分人の呼称が変わるんだね」
秀治とは山下の下の名前である。
彼の正式名称は山下 秀治。
「ひっ……ご、ごめん、なさい」
ニコリを笑う山下に何かを察した夏希は、震える声でなんとか謝罪を口にする。
恐怖により涙や鼻水、涎までも垂らし、顔から流れる液体という液体を分泌している彼女。
「夏希さんに聞きたいことがあったんだ。なんで、僕を嵌めたの?」
「…………りゅ、龍ヶ崎くんに頼まれて……」
次の瞬間、山下は夏希の太ももへをハッピープレゼントを突き立てた。やや強めに刺したせいか、彼の手にはそこまで刺した感触は伝わらない。
「い、いだい、いだいいだいぃい!!」
突如として太ももから伝わる強烈な痛覚が彼女を襲う。
今まで感じたことのない激痛に叫び声を上げる。
「なんで、僕を嵌めたの?」
先ほどと同じ質問を再び夏希へと投げかける山下。未だニコリとした表情は崩さない。
山下の鼻腔には、アンモニア臭が漂う。
「ひ、暇だったから……丁度ちょろそうなあんたがいたから……。お金なかったし、バイトするより楽にせびれると思って……」
ボソボソと話す夏希に静かに拝聴する山下。
「そうだったんだね。僕は最初から遊ばれていただけだったのか……」
気付いてはいた。それでも、直接聞くまで心の何処かではもしかしたら龍ヶ崎に無理矢理……なんてどこまでも低俗な考えを信じていたのもまた事実だった。
どこまでもお人好しで、無能な自分に笑ってしまう。
ガックリと力なく俯く山下に、勝機を見出したのか、夏希は先ほどと打って変わって強く出てきた。
「そ、そうよ!あんたみたいな陰キャ童貞如きが私と釣り合うわけないでしょ!?あんたなんかさっさと自◯して◯ねばよかったのよッ!!!」
ここぞとばかりに畳み掛ける夏希。身体中から湧き出る嫌な汗に気がつかない程、太ももから伝わる鋭い痛みとその元凶に神経が集中してしまう。
今すぐにでもここから逃げるために、次の一手に思考を巡らせる。
未だ麗しき青春を謳歌したい花の女子高生。ここで死ぬわけにはいかないのだ。
「…………」
「わかったら早く退きなさいよッ!キモイのよあんた!このクソ童貞ッ!!どうせもうすぐ警察が来てあんたはおしまいよ!あんたの名前も全部公にして人生終わらせてやるんだからッッ!!」
山下は俯いたまま何も言わない。
相手が絶望してると悟った夏希は再び畳み掛けた。
しかし、これは悪手となる。
彼女はすぐにこれが誤ちだったことに気付かされる。
「…………はは」
「!?」
不気味な笑い声に一瞬にして身体が強張る夏希。
やがて顔を上げた彼の表情には
————三日月のように異様に鋭い笑顔が浮かんでいた。
「残念だけど、人生が終わるのは君の方だね。まぁ今ここで終わるんだけど」
「っ!!い、いやっ……!」
本能的に予見した自分の未来に、這いつくばった状態で匍匐するように急いで手を伸ばし逃れようとする。
しかし、不思議なくらいに力が入らない彼女は、ただ床を撫でるのみ。
「ダメだよ」
そう呟いた山下は、夏希の肩に手を伸ばし再び仰向けの状態にする。
馬乗りになった状態で、全てが恐怖に染まった彼女に一言。
「ハッピープレゼント」
彼は両手でプレゼントを握ると、龍ヶ崎と同じく彼女の喉へと突き立てる。
ズブリッ。
「が、がはっ……い゛、い゛た゛……た゛す゛け゛———」
すぐさま刃を抜いた山下は、今度は右の方へ、再び抜いては次は左へ。
抜いては刺し、刺しては切り、また突き刺すの繰り返し。
赤黒い液体がブシュブシュと噴き出る。だが今更もう気にした様子はない。
柔らかい肉の繊維を切り裂いていく感触がダイレクトに山下に伝わる。
やがてガクリと彼女の暴れていた腕や脚が力無く倒れた。目から流れていた涙はすでに枯れており、焦点すら合っていない。
「…………」
目的を果たした山下は、何を言うわけでもなくスッと立ち上がった。彼の顔や手にはたっぷりと夏希のヘモグロビンなどが付着している。
