かお姉と合唱部員の謎(4)
おまたせいたしました。解決編です。
「いつも花穂が迷惑ばかりかけて、ごめんなさいね」
「いえいえ。今日も話し相手になってもらってます」
インターホン越しのやりとりで家に上げてもらった僕は、玄関まで迎えに出てくれたおばさんといつもの会話を交わす。
ここでせっかくだから、いつもとは違う言葉を出してみたいという気持ちはあるんだけれど、クラスの子とさえ上手くコミュニケーションが取れない僕は隣家のおばさんと交わす会話テクニックなど持ち合わせていない。
「かお姉から本を取ってくるように頼まれているので、上がりますね」
「どうぞ。……むしろ全部持って行った方が早いかもしれないわね」
玄関横にある階段を指差しながら話す僕に、おばさんは皮肉なことを呟いてからふっと笑った。
言葉だけではシニカルに聞こえるかもしれないけれど、おばさんが誰よりもかお姉を心配していることを僕は知っている。それは、日々繰り返される親子喧嘩から見ても明白で、かお姉の生活スタイルや今後についてしっかり叱って注意出来るのはやはりおばさんだけだと思う。
1階の居間へ入っていくおばさんと道を違えて2階に向かう。手すり付きの階段を上がりきった右手の部屋がかお姉の部屋だ。
「お邪魔します」
部屋の主はいないけど礼儀上の挨拶を告げ、壁側からこちらを威嚇してくる書棚に真っ直ぐ向かう。
しかし、楽譜というものが具体的にどういったサイズでどれくらいの薄さなのかを知らない僕は、モンスター級の書棚を上の段から順に眺めて行くことになった。のだけれど、本の種類ごとにグループ分けをしている持ち主の几帳面さが幸いして、A5サイズの薄い冊子を見つけることが出来た。
『ピース譜』と書かれた冊子は1曲分の楽譜でしかないらしく、厚さがまったく無い。そのため背表紙に書かれたタイトルも書棚に刺さったままでは読みづらく、グループ分けがされていなければ見つけられなかったかもしれない。
「それにしても、改めて見てみれば音楽の本もあったんだね」
同じサイズのピアノ伴奏の教本が隣に入っていて、かお姉がピアノも勉強した経験があることを知らされる。これまでに何度もこの部屋に入っているのにその存在に気が付かなかったのは、きっと僕が無意識のうちに視界から外していたのだろう。
その隣に小中高の学校音楽の教科書まで置いてあるのは、物持ちが良いと言うかなんと言うか。ただ、合唱の楽譜がこれ1冊しかないという所には少し恐怖を覚える。
なんて、いろいろ考えていると時間が過ぎてしまう。探し物も見つけたし、年頃のお嬢さんの部屋をまじまじと眺めるものでもなし。早々に退散することにしよう。
「お邪魔しました」
階段を下りて、居間にいるおばさんに声をかけてから玄関扉を開けようとして、もう1つ用件があったことを思い出す。
「かお姉、今日もうちで夜ごはんを食べるって言ってるんですけど」
そこまで言ってから、僕を見送りに出て来たおばさんが1つのタッパーを持っていることに気付く。
「やっぱりね。申し訳ないけど、少しでも足しにしてちょうだい」
言われずとも動向の察知が出来る所に流石親子だなんて思いながら、先に伝えることを忘れていた非礼を詫び、いただきものに対する感謝の言葉を告げて僕は自室へと足を急いだ。
「……なんか戻ってくるの、遅くなかった?」
が、自室に戻ると僕のベッドを我が物顔で占拠しているかお姉に不満そうな声を浴びせられた。たぶん、自身が留守にしている間に部屋を探られたのでは、と思っているのだろう。
「ごめん。まさか楽譜がこんなに薄いものとは知らなくて」
僕がお使いから戻るのが遅いと機嫌が悪くなることは想定内だったから、用意しておいた言い訳を伝える。おばさんからいただきものしたことを正直に伝えても良かったけれど、この後に支障が出ると困るので黙っておいた。
「あ、そっか。ちゃんと言ってなかったね。ごめん」
僕のベッドで三角座りをしているかお姉が、胸に抱えている枕に顔を埋めながらもぞもぞと話した。
「それより、不思議の答え。教えてよ」
僕が「気にしてないよ」という姿勢で答えると、かお姉ははっとした表情になってベッドの足もとに枕を置いて、腹ばいの状態になる。
「ゆー君、楽譜」
