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虹の橋を渡ったゾウ

作者: 松岡 繁

上野動物園で長年飼育係だった福田三郎が、園長代理になった。戦時体制下の帝都東京で福田を待っていたのは、ゾウやライオンなどの猛獣を処分せよという非情な命令だった。福田らの抵抗も虚しく、動物処分命令は実行に移された。絶食してやせ細り、福田に芸をして餌を求めるインド象のトンキー。職員の誰もが、動物たちの為に慟哭した。


戦後「妹にゾウを見せたい」という小学生の投書が、インド政府を動かした。ネルー首相は日本の子供たちのために、インド象のインディラを贈る事にした。福田たちは全国の子供たちにゾウを見せたいと、移動動物園を企画する。インディラは全国の子供たちから熱烈歓迎された。

第1話「動物処分命令」


 1942(昭和17)年4月18日

午後12時25分、帝都・東京に

初の空襲警報が出された。不気味に

鳴り響くサイレンの音に重なって、

双発の爆撃機1機が高度500

メートルの超低空で、上野動物園

上空を中野方面に飛び去っていった。

この時の目撃者によると、飛行士は

オレンジ色のマフラーをしていたと

いう。


 動物園は土曜日の昼間という

こともあって、1300人の人出で

賑わっていた。人々は動物園警備班

の誘導で安全地帯に退避してけが人

などは出なかったが、誰もが不安と

驚きのまなざしで上空を見上げて

いた。真珠湾攻撃の大勝利で、

アメリカ太平洋艦隊は全滅した

はずだった。


 この日、アメリカの空母・ホー

ネットは、千葉県犬吠埼東方

1100キロの海上にあった。

ドゥリットル陸軍中佐が指揮する

16機のノースアメリカン・B25

中型爆撃機が、午前9時から10時

にかけてホーネット飛行甲板から

飛び立っていった。東京方面に

13機、名古屋・大阪・神戸に

各1機ずつだった。


 B25の航続距離は2170キロ。

ホーネットは日本領海のレーダー網

の盲点をつき、B25が目的地を往復

するに足るぎりぎりの地点に接近した

わけである。この決死的作戦の意図は、

これから反撃に転じるアメリカ軍の

意気込みを示したもので、いわば

大々的なデモンストレーションで

あった。


 この日の空襲による被害はほとんど

なかったが、帝都上空を敵機に侵された

日本国民の精神的衝撃は大きかった。

ホーネットは作戦終了後、ただちに

反転して真珠湾基地に引き揚げて

いった。


 福田三郎は上野動物園の園長室で、

空襲警報を聞いていた。彼は沈痛な

表情で、机の上の書類を見ていた。

表紙には「動物園非常処置要綱」と

書かれてあった。昭和16年8月

11日に制定されたこの要綱には、

動物園における危険動物に対する

非常処置がこと細かく記載されて

あった。処置とは即ち、猛獣の銃殺・

毒殺の事である。


 猛獣はその危険度によって、第一種

の熊・ライオン・象・虎などの24

種類から、第四種のカナリア・亀

などに分類されていた。そして処置

の時期について、「第一期の防空下令・

第二期の空襲の時に処置の準備を完了

させ、第三期の空襲による爆撃火災の

危険近接したる時、近接の程度に

応じて第一・第二種動物を順次処置し、

更に危険のおよぶ時は第三種動物も

順次処置す」と定められていた。


 福田はこの時、園長代理という立場

にいた。園長の古賀忠道が応召され、

そのあとをうけた形だった。福田は

1894(明治27)年9月15日、

杉並区高円寺に生まれた。東京農業

大学高等科を卒業し、翌年8月から

上野動物園に勤務していた。以来

20年間、飼育係として動物たちと

過ごしてきた。小太りの温和な人柄

だった。


 東京が空襲されるなど、ありえない

事だった。だがその、ありえない事が

起こったのだ。福田は動物処分の悪夢

を脳裏に描き、慌てて振り払った。

その福田の心配をよそに、日本軍が

占領したアジア・太平洋の広大な地域

からは、動物たちが続々と送り届け

られてきていた。入園者数も順調に

伸び続け、昭和16年度には314万人

に達した。園内を歩いている限り、

戦争前とさして変わらぬ穏やかな光景

だった。


 本土空襲という事態に、海軍軍令部

は南方作戦を延期した。真珠湾攻撃で

撃ちもらしたアメリカ太平洋艦隊の

航空母艦を沈め、東の守りを万全に

しておく必要があったからである。

ここに、ミッドウェイ・アリュー

シャン攻略作戦が実行に移された。

参加艦船350隻、航空機1000機、

兵員約10万人という空前の大部隊が、

ミッドウェイ島海域に集結した。


 だが日本連合艦隊は、空母4隻、

艦載機285機と多くのエース

パイロットなど3500人の戦死者

を出し、大敗北を喫した。これを境に

アメリカ軍は猛反攻に出た。ガダル

カナル島撤退をはじめとして、ポート

モレスビー、アッツ島、タラワ島、

マキン島、アドミランティ諸島、

マーシャル諸島、エンチャビ・エニ

ウェトク・メリシン各島と、太平洋

各島で日本軍は次々に玉砕(全滅)し、

日本軍防衛網がじりじりと狭められ

ていった。


 1943(昭和18)年7月1日、

東京市が都政に移行した。それに

伴って上野動物園も、「東京都上野

恩賜公園動物園」と名を改めた。

東京都の初代官選首長には、大達

茂雄が就任した。彼は昭和14年

1月から8月までを、平沼麒一郎

内閣の内務次官。昭和17年3月

には、昭南市(シンガポール)

