曖昧の欠片
赤ん坊が声を上げて泣く理由が、生きるための本質的な本能であるなら、私だってそれくらいに単純で、至極シンプルな存在でいたい。この世にいる生物で、きっと一番賢いのは赤ん坊だ。そんな気がしている。
愛されている確認をすることに、効果的であるのは泣き喚くこと。泣いても誰も顔を覗きこんでこない。それは自分が愛されていない証拠だ。だから女子が失恋をしたとき、彼女たちは泣くんだろう。友達に慰められて、「まだ愛されている」と安堵するのだろう。例え愛されていなくたって、安っぽい言葉なら誰でもかけられることを、心の奥底では知っているくせに。それでも言葉に救われて、いつか時間のどこかに投げ捨ててしまう。
簡単に涙が出て、確認ができるのは愛されて育った証だと、そう思っている。誰も顔を覗き込んでくれなかった赤ん坊は、泣くことに疲れて飽きて絶望して、その先の人生で涙を流すことはもうない。頬を濡らすのは涙ではなくなる。何かしらの欠落を持って生きていく。
だからきっと私も、何かが欠落している。漠然とした緩やかな恐怖が、私の中に住み着いているようで、気を抜けばいつでも喰われてしまう。丸呑みにされてしまうのだ。それが何よりも恐ろしいのに、いっそ早く喰ってくれと願う私も、不定期的に現れる。死ぬことは怖い。それでも、その安らぎがほしい。矛盾している。そんなことは分かりきっている、はず。うまく言い表せない私の脳内では、単語という単語が自由に飛び交い、答えが出せない。
いっそ、言葉を知らなければシンプルだった。だから赤ん坊は無垢で、純粋で賢いのだと思う。無駄なことは一切ない。愛されなければ死んでしまうことが脳にインプットされている。だから愛される。それが羨ましくてたまらない。
そんなことを今日もぐだぐだと考えて、自分が納得できるように根拠と理由を積み上げる。命を浪費している自覚はあるし、よく例えに出される南米の子供たちはとかの身勝手な雑言にだって、「じゃあどうしたら、私とその子たちは代われるの」「あなたは代われるなら代わる?」なんて雑言は返していない。代われるのなら代わるのじゃなく、私の命をあげてもいい。でもその当事者たちは、今日を生き延びることだけを考えて生きている。ことあるごとに不幸の象徴だとかと掲げられて、じゃあなんで助けてくれないのと自分の状況やうまれ、私みたいな人間たちを恨んでいるのだろうか。戦争のない世界はパラレルワールドだと馬鹿にできるのは、特になんの不都合もなく育ったからだろうか。だからそれと同じように、皆平等なんて謳い文句の政治家だって馬鹿にしている。嘘を吐くなと罵っている。
ああ何を考えていたんだっけと思っても、脱線しすぎて覚えてはいられない。時間、命、自分自身の存在の浪費、確かそんなものだ。
またなんで生きているのかと思考は脱線を始めて、私はその曖昧さの欠片もなく生きる。
「明日学校嫌だなぁ」
めんどくさい学校で、隣りの席のめんどくさい苗字の男子の話題へ、ゆるやかに思考は脱線していく。