#86 旅行するならどこに行きたい?
「ミリア、ちょっと話がある」
ダイニングテーブルの上に紙を散らしながら、相変わらず頭を抱えていた彼女に向けて。エアハルトがそう声をかける。
そうやって顔を上げたミリアは、エアハルトから見てもゼーレから見ても。なんならあまり状況を理解していないルカからしても、彼女の顔色が不健康のそれだということはハッキリとわかった。
「……なに?」
「うん。やっぱり、随分と根を詰めているな」
普段の彼女ならまずしないような、粗雑な対応。それほどに、いろいろ追い込まれているのだろう。
そんな彼女の心境を少し感じ取りながら、エアハルトは彼女の正面に座る。
「ゼーレに、ダグラスさんから許可をとってきてもらった。……まあ、提案に対して、むしろ頼むとも言われたのだが」
「だから、なんのこと?」
彼女のその対応からは、若干のいらつきのようなものも感ぜられる。
それほどのことなのは事実なのだろうが、しかし、これでは本末転倒にもなりかねない。
「旅行に行こうか、ミリア」
「…………はあ?」
「山がいいか? 海がいいか? いちおうルカと相談して決めてほしいんだが――」
「いやいやいや、なんで私が行くっていう前提になってるのよ!」
話を進めたエアハルトに対して、ルカは少し声を荒らげつつ、それを止める。
彼女がそう反応するのは織り込み済みだ、と。そう言わんばかりにエアハルトが落ち着いた様子で、彼女に応対する。
「お前が現在、切迫するような状況だって言うことは理解している。ギルド員の採用試験が非常に困難なものだってこともだ」
「なら、どうして」
「ふたつ、理由がある」
ミリアからの反論を遮るようにして、エアハルトがピッと2本の指を立てる。
「ひとつ。お前、最近自分の顔を確認したか? 相当にやつれてて、正直かなり心配になるような状況だぞ。俺たちはもちろん、ダグラスさんもかなり心配してる」
「うぐっ……それは……でも、他の受験者の人たちだって大きくは変わらないわけだし……」
ぐぬぬ、と。反論材料に乏しい様子で、ミリアが小さく唸る。
それでもなお、やはり今は自分はそういうことをするべきではない、と。そう主張してくるミリアに対して、エアハルトは小さくため息をつくと、そのまま言葉を続ける。
「ふたつ。旅行先はまだ決まってない、というか、決めていない。お前の希望次第では、試験勉強に利があるところを選ぶことだって可能だ」
「……どういうこと?」
エアハルトの言葉の意味がわからず、ミリアは首を傾げる。
そんな彼女に向けて、エアハルトは例えば、と言葉を切り出した。
「ミリア。お前は、魔物の素材を実際に見たことはあるか?」
「えっ? そんなのあるわけないじゃない。野生動物の皮とかであれば、エアハルトから渡されたやつを仲介したりして売ることがあるから見たことあるけど」
そう。ギルド員の採用試験が難しくなるひとつの要因として、通常、一般の人間は魔物素材なんてものを見たことがない、ということがある。
それでも、試験である以上はそういった素材の見定めが必要になってくるため、ギルド員試験に挑戦する人たちは、そういった素材をなんらかの方法で見る機会を得たりする。
例えば、流通に乗る際の素材をその途中で見せてもらったり、あるいは自力で購入したり。
そして、そのいずれにしても、必ずと言っていいほどに関わってくるのはお金の問題である。
もちろん、それらを方法で実際に魔物素材に触れない状態で試験に挑むことができないのかといえばそうではなく、方法自体は存在する。
それこそ、現在ミリアが頭を悩ませつつもずっと対面している、大量の書類の山だった。
これがいったいなんなのか、ということをざっくりと言ってしまうならば、魔物素材鑑定のための情報が纏められているもの、という表現が正確だろう。ギルド員の育成のため、比較的廉価で販売されているものだ。