市長兼陸軍軍司政長官を務めると

いう経歴の持ち主だった。上野

動物園は実質的に、内務官僚・

大達茂雄の管理下に置かれたと

言ってよかった。


 都制誕生の目的は、「皇都の統一

および簡素強化と処務の敏活適実を

はかり、戦時行政の運営にわずかの

間隙なからしめ、もって大東亜戦争

の目的完遂に寄与せんとする」と

ある。要するに、戦争の完遂が全て

において最優先されるということで

あった。


 福田は前日の6月30日、東京市

最後の式典に参列した。「国防を

優先し、戦争遂行に第一の任務を

持つ都制移行」という、陸軍大将・

岸本綾夫市長の言葉が胸を刺した。

初空襲以来抱えていた漠然とした

不安が、「猛獣処分」という具体的

な現実になって迫ってきたことを

直感したからである。


 大達は都長官就任と同時に、関係者

に戦局の劣勢と東京大空襲が必至で

ある状況を説いた。軍部が国民に流す

情報と、現実の戦況の間には大きな

開きがあった。マスコミを通じて説く

事は出来なかったが、首都防衛体制

の強化、建物疎開、学童疎開を積極的

に推進してゆくためには、都庁職員に

危機を訴える必要があった。計画局

公園課長・井下清もその1人である。


 井下は山本計画局長と共に、都

長官室に呼ばれた。大達は2人に、

海軍のミッドウェイ大敗やガダル

カナル撤退の事実を話した。


「だが敗れたわけではない。一億国民

が一丸となってこの戦争にあたれば、

十分に戦える。さる日露の戦いに

おいても、戦前の圧倒的不利を

くつがえして大勝利を手中にして

きた。問題は前線で戦っている者と、

内地の国民の心構えの差だ。そのため

にはまず、皇都民たる我々がその模範

とならなくてはならない。防空演習

や各職場での軍事訓練を、より強力

に促進することは必要だろう。万一

の空襲に備えて、建物や学童を疎開

させる準備を進めなければならない。」


 大達は井下をじろりと見てから、

「それに・・・」と言った。

「公園緑地課長の井下君だったね。

君が管理する上野動物園の猛獣だがね。

処分もやむをえないだろう。猛獣を

処分することによって、国民に警告

を促すのだ。我が国は、皇国の存亡を

賭けた戦争をしているのだよ。私情

を捨てて非情に徹する事だな。」


 井下の顔から血の気が引いた。

彼は温厚で丸顔の、福田の事を思った。

飼育係の菅谷や村沢のことを思った。

誰もが、動物たちに自分の愛情の

ありったけをそそぎこんできた男

たちだった。彼らに、猛獣処分の

命令が出たことを伝えなければなら

なかった。


 福田は電話で井下に呼び出された。

「ついにきたか・・・」

福田は直感した。井下の沈んだ口調が、

その事を雄弁に語っていた。福田は机

の引き出しから、一通の書類を出した。

殺さなければならない動物の一覧表

だった。


「ホクマンヒグマ1頭・北極熊2頭・

マレー熊1頭・アカ熊1頭・日本熊

3頭・ヒグマ1頭・朝鮮クロクマ1頭・

トラ1頭・ヒョウ2頭・黒ヒョウ2頭・

コヨ―テ1頭・シマハイエナ1頭・

チーター1頭・ライオン4頭・満州狼

5頭・河馬3頭・アメリカ野牛2頭・

クロザル1頭・ブタオザル1頭・

マントヒヒ6頭・象3頭・ガラガラ

ヘビ1頭・マムシ2頭・ニシキヘビ

2頭」


 以上が上野動物園の第一種危険動物

である。これに井の頭恩賜動物園の

北極熊1頭と、日本熊2頭を合わせた

総計52頭が、さしあたって殺さな

ければならない猛獣だった。福田の

書類には、動物名と頭数の横に、

硝酸ストリキニーネと青酸カリによる

1頭あたりの薬物致死量が細かく記載

されていた。


 福田は都庁へ向かう道すがら、せめて

肉食獣以外の動物を救う事を考えていた。

疎開という方法があった。名古屋・

仙台などの地方動物園に象などを疎開

させるのだ。福田は1頭でも多くの

動物を救う為に、知恵のありったけを

絞り出そうとしていた。


 上野動物園には、象が3頭いた。

インド象のオス「ジョン」と、メスの

「トンキー」「ワンリー」である。

ジョンは1924(大正13)年10月

に購入された。当時からやや狂暴だった

が、都制に移行した7月頃から暴れ方が

ひどくなっていた。それはまるで、自ら

の死期を予感しての行動だったのかも