それを拭うように学ランの袖で、頬を擦る。しかし、結果はただ汚く広がるだけ。
ふと教室を見渡せば、未だこちらに視線を送る野次馬ども。中にはスマホを向けている者もちらほら。
昨今における情報社会において、どんな状況でも通報よりも先にスマホを向けバズりを狙うインフルエンサー擬きの闇がここにも現れる。
人の命が二つも失われたというのに、どこまでも自分のことしか考えない愚か者に山下は遊び心を滾らせた。
欣喜雀躍と言った様子で、プレゼントを握ったまま軽快に小躍りをしながら野次馬に近づいていく。
「おいおい〜、動画なんか撮ってそれどうするんだよ〜」
小馬鹿にするような物言いで歩み寄る山下。その足取りはなかなかのフィジカルさを発揮していた。
「肖像権の侵害じゃない……かっ!!」
最後に語尾を一段と高く言うと共に、右手のプレゼントを振り下ろす。
今の彼は、たくさんの人々にプレゼントを与え笑顔にするサンタさんである。
ちょうど赤いしね。何がとは言うまい。
「お、おい佐藤も刺されたぞ」「キャー!!!」「ひ、ひぃい助けてくれ!!!」「おい!誰か通報を!」「警察か!?救急車か———」「う、うわああああ!!!」「そんなことより今は逃げろ!!」「早くいくぞッッ!!」
まさに青天の霹靂。クラスメイト全員が叫ぶ叫ぶ叫ぶ。
流石に騒ぎすぎたのか、喧騒を聞きつけた近隣のクラスの人たちがこちらにやってきた。
「えっ、なにこれ……?」「ど、どういうことだよ!?」「あそこにいるのって東雲さん?」「!!う、うぷっ、おぇえ……」「お、おれ先生呼んでくる!!」「君たち落ち着きなさい!」「林先生は警察に連絡を!私は——」「とにかくみんな今すぐこの場から離れろ!」
流石に潮時だと理解した山下は退散することを早々に決める。急いで、鞄を手に取り教室から出る。その際にたまたま近くで見ていた担任教師の腹部にカッターナイフを突き刺した。
突然の出来事に未だ状況を把握していない担任教師。彼はどこまでも無能だった。
土足だったので履き替えることなく玄関を飛び出し、校門へと向かう。
きつめだからいいものの、今更になってローファーで来たことを後悔したのは秘密だ。
学校を出た彼は、走りと止めることなく近くの公園へとすぐに向かう。
たどり着いた山下は、すぐに公衆トイレへ向かうと、服を脱ぎ、予め鞄に入れておいた着替えと変装道具を取り出し着用する。
無地のパーカーにジーパン。黒の帽子に白のマスク。
ちなみに顔に付着した返り血は、Yシャツを濡らしそれで顔を拭いた。どうせもう使うことはないので出し惜しみはない。
変装が終わった彼は財布だけポケットに入れると、鞄を公園の茂みに隠しすぐさま繁華街へ向かった。
ーーーーーーーーーーーー
繁華街に着いた頃には十二時を過ぎていた。
お昼時であり、不貞腐れた胃袋も機嫌が治ったのかまたぐぅ〜と空腹の合図。
「美味しいものでも食べようかな」
幸い懐は潤っている。ここら辺の相場なら大体のものを金に困らず食べられるだろう。
早速携帯でグルメサイトを開き口コミを見る。
ややあって訪れたのはステーキ屋。ここではオーストラリア産の安い牛肉から、国産ブランド牛のお高い肉を提示してある好きな部位を好きなグラム頼めるという、なかなか粋なことをするのが売りな店である。
山下が頼むのはもちろん国産ブランドのお高めのお肉。部位は若者特有の胃袋によりサーロインの300gを選択。更にプラスしてご飯、サラダ、スープ、食後のデザートがついているAセットを注文。
数十分後、やってきたのは分厚いサーロインステーキ。灼熱の鉄板の上で迸る脂と共に踊っている。これには流石にテンションを上げられざる負えない。
早速ナイフとフォークを手に取り、いただきます。
肉を切り分け口に入れれば、まずやってくるのはぶん殴られたかのような強いガツンとした旨味。そして、軽く噛めばジュワリと溢れる甘い脂が口内を潤した。
