人質姫と、「もう遅い」
◇
それは、 今は昔の恋物語。
どちらかと申せば、悲恋の話にございましょう。
なにしろ、その物語の主役のおひめさまは、人質姫と影に日向に噂されていた御方なのでございます。
おひめさまはある良き日、小さいながらも勢力を拡大しつつある崎国から、大国なれど緩やかな停滞の中にある微国へと嫁がれて参られました。
無視できないほど近くにある国と国同士の、結び付きのための婚姻です。
誰の目から見ても姫は崎国が微国の軛から解き放たれないための、一時を保たせるための人質に他なりませんでした。
神々の前にて誓いを立てられたものの、国を上げてのお祝いと言うにはあまりにあまりな噂話……。
そう、国の皇子と結婚された姫のことを、皆が人質姫と呼んで口さがなく言い合ったのです。
崎国と微国の関係が、その時にはそれ程までに悪化していたということでもございましょう。
さて、そのような中でのご成婚。姫はただ、不幸であったのか。
儚き蕾のような姫であったと伝わるその御方のこころの真なるところは、どうとも伝わっておりません。
しかし、皇子と姫はお互いを何くれとなく気遣い、おふたりでよく城の庭を散策され、言葉を重ねることを厭わなかったと言われております。
世間では散々な扱いの婚姻でしたが、おふたりは確かになにか通じ合うところがあったのでしょう。
いいえ、通じ合えるように頑張った、のかもしれません。
姫は穏やかな気質の皇子のお側でおっとりとなされ、皇子は姫を守るためにより一層奮起なさったとか。
しかし、燃え上がるような熱はなくとも穏やかであったおふたりにも、ある時影が差したのです。
皇子の傍らに、見慣れないものの姿が……。
姫、と、ある収穫の祝いの中で、皇子は姫にお声を掛けられました。
周囲の目のある中でのことです。
姫の憂いを帯びた目元が僅かに震え、じっと皇子を見つめられました。
「姫、……どうか私と、離縁して頂きたい」
皇子の瞳は黒々と濡れておりました。
おふたりは仲睦まじい夫婦の関係ではございましたが、今だもってお子がありません。
白き仲だったと噂されもしましたが……、今となってはどちらでもよろしいことでございましょう。
こういったことにおいては、いつの時代もお子がいないという事実だけが重要でございました。
「殿下……」
姫はおっとりと微笑みました。
皇子のお側に上がってはじめて笑うということを知った人質姫でありましたから、人よりは幾分ぎこちない微笑みだったかもしれません。
己から無体なことを言い出しましたのに、今にも落涙せんばかりの皇子に向かって、姫はゆるりと手を差し出されます。
その白魚のようなうつくしい指先には、何とも不釣り合いな鋭くひかる切っ先ーー……
「もう、遅うございます」
姫は微笑んだまま、皇子の傍らに居た崎国の兵に斬りかかりました。
後ろ手に縄を打たれ、今にも落城の責を負わされて首を落とされそうな皇子の回りに居た兵どもを振り回した小さな刃物で脅し、姫は皇子の首にしがみつかれました。
人質姫はその名の通り、未だ誰からも崎国の人間だと思われていましたから、咄嗟に兵もどうして良いのか分からなかったのでしょう。
崎国に落とされ、炎の回った城のひろびろとした中庭で、姫は皇子にはじめての口づけをなされました。
「わたくし、出来損ないの女でございましたわ。あなた様を見殺すことも、お助けすることも出来なかった……」
「ひ、め……」
固く抱き締めあったふたりの体は、兵の持つ槍に貫かれ、それっきり。
大国は、儚くも皇子と姫と共に小国の前に散ったのです。
皇子は穏やかで優しくはありましたが、ゆるゆると滅びに向かっていた国を建て直すような才はなかったのでしょう。
もっと早くに手離すべきだった姫も、最後まで手元に残されて……。
また、埋伏の毒となるべき姫も、皇子にいつしか絆されてしまっておりました。
しかし、祖国への情も捨てきれず、全てはもう機を失っていたのでしょう。
これで全てはおしまい。
なにもかも、燃え尽きてしまいましたとさ。
さて、さて、これなる陳腐な恋物語。
お気に召されましたか。
寝物語には、些か物足りないお話でございましたでしょう。
……はて、崎国がそのあとどうなったか、でございますか?
それはもう。
無理を押し通せば道理は引っ込むと申しますが、全く反動が無いかと言うと……。
全ては姫の言う通り。
もう遅かった、全ては、それだけのお話にございました。
◇