#75 少女は久しぶりに帰宅する
「ただいまー!」
ルカがそう言いながら、扉を開ける。
とはいえ、中から返事が帰ってるはずもなく。がらんとした空間に彼女の声が響き渡る。
実に2ヶ月ぶりほどの帰宅。
ほんの少しの懐かしい匂いと、埃っぽさとが出迎えてくれる。
「さあて、まずは掃除からだな」
帰ってきて早々だが、いけるか? と。エアハルトがそう尋ねると、ルカはコクコクと頷いていた。
早々とは言うものの、ルカは昨晩はミリアのところで泊まらせてもらったし、気力も体力も回復している。
その上、ルカとしてはなんとなくではあるものの、最近になってから、かなり体力に余裕ができてきたように感じている。
それが魔法使いに覚醒したからなのか、あるいは別の原因なのか、その両方なのか。それは定かではないものの。
「……あれ? ここってこんなに低かったっけ」
ルカは雑巾で拭き掃除をしながら、しばしばドアノブやテーブルなどに違和感を感じる。首を傾げつつも、些末な問題なので気にしないでおくが。
そんな彼女の様子を、遠巻きからじっと見ながら。ふむ、と。
(可能性は、ありそうだな)
浮かんだその予測に、ほんの少し、エアハルトの頬が緩む。
もしもそうだとすると、それはエアハルトにとって。そして、ルカにとって好ましいことだ。
ドアノブやテーブルが低くなるわけがない。木製なため、乾燥して縮む可能性は無きにしもあらずだが、仮にそうだとしてもほんのちょっとだけ、それこそ感知できないほどの違いしかないだろう。
実際、エアハルトとて正確な大きさを覚えているわけではないが。しかし、その大きさに変化があったとは到底思えない。
その一方でルカが小さくなった、と感じるのであれば。
それは、それらのものが小さくなったのではなく。ルカが大きくなった、ということだろう。
彼女自身が大きくなれば、相対的にものの方が小さくなる。そうして、低くなったように感じる。
ルカの年齢は17歳だ。もちろん、農村などの出身者の年齢が正確であるとは限らないが、少なくともそれから大きく離れることはないだろう。
で、あるなら成長期は大きく過ぎていることだろう。ここからの成長が期待できないわけではないが、大きく身長などが伸びうる期間は過ぎているはずである。
だが、しかし。彼女に在った環境はかなり特殊だ。十分な栄養はなく、十分な外出、運動などもなく。そんな状況下だったこともあり、ルカ自身がその身体の成長を止めてしまっていた。
コルチの街でルーナに診察してもらった限りでは、栄養状態を正常に保てば可能性はある、という話だった。
そして――、
「うん? どうしたの?」
「……いいや、なんでもない」
エアハルトはずっと彼女と一緒にいた。だからこそ、少しずつの変化には疎く、気づかなかった。
で、あるならば。確実な指標を作っておこう。そう思ってエアハルトはルカを呼び寄せて、柱に背を沿わさせる。
きょとんとしたルカを他所に、エアハルトはそのまま魔法で柱に傷をつける。
「なにしてるの?」
「そうだな。……おまじない、みたいなものかな」
魔法を使う者が呪とは、と。少し苦笑をしながらにそう言う。
また、しばらくした頃にもう一度測ってみよう。そして、そのときにはっきりとした差があれば。
そんなことを、エアハルトは胸の中に収めておいた。
ファフマールでの戦果物は、なかなかなもので。
季節や環境などを加味して、エアハルトたちの家で生育できそうな植物の種。その他、農業に関する資料をいくつか購入しておいた。
本などはかなりの高級品で、やはり値は張るものであったが。しかし、途中に寄ったルーナのところでいくつか素材を融通して換金してもらったこともあり、手持ちには十分な余裕があった。
「……久しいな」
ペラペラとエアハルトは本のページを捲りながらにそうつぶやいた。
エアハルトにとって、農業というものは遠い昔の記憶だった。
エアハルト自身も、ルカと同じく農村の出身で。それこそ子供の頃には両親の手伝いということで、様々な植物を育てていた。
それらの記憶は彼にとって、とても懐かしいものである一方。同時に、とてつもなく痛々しいものでもあった。
エアハルトにとっての故郷の村は、記憶の中にのみ残っている楽しかった村であると同時に、彼を苦しめた、最も始めの村でもあった。
魔法使いに覚醒したエアハルトを、最初に殺そうとしてきた母親。必死の抵抗の末に、火に堕ち、叫び声の飛び交う、まさしく地獄絵図。
知らぬ顔でもない人たちが、助けを求め、あるいは刃物を突き立てようとしてくる、そんな地獄の中にいて。……子供の頃の彼は、なにを思ったか。
「ねえねえ、エア。なにを読んでるの?」
「ん? ああ、これだ」
さっきまで読んでいたものを、そのままルカに渡す。
農業に関する本だ。彼女も読んでいて、悪いことはないだろう。
ルカはそれを受け取ると、先程までのエアハルトがしていたようにペラペラとそれを読み始める。
「ああ、そういえば――っ!?」
「うん? どうしたの?」
エアハルトは、ルカに声をかけようとして、そこで留まる。
そんな彼に、彼女が首を傾げて声を待っているが、しかし、いいや、なんでもない、と。
エアハルトが驚いたのは、ルカの行動。
ただ本を読んでいる。見た目としてはただそれだけのこと。そのことに間違いはないし、だからどうしたと言われればそれまでなのだが。
そもそもいまエアハルトがしようとしたことは、彼女にそれを読んであげよう、と。
この国における識字率は、決して高くない。農村部になればその傾向はさらに顕著になり、大人だろうが読めない人のほうが多い、なんてこともザラである。
エアハルトだって子供の頃は読めておらず、おっさんに無理矢理教え込まれて今に至る。
そういえば、植物図鑑を読むことができてきたな、と。今更になってそう思い返すが、しかし、それにしても違和感がある。
口減らしに遭うような子供が、植物図鑑を与えられており、また、きちんと字まで覚えているものだろうか。
植物図鑑を読んでいるだけであれば、絵や図が基本なので誰かに名前だけ読んでもらって、というふうにしてもらっていたと言われればまだ理解は追いつく。
だがしかし、先程読んでいた本はそう簡単なものではない。それをこうも容易く読んでしまっているあたり、ルカはきちんと字を知っている、というようにみて正しいはずだ。
以前から違和感を感じてはいた。魔力が検知できる、というところについてもそうだ。あのときの彼女はまだ魔法使いではないにもかかわらず、たしかに魔法を視ることができていた。
けれども、違和感がたくさん募るばかりで。それを確かにするようなものがなにもない。
もしかしたら、と思うことはあっても。確実な証拠になるようなものもなく、なんとなく、という範疇で収めてきた。
(この子は、いったい……)
どこの村の、どんな子で。そして、
どういう経緯で、捨てられてしまったんだ。
本当に、ただ、捨てられただけなのだろうか。
そんな、ほんの少しの疑いが。エアハルトの中を駆け巡り、風船のように膨らんでいく。
「うゆ?」
ルカが本に向けていてた視線を少しあげ、エアハルトの方を見る。
その視線には、疑問と、それから心配といった感情が含まれていて。どうしたの? と。
「……なんでもない」
「エア、変なの。さっきからなんでもない、なんでもないって」
彼女はそう言うと、そのまま視線を元に戻す。
エアハルトは、珍しく。素直に彼女に、言葉をかけることができなかった。