こんな最高な肉にはやはりあれしかない。そう、白米だ。
肉がなくならないうちに米をかき込み口の中で合わせれば、待っていたのは調和。サーロインによる脂のくどさを白米がいい感じに緩和してくれている。
まさに最強タッグ。
あぁ、これほど幸せなことが他にあるだろうか。
リミッターが外れた山下は、無我夢中で食べ勧めた。
十分ほどで、いつの間にか平らげていた彼はお会計を済ませ外に出る。先ほどの学校での諍いによって、食事が喉を通るか心配だったが、意外にも杞憂だったようだ。
「さて、次はなにを……おっと」
適当にぶらつこうとしたところで、視界の先にある人物を見つける。
「……警察かぁ」
そう警察官様のご登場である。多分彼は地方公務員だろうが、所持しているのが国家権力なのは変わらない。
見つかってしまえば、抵抗する暇もなくその力の前にひれ伏すことになる。
そうなっては不味いと、先ほどよりも注意して進む。幸い小柄な彼は人混みに紛れることで、完璧に気配を消すことができた。
ぶらつくこと数分、ふと目に入ったのは映画館。
「そういえば、ほとんど行ったことなかったな」
人生を振り返ってみても、数回ほどしか経験のない山下。更にいえば訪れたのもかなり小さい頃。最早、何を観たかすら記憶にない。
特に今もこれと言って観たいものは思い浮かばないが、その場で決めるのもまた一興かもしれないと考えたところで、映画館へ。
まぁ、外は警官が彷徨いていると言う理由もあるのだが。
店内に入ると受付に向かう。
「えーと……十三時十五分からの『劇場版 変人と言われた俺は、ラブコメができないと思ったか?』をお願いします」
「かしこまりました。変コメの劇場版ですね。メンバーズカードはお持ちですか?」
「いえ、学生証なら」
「ありがとうございます。お預かりします。学生割により千円ちょうどになります。メンバーズカードは無料でお作りできますが、どうしますか?」
「あっ、無しで大丈夫です」
「かしこまりました。千円ちょうどお預ります。ではこちら、先に学生証と……チケットと入場特典になります。シアターは4番です。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をする店員さんに軽くお礼を言うと、そのままシアターへ向かった。
————二時間後。
「ふーん。小鳥遊さんて娘、えっちじゃん」
ガチャ映画にしては悪くなかった作品だったと上から目線で感想をいう山下。時計を確認すれば十五時二十分。
「このままもう一つ観るか……」
再び受付へ向かう。
「すみません、十五時四十分からの『魔法少女 ほのかちゃん』をお願いします」
「かしこまりました。では————」
無事チケットと特典を手にした山下は、上映場所へと向かうのだった。
ーーーーーーーーーーーーー
更に二時間後。
「まぁまぁだったな」
「うーん」背伸びをし、今し方視聴していた映画を思い出す。
「さて次は——」
「ちょっと君」
次は何をしようと携帯を取り出し審議しようとしたところで、不意に声をかけられた。
最初は無視を決め込んでいたが、やがて肩を掴まれる。
「そこの君だよ。黒い帽子の君」
「…………」
「この辺りでこういう男の子を見なかったかな?ここから少し行ったところにある〇〇高校の生徒さんでね。背丈はちょうど君と同じくらいで……」
「その人が、何かしたんですか?」
「っ……。すまない、詳しくは言えないんだ。ちょっと問題を起こしちゃってね」
「そうですが。すみませんが見てないですね」
「そうか。わかった。ありがとう。もし見かけたらすぐに知らせてくれ」
「わかりました。こちらこそお力になれずすみません」
そういうと山下は踵を返し、すぐさまこの場から立ち去るべく早足で歩み出そうとする。
しかし
「ちょっと待った。やっぱり君、帽子とマスクを外してもらっていいかな?すぐに終わるから」