しれない。


 ジョンは前足を短い鎖で繋がれていた。

井下と福田は、自主的にジョンを殺す事

にした。銃殺は付近の住民に不安を

与える事から、毒殺の方法がとられた。

しかしジョンは、毒入りのじゃがいもを

より分けて食べた。やむなく絶食による

「餓死」という方法をとらざるをえなく

なった。


 井下は福田に、「一ヶ月以内に毒殺」

という大達の命令を伝えた。覚悟して

いたとはいえ、無念だった。


「戦争なのだ。」

福田はそう言い聞かせ、涙をこらえながら

都庁を後にした。


 上野動物園に戻った福田には、つらい

園内巡視が待っていた。正面ゲートを

歩くと程なく、ペンギン池がある。蒸し

暑い夏の午後だったが、ペンギンたち

は涼しそうに泳いでいた。いつもと

変わらぬのどかさだった。孔雀舎・

鳩舎・馬舎を過ぎると、その先に

猛獣舎があった。虎・熊・ヒョウ

などの猛獣たちは、福田の足音や匂い

を覚えていて、親愛の情をこめてすり

よってきた。福田は動物たちと目が合う

と、さっと視線をそらした。罪悪感で

いっぱいだった。


「お前たちが一体何をしたというのだ。」

その理不尽さがやりきれなかった。


 その同じ頃、公園課長の井下は手紙

を書いていた。宛先は北王英一・名古屋

東山動物園園長と、朴沢三一・仙台市

動物園園長である。


「拝啓


はなはだ突然には候とも 極秘にて

御内意相うかがいたく、一筆啓上

つかまつり候。陳者、時局ますます

進歩、国威宣揚されつつあることは

ご同慶のいたりに存じあげ候。

しかしその一面には 敵反抗に

対する万全の対策を講ずる必要を

生じ、当地の如きはまず第一目標

となりえることは想像される結果、

当動物園としては都心部にあること

ゆえ、猛獣の疎開をすることと

相決し候。当方に比し、安全なる

貴園において収容のご希望有り候へ

ば、避難管理の名をもって御引き

渡しいたしたく、結局は寄贈または

交換等の取り扱いと相成るかととも

存じますが、これは平和に相成った

後のご協議と存じ候。貴方におかれ

てもご都合有りしこと、かつ現在

運輸関係はなはだ窮屈と相成りし

おり候が、もし希望の有り候ば、

折り返し貴意相伺いたく候也。」


 記

1・豹2(オス1・メス1)繁殖可能

  なるもの

1・黒豹2(オス1・メス1)繁殖可能

  なるもの 以上名古屋へ

1・象1(メス1)約24歳 仙台へ


「せめてこいつらだけでも・・・」

井下は井下で、理不尽な命令に精一杯

抵抗していた。



○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第2話「無念の涙」


 東京都の大達長官から猛獣

処分命令を受けた福田は、翌日

の朝上野動物園の職員全員を集めた。


「第一種危険動物27頭を、1ヶ月

以内に毒殺せよとの事です。本日

閉園後、ただちに実行に移します。

なお秘密を厳守する為に、この事は

諸君の家族にも話さないように

お願いします。」


 福田は戦時猛獣処分の命令を

伝えた。誰もが無言だった。


「あの・・・象もですか?」

長い沈黙の後、飼育係の菅谷が訊ねた。


「ジョンはしょうがないでしょう。」

福田が小さな声で答えた。狂暴になって

いたジョンの絶食は、5日目に入って

いた。


「しかしトンキーとワンリーは何とか

救ってあげたい。彼らは平和の使者

なのだ。草食で性格が優しく、子供

たちの人気者でもある。戦争で殺し

たくない。」

福田と菅谷は共に、トンキーやワンリー

の糞を頭からかぶった仲だった。


 閉園後、最初の処分が始められた。

毒殺には硝酸ストリキニーネが用い

られた。ホンヒグマ1頭・ニホン

ツキノワグマ1頭に、ふかしたサツマ

イモに3グラムの薬を混ぜたものが

与えられた。2頭はもがき苦しんだ後、

20分後に息絶えた。翌日はライオン・

ヒョウ・チョウセンクロクマ1頭が、

同じように毒殺されていった。


 福田は眠れない夜を幾晩も過ごす

事になった。食欲もなかった。疲れ

果ててウトウトすると、夢に手にかけた

動物たちが現れてうなされた。他の職員

たちも同様だった。誰もが皆やりきれ

なかった。


 井下の手紙の回答はすぐに届いた。

仙台からは、象を譲り受けたいとの