そのままの姿勢で真っ直ぐ伸ばされた左手に運んできた楽譜を渡すと、かお姉は「懐かしいなー」なんて、感傷に浸るような声を出しながら表紙を掌で撫でている。
「昔、テレビ局主催のコンクール課題になった楽譜だから、学校の部活で使うなら多分これだと思うんだよね」
そう話しながら今度は枕の上に楽譜を開いた状態で置いて、こっちにおいでと手招きをされた。なるほど、かお姉もこの楽譜を使ったことがあるのか。
「ゆー君、おいで?」
かお姉が楽譜を1冊だけ持っていた理由に納得していると、ベッドの方から誘いの言葉を受けた。
かお姉は非常に面倒くさがりで、自分が動かずに済むならどんなこともするのが恐ろしい。例えば今、僕のベッドを占拠しているかお姉は枕の上に楽譜を開いて、2人並んで見ることを促してくる。傍から見ればどんな様子になっているかを全く考えていないのだろうけど、ベッドの壁側半分で自身の入った上掛けの端っこを指で持ち上げて「早くおいで」だなんて言われるのは、思春期の男の子としては精神衛生上とてもよろしくない。
「……わかった」
しかし、急かされたことを言い訳にしてそのまま同衾してしまう。僕はかお姉にとても弱い。
○ ○ ○
「――まず、ゆー君に知って欲しいのは演奏記号の存在。ffは流石にわかるよね?」
楽譜の一部を指差しながら「ゆー君は音楽を毛嫌いしてるから……」と不安そうな表情で尋ねるかお姉。
「え、フォルテシモ……でしょ?」
音楽は苦手だけど、流石にそこまで無知ではない。と主張したいけれど、予想外な答えが返ってきたら困るので確認をするように聞き返した。
「うん、合ってる。じゃあ、意味は?」
意味……。問いかけられてから少し悩む。フォルテは「強く」だからそれの2個分? あれ、でも「少し強く」っていうのもあったような。
「んー、じゃあ調べてみよう。ゆー君、スマホ」
悩んでいる僕の姿を見かねてか、かお姉が提案をする。確かに調べることの出来る便利なツールを持っているのに使わないのは良くない。
言われるままに制服のポケットからまさぐりだしたそれを、おおっぴらにして良いのかと一瞬迷った。画面表示を点けた時に宗倉君からのメッセージが届いている通知が表示されていたら、はたまたさっき使ったメッセージアプリを開いたままにしていないか、なんて気になったのだ。
「どうしたの? フォルテシモ、意味で調べたらすぐに出ると思うんだけど」
そんな僕に違和感を持ったのか、かお姉が検索の仕方の指示まで続けたので、熱中している様子を演じて顔の近くに画面を持って来て操作をする。幸い、メッセージが届いた形跡や、こちらからの発信がわかるような画面は一切見られなかった。
ブラウザアプリを開いてから指示通りに検索をすると、それらしいページの一覧が表示される。フォルテシモは「とても強く」という意味なのだと確認が出来た。じゃあ、少し強くっていうのは別の言葉なんだね。
「記号はすべて意味がある。それがわかればオッケーだからね。じゃあ、次は楽譜を見て?」
流れるように、先ほど僕が運んできた楽譜を手渡される。
漠然と「見て」と言われればぱらぱらとめくって終わりにしてしまったのだろうけど、今回は話の流れ上、演奏記号を探せばいいみたい。
「下に書いてある場合もあるから気を付けてね」というアドバイスを聞きながら、手当たり次第に見つけていく。p、f、mp、legato、mf、ff、rit. Tempo primo……っていうのはテンポが変わるのかな。へー、simileなんて記号もあるんだ面白いね。
「じゃあ次は、読み方がわからなかった記号だけ、検索してみて。そして最後に、調べた記号を教えて?」
なんだかわからないけれど、きっとこうすることで謎が解決するんだね。そう信じてもう一度、楽譜の頭から演奏記号を眺めて行く。フォルテやピアノは当然読めるし、レガートはそのままローマ字読みで良いんだよね? あとは英語のスマイル……。
「うーん、意味がわからないものはいくつかあるけど、読み方が難しかったのはリタルダンドにテンポプリモ、くらいかな」
直感で読んだものも多いけれど、読めなかったものを調べなおしてから答えると、かお姉が僕を訝しげな目で見つめた。
「本当に……? そっかー。ゆー君はシーミレを間違えなかったかー」
はい? シーミレ? そんなのどこにあったの?
