#6 おっさんは礼儀を教える
その日、エアハルトは夢を見ていた。どんな夢だったかは覚えていなかったが。
ただ、とても心地の良い夢だったことだけは覚えていた。
目が覚めると、強い光の次にエアハルトの目へと飛び込んできたのは、木製の天井だった。それも、見覚えのない。
ズキズキと頭が痛み、それと同時に昨日の記憶がエアハルトの中でよみがえる。
(今でも、まだ、気持ち悪い)
その時のことを思い出して、少し吐き気をもよおした。鼻の奥には未だ微かに臭いが残っている。
信じられない出来事だった。少なくともまだ10歳をこえていないエアハルトからしてみれば、到底信じられることではなかっただろう。
ブンブンと頭を振り、考えないように目を瞑っていた。
すると、エアハルトの耳に声が届いた。
『お、起きやがったか。体の調子はどうだ?』
目を向けると、そこには男がいた。
『あ、えっと、たぶん大丈夫です』
『そうか、ならいい』
(昨日助けてくれた人だ)
『体は起こせそうか?』
そう言われたので、エアハルトは、よっこらせ。と、体を起こした。
(うん、今度はちゃんと動く)
それなりに体力も回復したのだろう。腕はどうしてか治っていたけど、不思議なこともあるもんだ。そんなことを思いながら、ゆっくりと立ち上がっていた。
『よし、それじゃあもう少しだけ待ってろよ。もうすぐ朝飯できるから』
台所であろう場所に立っている男。その手には包丁が握られていて、トントントン、トントントンと調子良く音を立てていた。
その様子に――エアハルトは酷く戦慄した。
(もしかして、いやこの人は知らないはず。でも、じゃあなんで)
見ず知らずの俺を助けようだなんて?
エアハルトは何も考えられないでいた。ただ、目の前の男が、包丁を持ったその男が、まるで昨日の母のように思えてしまい。
『お前も……お前も俺を、殺そうと……!?』
気づけば魔法を発動しかけていた。皮膚の表面には、制御しきれていない魔力が、電気となって走り回っていた。
『ん? どうしたんだ…………なるほど、そういうことか』
男はエアハルトのことを見て、しかし体に電気を纏っているその姿を見てもなお、落ち着いた様子で。
まず、包丁を置いた。
『さてと、とりあえずお前さん、言いたいことはあるか?』
『何もない』
『そうか』
男はそう言ってため息をつくと、スタスタとエアハルトに近づき出した。
『おい、来るな!』
『断る』
ズンズン近づいてくる男に、エアハルトは一歩、一歩と後ずさりをした。しかしそのうちにもう下がれなくなり。
『あ……く、るな』
酷く怯えた様子でそう言っていた。
『ふむ、本当に何も言うことはないんだな? もちろん、来るな以外で』
訊かれた言葉に、フルフルと首を横に振っていた。
『そうか、なら』
男が拳を振り上げた。エアハルトは思わず目をつむる。
ガゴン。バチン。重めの音と、放電の音とが同時に鳴った。
『いってええええ!』
『ふむ、なるほど。地味に痛いものだな。拳骨も、感電も』
エアハルトの脳天に一発。重めの拳骨が見舞われた。
『な、何をするんだよ!』
『お前さんな、とりあえず礼儀というものを知れ』
『はあ?』
頭を抱え、擦りながら、エアハルトはそう言った。不満げな声だった。
『助けてもらったのなら、その相手に礼をする。せめて、ありがとうなりなにか言うべきであろう』
急に何を言い出したのだろうか。アホなのだろうか。エアハルトはあまりに唐突すぎる男の発言に戸惑った。
『いいか? 人はな、礼は結構ですとか言ってても、心のどこかでは大小様々とはいえ欲しいと思ってるもんだ』
ぽかんと口を開けたままで、ただ聞いているエアハルト。
『恩義には礼儀を。忘れてやがるやつも多いが、無償の親切なんてありゃしないんだ。何かをするためには何かを消費する。物だったり、時間だったり』
――だから、自分のためにそれを使ってくれた人がいるのなら、せめて「ありがとう」と、それだけでもいいから伝えるべきだろう?
