3
◇◇◇
私は、暗くなれば石造りの場所で目を閉じて明るくなるのを待ち、腹が催促すれば実を食べ、合間に名前をつけて毎日を過ごした。
どれだけそうしていたかはわからない。
幸い、腹が催促した時に食べる実に困ることはなかった。
が、そのうち名前の必要な物に出会う機会が減ってきた。
もし、私が全てのものに名前をつけ終わったら――
そんなことを考えながら歩いていると、私と似た形の二本足で歩く生物がやってきた。
「私は、アダム。――君は?」
形状に多少の違いがあるものの――許容範囲だ――似たような形状のそれは、自分と同じで生物に名前をつける役割があるのかもしれない。
私は自分から名乗った。先に別の名前を付けられてしまっては、頭が混乱する。
それを聞いてそれは、にこりと笑った。
「私はエバ」
生命――。
その名が、私の頭の中でキラリと光った。――なぜだか、大事にすべき宝物の様な気がした。
その時から、私のルーチンに、彼女との情報交換が加わった。
彼女もやはり、私と同様に名前をつける人だった。が、付けた名前は私ほど多くない。
だから、情報交換といっても、ほとんど私が生物の名前をエバに教えた。
私がほとんどの名前を教え終わった頃、エバが自分の名付けたものを見せてくれると言って、私をある場所へ連れてきた。
そこは、石造りの場所に近かった。
そこに、今まではなかった――あったらわたしが名前を付けていただろう――見たことのない木が、二本生えていた。
一つには黒い実が、もう一つには紅い実が生っている。
黒い実も紅い実もつやつやと光り、吸い込まれそうに美しい。
私が言葉を飲んでその実を見つめていると、彼女が「それはそれぞれ、生命の木、知恵の木というよ」と黒い実と紅い実を順番に指して言った。
「どうして、この木の名前を知っているのか?」
「目を閉じて明るくなるのを待っている時に、教えてくれる声があったの」
聞いてみると、どうやらそれは、一番最初に私がこのあたりで話した、あの光と同じ物のようだった。
ここしばらくは、それが私に話しかけることがなかったのは、エバと話していたからなのだろうか。
◇◇◇
「一体、どういうことだっ!?」
ルシフェルは勢い込んでゼウスの部屋の扉を開けた。
突然の彼の登場で、ゼウスの部屋で乳繰り合っていた女神美が、着るものを掴んですれ違いで部屋を出て行く。
「ああ、彼らが我々と同じように力を付けたら、神気界に招き入れることができるかとおもってな」
ゼウスは、動じることなくソファに腰かけたまま彼の入室を許した。
「なにを莫迦なことを。――彼らはもうすでにゼロレイヤーに適合した生き方を獲得しつつある。たとえ、彼らが神々と同じ力を手に入れたとしても、神気界まで時空を超えるのは、無茶だ。――いや、たとえ、それができたとしても、あの世界の生物をすべてこちらに移すとなると――」
「みんなではない、アダムだけだ」
「な――?」
「アダムは儂の分身。力さえあれば、儂の手元においておいても――」
「莫迦も休み休み言え! ――仮にも貴方は神々のトップだ。その貴方がそのようなことをしたと知れたら、すべてのアバターにそれを許さねばならなくなる。――現に、今回のこの件の発端は何だったか、思い出してみろ」
「なに、黙っていれば一人くらい――」
いい加減に答えるゼウスにルシフェルは頭を抱えた。
「貴方は、自分の影響力の強さを理解していないらしい。……この件に関しては俺に預けられたはずだ。勝手なことをされては困る。――すでに、あの二本の木のおかげで、計画にずれが出てきてるんだぞ」
そう言って、ルシフェルはゼウスが反論する隙を見せず、新世界の情報服務器へ歩み寄った。
――計画を修正せねばならない。
◇◇◇
「――あの木の実は、食べてはいけない」
「あの木の実?」
「君が命の木と知恵の木と名付けた黒い実と紅い実だ。あれを食べると、私たちは終わりだ――と、お告げがあった」
「お告げ?」
エバは不審そうな表情をした。
「幸い私たちは、あの木の実を食べずとも、食料とする植物をすでにたくさん知っている」
実際、食べ物となる木は、実をつけなくなる木がある一方、その実の中にある種を土へ埋めておけば、次から次へと生えるようになることも私たちは知っていた。
食べてはいけないと言われるのなら、食べなくてもやっていけるのだ。
「――そうね」
エバは僅かに残念そうな顔をしたが、私の言うことを素直に聞いてくれた。
◇◇◇
「お告げ、だと? ――貴様、儂の邪魔をするのかっ!?」
「それは、俺の台詞だ。先に邪魔をしたのは貴方でしょう」
「邪魔? 儂はあそこのエネルギーを崩さないように気を配って、一本ずつプラスエネルギーとマイナスエネルギーを――」
「それが、余計だというのだ。もし、その存在が――大きなエネルギーを秘めた木が、しかもプラス、マイナス両方が並んで生えていると、魔物界に知れたら?」
「……」
「――お陰で、あの木の存在が災いを呼び寄せることとなった。魔物たちが襲ってくれば、貴方のアバターは、危険に脅かされることとなろう」
「そんな……」
「後先考えて行動せんからだ」
「なら、抜いてしまえばいい」
「無茶言うな。あんなでかいエネルギーを秘めた実をつけた状態ですぐに抜けるか。あれは誰にも触れさせないよう、徐々にエネルギーを抜いてからでないと処分できない」
◇◇◇
ある日、あの二本の木の側に来た時、先にそこにいたエバに声をかけられた。
「ねえ、アダム」
エバの様子がいつもと違う――瞳が潤んでいて、動きもなんだかぎこちない。
「どうした? どこか具合でも悪い?」
私は彼女を紅い実の木陰に招き入れた。
指が彼女の肩に触れると、彼女の体がびくんと跳ねる。
エバがびっくりしたので、私も驚いた。
――一体、なんだ?