回答。名古屋からは市長と相談の上

との事だった。名古屋は曖昧だが、

仙台は吉報と言えた。事実8月23日

に、仙台市動物園の石井是順技師が

福田を訪問し、象の運搬に関する

具体的な打ち合わせや費用の問題を

話し合った。仙台では、豹のオスも

必要という事だった。


 福田は早速、田端駅貨物係の佐藤

定吉主任を訪ねた。象の輸送費用は

180円。夕方出発すれば、翌日正午

までには仙台に到着出来るとの事

だった。福田は一筋の光明を見出した

思いだった。


 福田はその足で上野警察署へ行き、

万全の段取りを整えたうえで都庁の

井下を訪ねた。あとは井下が大達長官

の了解をとりつければ、象の命は

助かるまでになった。


 福田は動物園に戻って、井下からの

電話を待った。夕方、電話が鳴った。


「だめだったよ。」

井下が力なく言った。

「仙台で象に何かあったら責任問題に

なると。命令を曲げて独断で事を行う

とは何事かと、こっぴどくやられたよ。」


「責任問題・・・」

 福田はそう言って絶句した。やり場

のない怒りが湧いた。無念であった。

福田や井下の思いは、戦争や官僚組織

という、人格を持たず融通の効かない

システムの中で押し潰された。全ての

努力は水泡に帰し、わずかな望みも完全

に絶たれたのだった。


 福田は象舎の中に入っていった。

飼育係の菅谷吉一郎と渋谷信吉が

ジョンを見ていた。


「やせたなあ・・・」

福田がぽつんとつぶやいた。


「がんばるなあ、ジョン・・」


ジョンはむうらめしそうな、哀しげ

な目を福田に向けた。


「おまえ人間のこと、身勝手なやつら

だと恨んでいるだろうなあ・・・」


 ジョンが長い鼻を左右に振った。


「許してくれよなあ、ジョン。インド

のジャングルなら、あと20年は生き

られたのになあ・・・」


ジョンの目は澄んでいた。優しい目で

福田を見た。絶食が始まってから17日

目だった。ジョンは骨と皮ばかりの姿で

立っていた。ふっと、ジョンの鼻が高々

と持ち上がった。遠吠えのような声が

細く長く象舎に響いた。


「ジョン・・・」


福田・菅谷・渋谷が、ほとんど同時に

叫んでいた。ジョンは鳴き終わると、

ドサッと床に崩れ落ちた。午後6時

30分、ジョンは息絶えた。隣の象舎

で、メスのトンキーとワンリーが鳴いて

いた。哀しい響きの鳴き声だった。


 トンキーとワンジーは、大達長官に

よる疎開拒否の翌々日、8月25日

から絶食が始まっていた。トンキーは

1924(大正13)年10月にジョン

と共に購入されたメスの象である。

よく芸をして見せる、子供たちの

人気者だった。おとなしく優しい性格

だった。


 ワンジーは1935(昭和10)年

6月、タイ国少年団から贈られた、

日タイ友好の使者だった。日本名を

「花子」と言った。ワンジーは、来日

の際20歳。妹分のランプーンと共に

やって来た。6月3日、大阪商船

バタビア丸で神戸港に入港し、ここで

ランプーンは大阪動物園へ。ワンジー

は翌4日、特別仕立ての大貨車で上京。

午後8時半、汐留駅に到着した。


 出迎えにはタイ国公使プラ・ミトラ

カム・ラサク、同令息令嬢はじめ、同

公使館員、東京市の宮川保健局長、

井下公園課長、古賀動物園長、地元の

芝少年団員など多数がつめかけた。


 やがてタイ国から付き添ってきた

象使いのピラト、ケンユー、チェンの

3人や、駅員、動物園係員の手によって

10時頃無事引き出し作業を終了した。

ホ―ムの広場でバナナなど数貫のもてなし

をうけた後、市内の静まるのを待って、

上野動物園に向かった。


 汐留駅を出て蓬莱橋を渡った時には、

午前1時を過ぎていた。だが見物人の

人出は沿道をうめていて、時ならぬ

パレード行進となった。新聞写真班

のフラッシュが、至るところで光る。

沿道の要所要所には、警官が提灯を

持って立っている。昭和通りを片側

完全通行止めにして、ワンジーは行進

した。横合いからうっかり飛び出した

円タクは、「ヘッドライトを光ら

せるな」と、警官にどやされた。


 ワンジーはこの時代のスーパースター

だった。午前2時40分、何事もなく

動物園に到着して、ただちに新装の

象舎に収まった。ここでうけた最初

のご馳走は、畑からとりたてのジャガ