ドクンと鼓動が早くなる。自分でも感じ取れるほど心臓は活発化していく。
「…………」
再びこちらに警察官の方が近づいてきた。
だが国家権力の前にひれ伏す訳にはいかない。山下はもう既にアウトローだ。
「あっ!もしかしてあの人じゃないですか?」
「えっ」
刹那、山下は脱兎の如く走り出した。
「あ、ちょっ、君ッ!」
小柄な体型を上手いこと活用し、人と人との間をすり抜けていく。なんだなんだとこちらを振り向く人はいるが、振り向くだけで特に何もしない。
後ろから「あの少年を捕まえてくれ!」という叫び声が聞こえる。しかし周りの喧騒にかき消されすぐに遠のいていった。
走ること一時間と少し。
あれから通達があったのか、パトカーのサイレンがそこらかしこから鳴り響き、街中を逃げ回る羽目になった彼だ。
脚はもうすっかり棒のようで、しばらくは動けないだろう。
そんな彼が訪れたのは、峠の先端付近に設置された展望台。
ここは街を一望できる絶景スポットして、カップルなどに定評のある場所だ。
展望台麓には公衆トイレが一つと自動販売機が二つ設けられている。数十メートルに及ぶ螺旋状の階段を上がった先には、広々とした空間に数箇所設置されたベンチ。
人気スポットとはいえ平日だからか、周囲に人は誰も見受けられない。
今ここにいるのは彼一人。
展望台には落下防止用の手摺が設けられているが、それより向こうには何も無い。
もし落下すれば、数十メートルの高さから地面に叩きつけられることになるだろう。
下を覗いて見るが、彼には暗くてよくわからなかった。
実際は地面が斜面林になっており、地面から彼がいる場所までの高さにして、ざっと三、四十メートルはあるといったところ。
只今の時刻は、十九時前。
斜陽によって茜色に染まっていた天上は、段々と濃紺に侵食されている。
それに伴いポツポツと点灯し始めた雑居ビルや大型商業施設、そして沢山の家々。
まるで深海の底にいるみたいだ、とは山下の寸感であった。
ふと、視界に広がる無限のそれを背景に、彼は黄昏ながら思い耽る。
初めてできた彼女。
しかもすごく可愛くて優しい彼女。当初は舞い上がってしまった。一生大事にしようと思った。
でもそれはただの淡い幻想で、実際の彼は無理矢理犯そうとしたレ◯プ未遂犯。そしてそれを救った龍ヶ崎は一躍クラスのヒーロー。
これがシナリオ。
昨今におけるSNS活用によってこの捻じ曲げられた事実は、光の速さで広まっていく。
これは学校だけに留まらず、近隣住民にも、更には子を信じるべき両親までもが敵になる。
社会は、どこまでも彼を。否定した。
「もう疲れたな」
人の罪悪感という箍が外れるのはいつだと思う?
完全に悪に染まったとき?
追い詰められたとき?
いいや、違う。
人は自分を正義だと心の底から信じてやまない時にこそ、人は人を罰するのに躊躇はしない。
自分は絶対的正義であり、相手は完全なる悪。
俺たちは何も悪いことはしてない。
むしろこれは正統な行いだと。俺たちが裁くのだと。
同調圧力、共通認識。
小さな虚構は大きな真実へと生まれ変わっていく。
「…………もし、人生をやり直せるのなら」
手摺の向こう側に立つ彼は両手を大きく広げる。
ヒュゥーーッと肌寒い風が頬を撫で、髪を揺らす。
もう彼を縛るものも。害意を及ぼすものもいない。
「鳥になりたいな。」
何に縛られることもなく。
このどこまでも続く自由な空に。
世界中を飛び回るんだ。
「今なら、飛べるかな。逝べるかも。」
彼は頑張った。
もう救われても良いではないか。
彼にはもう何も残されていないのだから。
「あぁ……」
さぁ、準備は整った。
瞳を閉じて。
最後に哀しみが一粒。頬を歩み降りる。
「だって世界はこんなにも———」
もう後悔はない。
勇気を出して、はじめの一歩を踏み出そう。
だって世界はこんなにも
————————————美しいんだから。
読んでいただきありがとうございます。