エアハルトには、半ばむちゃくちゃな理論にも思えた。しかし、そうであるというのに、どうしてか納得できそうでもあった。
『えっと、あの……、ありがとう……ございました』
『うむ、それでいい』
『……って、そうじゃない! お前は、俺を殺そうとしてたんだろう?』
『なぜ、俺がお前さんを殺さないといけない』
『だって、だってそれは俺が――』
『魔法使いだから、か?』
最後の言葉を男に奪われ、エアハルトはまた驚いた顔をしていた。
『やっぱり気づいていたんだな』
『もっとも、気づいたのはついさっきだが』
エアハルトが体に纏っていたその電気。それを見て、初めて気づいた。男のその言葉は本当だった。
『なら、どうして殺さない! いや、殺さないでおいて、動けなくしてから連れていくのか!』
エアハルトでも知っていた。魔法使いは殺さないで、生きて連れて行った方が報奨金が高くなるのだ。
魔法使いだということの裏のとりやすさからと言われている。
『いやいや、どっちもしないっつーの。めんどくせえ』
『はあ?』
『金とかそんなのめんどくせえし興味ねえよ』
男は自身の耳の穴に小指を突っ込み、グリグリと適当にいじる。
『俺は生きてる、お前も生きてる。それでいいじゃないか』
『昨日、俺が沢山人を殺したとしても?』
ギリッと、歯軋りをして、苦い顔でエアハルトが言う。
『んー、あー、そういうことか。別にいいじゃないか』
『はあ?』
エアハルトは、今日一日で何回「はあ?」と言ったのだろう。と、そう持ってしまうくらいに男の言っていることを理解し難かった。
(人を殺したのに、別にいいじゃないか。だと?)
言っていることが阿呆の極みではないか。訝しげな視線を男に向けていた。
『だってよ、お前さんは殺されかけたんだろ? それに反抗しようとして、結果殺してしまった。お前さんに非はあったろうか』
軽く、少しふざけているかのような口調で男は言った。
『いや、確かにあったかもしれない。けど、まあなんていうか、アレだ。とりあえず、そんな死にかけの状況で正確な判断なんて出来ねえだろうし、それに、生き延びようとした結果だ。防衛の結果殺してしまった、それだけだ』
『いや、さすがにそれだけだ。で済ませちゃダメだろ』
『うむ、確かにそうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。でもな、今はそう思うしかないんだ』
ポンッと、頭に手を当てて、そのままグリグリと撫でる。
『そうだな、殺してしまったのはもうどうにもならない。じゃあ、殺してしまっただけ死にそうな命を救ってやれ』
エアハルトが撫でられるのを少し嫌がるので、男はパッと手を離した。
『お前さんはその魔法の使い方を一つ知っている。昨日使ったように、守るための使い方を知った。なら、今度は助けるための力を知るんだ』
――お前さんの魔法は、それができるのだから。
『とまあ、俺からはそれだけだ。朝飯の準備の続きしとくから、落ち着いたら机の前に座っとけ』
男はエアハルトに背を向けて歩き出した。
『あ、おいっ、おっさん! ……おっさんの、名前は?』
『おっさん……おっさん……か。いやまあ、確かにそう見えるのだろうな。特徴をよく捉えたいい形容だ』
……いや、特徴をよくは捉えていないだろう。容姿について触れたわけではないし。エアハルトは改めてこの男がバカなのだろうかと思った。
『うーむ、そうだな。……いや、そうだ、そうしよう』
男は一人で完結して、言った。
『俺は、おっさんだ。おっさんって呼べ』
『はあ? ……それでいいのか?』
『ああ、それでいい。それがいい』
『物好きだな、おっさん』
『おう。お前さんはなんていうんだ?』
男、もといおっさんはそう訊いた。
『俺は――エアハルトだ』