イモだった。


 この華やかな市民あげての歓迎から

7年。ワンジーはその象舎の中で死を

迎えようとしていた。ジョンが死んだ

8月29日には、アメリカ野牛の頭部

を金槌で打って殺し、トンキーと

ワンリーを残して猛獣処分は終了

しようとしていた。


 殺し方は基本的に毒殺なのだが、

毒薬を与えた後、槍で刺殺される

動物も多かった。ニホンツキノワグマ

は、3日間絶食の後、寝ているところ

にロープを首に巻きつけ、数人がかり

で引っ張り15分かけて窒息死させた。

ニシキヘビは、首に縄をかけて頭部を

切断した。摘出された心臓は、それから

1時間半も動き続けていた。


 遺体は陸軍獣医学校生の手で解剖され、

毛皮は保存、珍獣は剥製、内臓や脳

は標本となり、残りの骨肉は動物園内

の慰霊碑前に埋葬された。処分された

動物は、「時局捨身動物」と呼ばれた。

 9月2日、猛獣処分の内容が新聞

各社に公表され、4日には慰霊法要が

行われた。井下公園課長は、席上挨拶

を述べた。


「このような非常措置を取らざるを

得なかった時局の苛烈さをよく考えて

いただきたい。」

井下の声は震えていた。


 慰霊祭には、近所の子供たちも多数

つめかけた。「殉難猛獣霊位」と書か

れた小さな白木の位牌の前で手を合わせ、

焼香の煙は長々と絶えることがなかった。

また、福田のもとには全国から、数多く

の手紙が寄せられた。


「どうぶつえんのおじさん、けだもの

ころしてかわいそう。ぼくは、いままで

どうぶつえんがいちばんすきだった。

トラさん、ライオンさん、シロクマさん

もすきだった。けれどもうぼくのすきな

どうぶつえんに、もうじゅうはいない

んだね。さびしいな。」


 「福田さん、何もあなた1人の責任

じゃない。皆苦しんでいる。私も力が

足りなかった。」


井下は日毎に痩せていく福田を、事ある

ごとになぐさめていた。福田はいつも、

黙ったまま力なく笑うだけだった。


「あいつらの事、私は生涯忘れない。

苦しみ抜いたあいつらの姿を、この目

に焼き付けて生涯背負っていくつもり

です。」


福田は何度も何度も、同じ事を言って

泣いていた。


 トンキーとワンジーは、空腹に耐え

ながら生きていた。法要の日まで、

福田は少しずつそっと餌を与えていた。

トンキーは福田や菅谷の姿を見ると、

鼻を高く持ち上げて前足を折った。

トンキー得意の「芸」だった。芸を

すれば餌がもらえるという思いが

あったのだろう。トンキーは福田の

一挙手一投足を見続けた。哀願する

ような目だった。


 9月11日、ワンリーが死んだ。

絶食から17日目だった。トンキーは

それより12日あまりも生き続け、

9月23日午前2時42分、餓死した。


「来たる世は 人に生まれよ 秋の風 」

福田は、送られてきた短冊の一首を、

何度となく口にしていた。


 1944(昭和19)年になると、

全国の動物園で猛獣処分が相次いだ。

3月に大阪市天王寺動物園でライオン

など10種25頭が、京都市動物園

ではクマ・ライオン等13頭が処分

された。続いて仙台市動物園、福岡市

記念動物園が、猛獣処分の後閉鎖された。


 名古屋市東山動物園は、立地条件の

良さから猛獣飼育が続けられていたが、

12月13日の名古屋市大空襲の際、

ヒョウ2頭、トラ1頭、クマ2頭、

ライオン2頭が銃殺された。さらに

昭和20年2月15日の空襲の際には、

動物園も被弾しヤギュウなどが直撃弾

で即死したが、インドゾウのメス2頭

は終戦後まで保持し続けた。


 上野動物園では、象舎に水牛が飼わ

れたほか、トンキーとワンジーのいた

象舎には、人間の棺500個が保管

されることになった。猛獣舎には、その

まま猛獣の剥製標本が展示された。


 昭和20年3月10日の東京大空襲

では、動物園に直接被害はなかったが、

4月13日の空襲では動物園にも

150個の焼夷弾が落下し、象舎は

ほとんど焼け落ちた。動物園は相次ぐ

空襲などにより、飼料の入手が困難に

なり、閉鎖寸前の状況に追い込まれた。


そして8月15日になった。終戦だった。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第3話「ネルーの娘」