「その楽譜でのシーミレは最後のページ、一番下の段にあるよ」
そんなの見てないよと反論をするよりも早く楽譜をめくって確認をする僕に、かお姉は教えてくれた。言われたならば、と両手を閉じて裏表紙だけをめくって見る。
一番下、一番左の部分には「simile」と書かれている。あれ?
「これ、スマイルじゃないの……?」
自分の思い込みが違ったことに気付かされて、思わず声に出てしまった。
かお姉の小さな唇から「はあ」なんて小さなため息が隣から聞こえてくるのが少し悔しい。
「推測を立てる時は落ち着いて、思い込みで決めつけない方が良いね」
稚拙な僕を慰めるように、暖かな言葉を投げかけられる。
「はい、気を付けます」
僕は自然と、師匠の教えを受け入れる弟子のような言葉を返していた。
「あれ?……と、いうことは」
ふと我に返る。今、僕が取っていた行動は不思議への解決のためのもの。そして、かお姉がわざわざ口にした言葉が手掛かりであると考えると、宗倉君が言うところの犯人というのは……。
「Bさんなんだね」
かお姉に向かって確認をすると「多分ね」とだけ返ってくる。
合唱部で使っているものとおそらく同じであろう楽譜を音楽の初心者である僕が読もうとした場合、演奏記号に詳しくないらしいBさんと同じ間違いをする。かお姉はそんな可能性を考えたようだ。でも、どうして?
「まず、3つの音が違うって言い方が気になったっていうのはさっき伝えたよね。私の経験則では、そんな器用な間違い方は出来ないかなと思った」
何故わかったのかと聞きたがっている表情を読まれたらしく、かお姉が丁寧に説明を始めた。
「そこで、演奏記号に詳しくないBさんならこの楽譜に書かれているsimileをsmileと読み間違えるんじゃないかなと思った。ちなみにこの記号は「前の小節と同じように」……つまり、声の大きさを変えたり速度を変えたりしないでねっていう意味なんだけど、書かれる頻度があまり無いのもあって何年も経験している人にも間違われやすいの」
宗倉君の話でによるとBさんは練習中に何度も「笑顔で」と強調していたと言うし、これは間違いなさそう。
「次に読み方。人によってはシーミレじゃなくて、そのままシミレって言う人もいるの。お姉さんがどっちで言ったかはわからないけれど、クラスの子も音楽の初心者なら間違う可能性は高いよね」
なるほど。だからさっき「本当にそう言ったのか」って気にしてたんだね。
「最後」
なるほどなるほどと得心の行った気分で満足していると、更に話が続いて驚いた。僕が話した内容の中にどれだけヒントがあったって言うのさ……。
「大きな声を出して怒られていたって話があったよね」
あった。そういう気持ちで首を縦に振って返す。けれど、何の関係が?