とはいえ、良くも悪くも値段なりといったところか、そこまでわかりやすく書かれているわけでもなければ、結局実際に目で見たり手で触ったりとできるわけではないので、やはりそういったものごとに比べれば勉強の質としては大きく劣る。
それでもなお、ミリアがこれで勉強をしているのは。やはり彼女自身、そういった金銭周りでの余裕がないということも理由になる。
そして、どうにも勉強行き詰まっており、こうして頭を抱えているのだけれども。
「流通に乗る段階の素材を見せてもらう、いっそのこと、魔物素材を買ってくる。まさか、魔物素材を目にする方法がそのふたつしかないだなんて、そんなことを思ってるわけじゃないよな?」
「えっ? でも、普通、それ以外に見る方法なんて―――」
「あるんだよ。よくよく考えてみな? お前の目の前にいるのは、どんな存在なのかってことを」
そう言いながら、エアハルトと。そしてその隣にはルカが並ぶ。
そのふたりをジッとみて、そして彼女はあっ、と。
「……魔法、使い」
「そうだ。まあ、ルカに関してはまだ駆け出しではあるものの、実力自体は下手な冒険者なんかと比べれば、随分と優秀な部類だろう」
実際、コルチの街で探索したダンジョン、遮りの魔窟では、エアハルトの監修があったとはいえ、ひとりでゴーレムと相対していたし。その後の集団戦では魔道具である爆裂筒こそあったものの、しっかりと自分の役目を果たせていた。
それくらいには、ルカも戦える。
エアハルトたちが魔法使いの話ばかりをしていると、その隣からゼーレが「私もいるぞ」と、ちょっと期限を悪くしながら首を突っ込んでくる。
精霊のことも、忘れるな、と。そう言いたいのだろう。しかし、彼女も十分に強い、というか高慢な性格故に自身の力を過信して突っ込むなどの不安定さはありはするものの、素の実力だけで言えばルカ以上だろう。それくらいには、精霊は強い。
「そういうわけだ。つまり、俺たちには、もといミリアには、お金をかけない他の方法で、魔物素材に実際に触れることができる」
ないのなら、自力で調達すればいいじゃないか。という、まさしく脳筋と言える、方法で。
実際、エアハルトは魔物を狩ったりすることもしばしばある。
それをミリアに渡して換金していなかったのは、単純に彼女がそれを換金するルートを持っていなかったからだ。
冒険者でもない一般人が、魔物素材を持ち込むのは不自然な話で、間違いなく、疑われる。
「息抜きと、実地での体験。その両方ができて。なおかつ、そういった文書も、しっかりと現地に持ち込める」
エアハルトは、格納魔法が使えるため、移動時に嵩張って邪魔になる紙類も、そうして持って移動することができる。
「別に勉強するなと入ってないんだ。ただ、あんまりにも根を詰め過ぎだから、息抜きをしろと言ってるだけで」
エアハルトはそう言いながら、彼女に近づくと。優しくその頭を撫でる。
相当に疲れているのだろう。いつもなら文句のひとつでも言ってくるミリアが、なにも言わずにされるがままにされている。
それほどに頑張っている、という裏返しでもあるのだけれども。
「それじゃあ、もう一度聞くが。それでもなお、お前は旅行に行かない、というのか?」
「……行き先は、私が決めてもいいのよね?」
しばらく黙り込んだあとに、ミリアは、そう言う。
エアハルトは「ルカと相談しろ」とだけ言うが、そのルカがミリアに合わせる気満々なので、実質的にはミリアの判断で決めていいのだろう。
「……それじゃあ、行く。私も、旅行に行く」
「わかった。それなら、一旦帰って、準備をしてこい」
ポンポン、と。彼女の頭を軽く触ってから、エアハルトは離れる。
まだ少し俯いたままのミリアの顔は、他の誰からも見えはしなかったが。誰にも見せられないほどに、真っ赤に染まっていた。