 1949(昭和24)年2月27日の

東京日日新聞に、一通の投書が載った。


「妹に象が見せたい。古賀園長さん 

早く買ってください」という見出し

がついていた。


「ぼくは どうぶつえんがだいすき

です。せんそう前にとうきょうに

すんでいたころ、お父さまにつれ

られてよくどうぶつえんにゆきました

が、このあいだ、がっこうのえんそく

でどうぶつえんにいったら、ぞうや

ライオンがいなかったのでがっかり

しました。


いもうとはことし9つでぼくと

いっしょにどうぶつえんにいったとき

はまだちいさかったので、ぞうや

ライオンはおぼえていません。


そしてぞうの「え」をみて、ぞうは

うしよりおおきいの?とおかしなこと

をいいます。きょうお父さまが

ぎんこうからおかえりになって、

ゆうかんをみながら


「インドのおじさんがぞうをおくって

くれるといっているのに、古賀えん長

さんはお金がなくてこまっている」と

かいてあるが、みんながすこしずつお金

をけんやくすればきっとかえるだろう、

とおっしゃいました。いもうとは

ほんとうのぞうをみたいというので

ぼくは早くどうぶつえんにぞうがくる

ように、お父さんからいただいた

お小づかいをけんやくしてたくさんの

おかねをあつめて、はやくぞうをかえる

ようにしてあげるとよいと思います。」


 投書の主は、横須賀市逗子(現・

神奈川県逗子市)清泉学院小学校

三年生の近藤晃一(11歳)で、10円

の小為替が同封されていた。この投書

は「動物園に象を」という声の高まり

に拍車をかけた。


 台東区子供議会は、当時日本で一ヶ所

だけ象が残っていた名古屋東山動物園の

「エルドー」と「マカニー」をなんとか

貸して欲しいと依頼した。しかし象の

健康状態が良くないのと、全国の子供

たちに不公平になるのを理由に、願いは

実現されなかった。この時東山動物園の

北王園長を訪ねた大畑敏樹・原田尚子の

2名は、帰京後今度は国会を訪れ、松本

参議院議長に「ゾウ輸入の請願書」を

手渡した。


 一方、朝日新聞社と東京都民生局は

「象」のキャンペーンをおこし、子供

たちからインドのネルー首相に宛てた、

「象をください」の手紙815通を

集めた。手紙は、来日中のインド人

貿易商 H・K・ニヨギを通じて、

ネルー首相に手渡される事になった。

また「象を見た事のない子供たちが

描いた象の想像図」という奇妙な絵が、

インド大使館にあたるインド代表部

(丸の内・郵船ビル内)に届けられた。


 当時のインドは、前年インド独立

の父・マハトマ・ガンジーが暗殺され、

独立後の混乱と内紛、カシミール国境

紛争などで疲弊し、貧困にあえいで

いた。ネルー首相は多忙の極にあった。

だが、日本の子供たちの熱意はネルー

首相に届いた。7月16日、占領軍

総司令部は通産省に正式な輸入許可

を通知した。上野動物園の、空襲で

焼け落ちた象舎に象が戻ってくること

になったのである。


 吉報は続いた。読売新聞社と講談社

のキャンペーンにより、タイ国より

2歳半になるメスのインド象「ガチャ子」

が送られる事が決まった。8月22日、

ガチャ子はバンコクを出帆し、9月2日

神戸港に到着した。


 8月29日、日本郵船所属の「延長丸」

がカルカッタを出港した。ネルー首相

から日本の子供たちに贈る動物大使が

乗船していた。名前を「インディラ」

という。3年前にマイソール蕃王国の

ミソレ森林地方で捕らえられて、材木

運びなどに使役されていた、15歳に

なるメスのインド象だった。ネルー

首相の愛娘インディラの名が与えられた。


 延長丸の船内で、インディラの横に

じっと立っている男がいた。飼育係の

菅谷吉一郎だった。菅谷は福田と共に、

猛獣処分の苦渋をなめ、ジョン、ワンジー、

トンキーの最期をすべて看取っていた。

インディラを見つめる菅谷の目には、

万感の想いがこもっていた。


 9月4日、上野動物園に「ガチャ子」

が到着した。ガチャ子は公募の結果、

日本名「はな子」と名づけられた。

ワンジー(花子)にちなんだものだった。


 9月23日。インディラが東京・

芝浦岸壁に到着した。古賀、福田ら

動物園関係者が船上でインディラを

出迎えた。


「菅谷君、ご苦労様でした。」

古賀と福田は、菅谷とがっちり握手

した。握った手に自然と力がこもった。


「何とか無事到着しました。途中

船酔いで餌を食べなくなったので心配

しましたが。」


「インディラか。子供たちの努力の

おかげだな。」

古賀がインディラを見た。


「やさしそうなお嬢さんだな。」

福田が言った。


 真夜中だというのに、子供たちは

眠れなかった。インディラの到着は

皆知っていた。迎えに行こうという

相談がまとまった。神田岩本町の

あたりで、インディラ一行の提灯

行列に出くわした。


「ああっ、インディラさんだ。」


「わああっ・・大きいなあ・・」


「ばんざぁーい・・・」


子供たちは口々に「ばんざい、

ばんざい」と叫びながら、インディラ

の行列を出迎えた。


 9月25日午前2時40分、

インディラは無事上野動物園に到着

した。この時点で行列は子供たちを

含めて数千人に達していた。午前9時

の開門時には、1万人が集まり、午前

11時には4万人を突破した。

インディラは、戦時猛獣処分の暗い

記憶を消す平和の使者だった。


 10月1日、上野動物園象舎の前で、

インディラの「象呈式」が開催された。

インド代表部のD・G・ムルハーカ、

日本側から吉田茂首相、安井都知事など

をはじめ、4万人近い来園者が参加する

中で行なわれた。吉田首相はインディラに

バナナを与えるなど、終始ニコニコして