「だいたいの人は笑顔を作ると、口角……唇の端っこが上がるんだけど、良い声を出すコツの1つに口角を上げるっていうのがあって。Bさんは楽譜全般に慣れないうちから頑張ろうとして、間違っちゃったんじゃないかなって」
そう説明するとかお姉は両手の人差し指を自分の口角に当ててぐいっと引っ張る。その様子がなんだか、カエルのイラストみたいに見えて可笑しい。
それに、そんなことしなくても僕に微笑んでくれる表情は充分に明るいと思うんだけど。
「へー……」
僕の話した内容の中で、しっかりと不思議のパズルが組み合わさっていること。そしてそれが出来上がるまでの速さに感心するあまり、気の抜けた声が出た。
そんな僕の感情と、かお姉の表情にギャップがありすぎて微妙な空気になってしまった。もう少し、感心するような声が出せればよかったのに、と後悔する。
「と、いう訳でこの話はおしまーい」
そんな空気を打破するためか、かお姉は楽譜を横に置いて僕の枕に顔をダイブさせた。その枕、実はカバーの交換を一昨日にしたところだから、とても清潔だとは言い切れないからなんだか申し訳ない気持ちになる。
○ ○ ○
「ゆー君、おやすみ」
夕食を終えて自分の部屋へと帰って行くかお姉を、目と鼻の先ではあるのだけれど玄関先まで見送った。
「おやすみなさい。ところで、今日も仲直りできそう?」
毎日繰り返される現象にちくりと嫌味を言ってみると、かお姉は「そーだねー」と安穏な表情で返した。
「お母さんのレバー、食べたら謝らなくちゃって気持ちになっちゃったもん」
僕がおばさんから預かってきた夕食のおかずは、かお姉の好物だった。鶏の肝を臭みが残らないように甘辛く煮つけてあって、僕もいくつかお呼ばれするくらいに好きな一品だ。
「また明日も喧嘩したら、ゆー君の部屋に籠城するからね」
「あり得そうで怖いんだけど」
笑顔で恐ろしいことを言ってのけるかお姉に、苦笑いで返すしかなかった。
「私が知ってることなら、退屈しのぎにも付き合ってあげるからね」
自身の玄関まで入りかけているかお姉にそう言われて、もう1つだけ聞きたいことを思い出した。
「あのさ、今日の不思議のことなんだけど。どうしてあんなにも明確に真相がわかるの?」
僕に話してくれる解説は、まるですべてを初めから知っているようだと、そんな風に思えた。
そんな僕の問い掛けに、かお姉は少し困ったような表情を見せてからすぐに笑顔になって「経験則だよー。女の子の過去はあんまり詮索しちゃだめだからね」なんて、スキップをするように家に入って行った。
○ ○ ○
もうそろそろ眠ろうと、かお姉に荒らされまくった寝床を整えている時にスマホから通知音が響いた。
「ようやく返事が来たのかな」
独り言を漏らしながら画面表示を点けると、待ちかねていた宗倉君からのメッセージが届いていた。
『3つの音、やっぱ違ってた。シミレって記号の事だって。ついでに問題の先輩について聞いてみたら余計な詮索すんなって言われちまったよ』
やっぱり、宗倉君のお姉さんはsimileのことを言っていたんだ。と、いうことは……。
『もう1つ聞いておきたいんだけど、宗倉君が使ってる楽譜って昔コンクールの課題になったもので良いのかな』
念のために確認してみる。これが合っていれば、もう答え合わせは完璧だろう。
『そうだけど』
『なんだよお前。もしかして全部わかってんのか? わかってんなら教えろよ』
少し待って返事が来ると、僕が送っているメッセージの意味に気付いたのか宗倉君はどんどんと追撃を送ってくる。教えてあげたいのはやまやまだけど……なんて思っている内に「なあ」「おい」という短文で新着メッセージが溜まっていくのは結構怖い。
『明日。クラスで会った時に話すよ。ちょっとややこしい事情があるから』
言い逃げをするようにメッセージを送りつけて、勉強机の上にスマホを放置する。
電灯も消して、しっかりと掛布団の中に入る。……なんだかまだ、生暖かい気がするけれど、今日も悩み事無く眠れそうだ。
第一話「かお姉と合唱部の謎」 終
以上で第1話は終わりです。
第2話以降もこんな感じの「ゆるふわミステリもどき」で頑張って書いてゆきたいと思います。