こんなこと、初めてで、どうすればいいわからない。
「なにか、変な物でも食べたのかな?」
すると、彼女は、私からすっと視線を逸らした。
まさか――
「まさか――」
エバの視線は足元を漂っている。
「……」
まさか――
「まさか――、食べ、た?」
視線を落としたまましばらく考えたあと、なにかを決心したようにエバは私を上目で見つめた。
「だって……」
「食べたんだな?」
「だって、蛇が――そう、蛇が、食べていいって。食べたら、私たちはもっと良くなれるって」
「どうして――」
エバは私の問いかけなど耳に入らない様子で、うっとりとその時の様子を語り始めた。
「紅い実を、食べたわ。甘くて、酸っぱくて、胸の奥がきゅっとなったけど、でも、それも、しばらくしたらおさまった。――でもほら、見て。私は終わらなかった。きっと、食べてはいけないのは、もう一つの黒い方なのよ」
「エバ……」
エバは頭上に生っている、紅い実に手を伸ばした。
「アダム、あなたも食べてみて。今まで食べたことのない、不思議で素敵な味よ。――終わりなんかじゃない、新しい始まりだわ」
差し出された実は、ツヤツヤと紅い。これまではそんなこと思いもしなかったのに、先ほどのエバの台詞と相まって、美味しそうにすら見える。
「さあ、食べてみて」
言ってエバは、それをこちらへ突き出す。
私は心の中で葛藤していた。
「さあ」
それでも手を伸ばさない私にしびれを切らしたのか、エバは持っていた実をがりりと噛んだ。
ぱぁぁっと香気が立ち、私の鼻をくすぐる。腹はすでにそれを欲しがってさえいる。
実を持っていたのとは反対の手で、エバが私の顔を引き寄せ、唇に口付けた。
唇を割って、果肉が押し込まれる。
甘酸っぱい香りが口の中に広がった。
継いで、ねっとりとした柔らかい感触が舌に絡まってくる。
エバの言う通り、甘さと酸っぱさが同時に体の中を駆ける感覚はなんとも表現し難い。そして、それを表現しようと思えば思うほど、胸の奥がきゅぅと締め付けられるようだ。
「エバ……」
◇◇◇
「彼らは、禁を破った。それを口実に、喜びの園から、出してやるがいい。そして、エデンはあの実のエネルギーが消滅するまで立ち入り禁止――天士界で厳重に管理する」
もうゼウスに反論する気配はなさそうだった。
これで自分の考えなさを反省してくれればいいとルシフェルは思う。
「彼等はは、やっていけるのか? ――エデンの外で」
力なくゼウスが呟いた。
「神満長のアバターだ。できるに決まっている。――そのために知恵を与え、まっさらなフィールドも用意した。彼ら自身で、その知恵を使い新しい世界を築いていくんだ」
「だが、生命の木のエネルギーがないと――、彼等は、不完全だ」
「だから、いいんだろう」
「――どういう意味だ?」
「不完全だから、完全を目指す。目指すものがあれば、そちらに向かって進歩し続けられる。――そうすれば、ひょっとしたらいつか、彼らの内なるエネルギーは神気界にまで到達することが、できるかも知れん。――その時は、貴方の望み通り、ここへ迎え入れてやるがいい」
ゼウスは、液晶盤の中に映し出される二人を見た。
自分たちが裸であると――それが恥ずかしいことだと知った彼らは、陰部を葉で隠し、背中を丸めて、ミカエルたちにエデンを追い出されていくところだ。
「せめて、服でも着させてやれないか」
ルシフェルが首肯でゼウスを促すと、彼は二人に毛皮を用意してやった。
天士界の――自室に戻ったルシエルは、改めて、今回の件の意味を考えてみる。
新世界が創造された。
時空を管理する神々のサポートとしての存在として、天士の仕事が増えた。
アダムとエバは子孫を増やし、彼らは工夫しながら生活をしていく中で進歩を続けるだろう。
彼らの進歩に従って、天士のサポートも変化していくだろう。
天士長として、その覚悟をもって今回の計画を進めてきた。
だからそれはそれでいい。
けれど、なにかすっきりしないものが心に残っている。
ルシフェルは、自分の中で消化しきれていない想いを炙り出してみる。
不完全だから、完全を目指す。目指すものがあるから、そちらに向かって進歩し続けられる――
果たして、天士たちは、どうだろうか――