いた。普段は「人を食って」いた人物

なのだが。


 この式典で、ネルー首相から日本の

子供たちに贈られたメッセージが読み

あげられた。


「皆さん。私は皆さんのお望みによって、

インドの象を1頭皆さんにお送りする

ことを大変嬉しく思います。この象は

見事な象で、大変にお行儀が良く、

そして聞くところによりますと、体に

縁起の良いしるしをすっかり備えている

との事です。


皆さん、この象は私からのではなく、

インドの子供たちから日本の子供たち

への贈り物であるとご承知ください。

世界の子供たちは多くの点で似通って

います。ところが大人になると変わり

だして、そして不幸なことには時々

喧嘩をしたりします。私たちはこの

ような大人たちの喧嘩をやめさせ

なければなりません。そして私の

願いは、インドの子供たちや日本の

子供たちが成長したときには、おの

おの自分たちの立派な祖国の為ばかり

ではなく、アジアと世界全体の平和

と協力の為にも尽くしてほしいという

ことです。


 ですからこのインディラという名を

持った象を、インドの子供たちからの

愛情と好意の使者として考えてください。

インディラは東京でたったひとりぼっち

で、あるいは少し淋しがって遊び友達を

欲しがるかもしれません。もし皆さんが

お望みならば、インディラがこれから

自分の住処としてゆく新しい国で幸福

になるように、インディラの為にお友達

の象を贈る事も出来ます。象というのは

立派な動物で、インドでは大変可愛がられ、

しかも賢くて辛抱強く、しかも優しいので

す。私たちも皆象の持つこれらの良い性質

を身につけるようにしてゆきたいもの

です。終わりに皆さんに私の愛情と好意

を送ります。


 1949年9月1日 ニューデリー 

  ジャワハルラル・ネルー


 日本政府はインディラのお礼として、

カルカッタ動物園に「大山椒魚2尾」と

「小熊2頭」を贈った。台東区子供議会

からは、インド代表部を通じて、ネルー

首相に「藤娘」と「娘道成寺」の、2つ

の日本人形が贈られた。


 インディラとはな子の来園によって、

上野動物園関係者にようやく明るさと

活気が戻ってきた。「動物園復活祭」

「上野象祭り週間」「象歓迎こども大会」

「児童動物仮装行列」「象入京歓迎報告

大会」など、相次ぐ行事に職員たちも

多忙だった。ひと目インディラとはな子

を見ようと、連日動物園には長い行列が

できた。


「いいですか。インド象のインディラ、

はな子は、おもに木の葉・木の芽・タケ・

草・果物などを一日200キロから

300キロも食べるんです。インディラ

の大好物はリンゴです。象は大体、人間

と同じ60から70年も生きるんです。

こんなに大きくて力も強いのに、性格は

おとなしくてやさしいんですよ。

インディラは15歳ですから、君たち

より少しお姉さんですねえ。」


福田は子供たち相手に、インディラの

事を説明して聞かせていた。満面笑みを

たたえていた。


「おじさん。インディラの体重、何キロ

あるの?」


「インディラは約1900キロもあるん

だよ。君たちの50人分くらいはある

ねえ。はな子はまだ赤ちゃんだから

500キロぐらいかな。」


「それじゃあ、ウンチもすごいんだ。」

「そうだねえ、すごい量だねえ。」


子供たちは大笑いしていた。福田は

トンキーの事を思い出しながらも、

心をなごませていた。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第4話「アーシャとダヤー」


 1950(昭和25)年。古賀園長

のもとに、全国の子供たちから

「インディラが見たい」という手紙が

寄せられるようになった。戦後の荒廃

と混乱がどうにかおさまり、好転の

きざしを見せ始めた頃だった。だが

依然として人々は、胃袋も心も餓えて

いた。


 インディラの来日は、数少ない

明るい話題のひとつだった。


「インディラは日本の子供たちへの

贈り物です。地方へ巡回させる必要が

あるでしょう。」


古賀園長は福田や菅谷に、インディラ

の旅を準備するよう指示した。インディラ

来日に尽力してくれた朝日新聞社を

後援として、「移動動物園」という

企画が準備された。


 計画は微に入り細にわたって練りに

練られた。安井東京都知事を名誉会長

として、主催地各県知事が名誉会長と

して名を連ねた。実行委員長が上野

動物園園長・古賀忠道と朝日新聞社

企画室副長・遠山孝。移動動物園

総監督には、元陸軍軍医大佐・走尾

一三があたることになった。


 技術陣は、上野動物園から福田三郎、

菅谷吉一郎、村松善豊、佐藤保雄、

林寿郎、福田信正、東京都公園観光課・

木村四郎がその任についた。動物たち

は象のインディラの他、マントヒヒ1頭、

小熊2頭、タヌキ2頭、台湾猿1頭、

孔雀3羽、キバタン1羽、オオバタン

1羽、お猿の電車の運転手・カニクイザル

のメス「チャコ」と、ニホンザルのオス

「ハチ」、サバンナモンキー1頭の計

13種18点が選ばれて旅立つ事に

なった。上野動物園始まって以来の

大企画だった。


 「インディラ軍団」が全国の子供たち

に会う旅に出たのは、4月28日から

29日深夜にかけての事だった。田端駅

から特別列車に乗り、翌日最初の訪問地・

静岡市に到着した。


「インディラがやってきた!!」


 「インディラ軍団」は、各地で熱狂的

歓迎をうけた。象を見るのが始めてという

子供たちが大勢いた。目の見えない子供

たちも、インディラに触れた。インディラ

は常に優しい目を子供たちにむけて、

おとなしく対応した。


 5月7日まで静岡に滞在した後、8日

から18日までは山梨県甲府市。19日

から26日までを長野県松本市で過ごした。

松本市で、旅の疲れと寒さからインディラ

が倒れるという事件もあったが、走尾一三

獣医ほかの必死の治療によって翌日には

回復した。


 5月27日から6月4日が長野市。

6月5日から15日が新潟市。16日

から24日が山形市。25日から7月

6日が青森市。7月7日から13日が

札幌市。16日から22日が旭川市。

27日から8月2日が函館市。8月6日

から12日が秋田市。15日から21日

が盛岡市。24日から30日が仙台市。

9月2日から8日が福島市。11日から

15日が宇都宮市。18日から22日

が水戸市。25日から29日が群馬県

前橋市。そして9月30日、無事上野

動物園に帰り着いた。5ヶ月にわたる

旅だった。この間、のべ400万人の

人々がインディラのもとを訪れた事に

なる。


 期間中、どの会場でもネルー首相

からのメッセージが、彼の似顔絵と

共に大看板で展示された。日本人の

心の中に、ネルー首相とインディラの

名が刻みつけられた。


 また5ヶ月の間、総監督の走尾一三

と菅谷吉一郎の2人は、1日も休まず

テントの中でインディラと寝食を共に

した。インディラに見守られるように、

彼女の鼻先に仮設のベッドを作り、

走尾と菅谷は眠った。


 いつだったか、インディラの前で

福田が菅谷に動物処分の話をしたこと

がある。


「サイパンでは、野戦病院の看護婦が

患者に青酸カリを渡して服毒自殺したの

だそうだ。我々のしたことも、それと

同じ事なのだろうねえ。戦争というもの

は、いつもそうしたものなのだろうねえ。」


 福田も菅谷も、インディラの中に

「あいつら」を重ねて見ていた。骨と皮

だけの姿で、鉄柵にもたれて倒れていた

トンキー、ワンジー。ジョンの最期の

遠吠えも、耳の底深くにこびりついて

はなれない。消そうとしても消せない

記憶であり、深い深い傷であった。


「あいつら」は、虹の橋を渡って安らか

な国にたどり着けただろうか、と福田は

思い続けている。「あいつら」の死が、

声が、インディラを遠いインドの森林

から呼び寄せたに違いないと、福田も

菅谷も思いたかった。「あいつら」が

戦争の象徴なら、インディラは「平和」

の象徴だった。「平和」という言葉が

新鮮に輝いていた。


 1957(昭和32)年10月8日。

来日したネルー・インド首相は、娘の

インディラ・ガンジーと共に上野動物園

を訪れた。


「ホホゥ・・・」


8年ぶりのインディラとの対面に、

ネルー首相は目を細めた。


「ずいぶん大きくなりましたね。」

ネルー首相は古賀園長に話しかけた。


「来たときは1800キロしかなかった

のに、ちょうど倍の3600キロになり

ました。」


 ネルー首相はすなずきながら、手に

したリンゴをインディラに食べさせた。


「日本の子供たちがどんなに可愛がって

くれたかと思うと、楽しくてたまらない。」


インディラ婦人も、かごいっぱいのバナナ

をインディラに与えた。彼らを取り囲んで

いた幼稚園児や小学生の間から、いっせい

に拍手が沸き起こった。


 ネルー首相は10月14日、羽田発の

インド航空特別機で帰国の途についた。

ネルー首相はどこへ行っても大変な人気

で、「どんな映画スターもネールさん

にはかなわない」と、案内役の外務省員が

舌をまいた。


 当然の事ながら、帰国に際しては

お土産が殺到した。東京都からは名誉

都民の称号と「東京都を開く鍵」。

広島市では「平和を開く鍵第一号」。

慶応大学と早稲田大学からは名誉博士号。

東京大学からはインド哲学関係の書籍。

行く先々の府・県知事からは、土地の

物産・工芸品。岸首相は熊の子2頭。

北海道知事はリス10匹。そして8年前

の子供たちからは、絵や作文が贈られた。


 インディラはその後も子供たちの

人気者として元気に生き続けたが、

1983(昭和58)年8月11日未明、

49歳の天寿をまっとうして息を引き

取った。眠るような静かな死だった。


 インディラの死に際して、古賀忠道・

東京動物園協会理事は、朝日新聞の

コメントで次のように述べている。


「ネルーさんから、インドと日本、

そして世界中の子供たちが仲良くし、

大きくなったら世界平和の為に貢献して

欲しいという願いを込めて贈るという

メッセ―ジが添えられていた。移動

動物園でも、現在のパンダ以上の

ブームを巻き起こしたものです。

平和のシンボルとして、長い間ご苦労

さんでしたと言ってやりたい。」


 インディラの死後、上野動物園には

「メナム」「ジャンボ」「アーシャ」

「ダヤー」という4頭の象がいた。

このうちアーシャとダヤーは、インディラ・

ガンジー首相の贈り物である。1984年

5月、中曽根首相がインドを訪問した際、

「インディラ」の死が伝えられた。

インディラ首相は、即座に代わりの象の

プレゼントを約束した。「アーシャ」は

ヒンドゥ後で希望を、「ダヤー」は

「慈悲」を意味する。


 その同じ年の1984年10月31日

午前9時18分。インディラ・ガンジー

首相は3人のボディガードに短機関銃・

ピストル8発を撃たれ、4時間後に死亡

した。インドでは「女帝」と呼ばれた

インディラ首相だが、日本では

「象のおばさん」として親しまれていた。

アーシャとダヤーが「形見」になった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 内容は十分に分かります。が、全体にもう少し臨場感があれば、という感じが致します。
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