カタルシス中毒
ファイルを漁っていたら、なんだか少し前に書いたのを見つけました。
滅茶苦茶痛々しいのですが、寝かすのも可哀想だな……と思いまして、晒します。多分、私の根っこの部分だと思います。
妄想過多ですさーせん
僕は、泣くことが好きだ。
以下に、それに関連することについて気ままに綴っていこうと思う。
少し、気取った感じでね。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕は幸いなことに、昔から涙腺が弱かった。
例えば小学校低学年の頃、夜中に親が見ていた映画の再放送か何か(タイトルも内容も殆ど覚えていない)を途中から見て、号泣したりした。
同じく小学校低学年の頃、弟と少しいざこざになり、弟を殴って泣かせてしまったときにも、僕は部屋で一人泣いたのを覚えている。
まあつまり、僕は比較的感情的な人間であるのかもしれないということだ。
一応、「それは子供の頃の話だろう?」という人の為に、僕がある程度大人になってからの例も挙げておこうか。
子供の頃想定していた程ではないものの、ある程度は大人になった(と思う)今でも、僕はとてもよく泣く。
小説、漫画、ゲーム、アニメ、ドラマ、映画、音楽、絵画、写真。
兎に角、感じ入ったものがあるとすぐ泣く。
勿論、なろう小説でも何度か号泣している。
某VR物での邪神の欠片による虐殺劇、某転生物での親父の死や、母の思いが明かされるシーン。
某ダークファンタジーで、親身になってくれた獣人さんの思いを無碍にしたときの葛藤、某ループ物でのIFストーリーや、主人公の成長が感じ取れる演説。
とりあえず、有名所だけを上げてみた。
ある程度なろうを読み漁っている人ならば、わかってくれるところも多いのではないだろうか。
無論、僕は他の、少しマイナーななろう小説でも号泣している。
ちなみに号泣っていうのは、拡大解釈ではなく、そのままの意味での号泣だ。涙が次から次に出てきて、映画の内容がわからなくなるなんてことはよくある。
さて、なろう小説を例に挙げてみたが、他の媒体、例えばアニメだと、某青春ピアノ恋愛ヒューマンドラマとか、ラストシーズンが叩かれに叩かれた某有名ロボットアニメなんかでも泣いている。某英霊召喚小規模戦争ではナチュラルに涙腺崩壊した。
映画では、邦画でも洋画もよく泣くし、ドラマも言わずもがな。音楽なんかも感じ入ると泣く。
某海賊漫画なんかだと何回も読み直しても泣いてしまうし、某最後のファンタジーも何周しても泣く。
最近本気で涙を流したのは、某さあ、ゲームを始めようかの劇場版である。原作を知らないだけにショックが強かった。中盤での感動で少し泣いてから、「ああ、これから下げるんだろうな」と予想は付いていたものの、号泣してしまった。終盤は涙で画面が殆ど見えていなかった。諏訪部さんの声が更に感動を引き立てていて……まあ、この話はいいだろう。
ようは、僕は昔から涙腺が非常に弱いということだ。
だがもしかしたら、このようなことは皆にもあるかもしれない。つまり、僕が勝手に、自分は涙腺が弱いのだと勘違いをしているだけかもしれないということだ。
だが、僕の周りには僕ほど涙腺が弱い人がいない。
よって、僕は涙腺が弱いということで話を進めさせて貰おう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕が、中学2・3年の頃だっただろうか。
輝かしい少年時代に、僕は、泣くことが好きだということに気が付いた。
何というか、“生きている実感”がそこにはあったように思える。
そして、感動して泣くことを求める内に、自分が求めている物は感動、つまりはカタルシスだということに気付いたのだ。
僕はその頃には、カタルシスを得ることが生き甲斐のようなものになっていた。
一番良いのは、自分自身で努力をし、その対価としてカタルシスを得ることなのだが、それはそう簡単に得られるものではない。
結局、簡単にカタルシスを得られるサブカルチャー方面へと傾倒していくことになるわけだ。特に、時間を余り取られない小説に。
元々、友達とは定期的に遊んでいたものの、それ以上に一人で本を読む時間の方が好きだったのだ。
傾倒の速度は自然、加速する。
ここで、「それって、ただの本の虫なんじゃないか?」って人も出てくると思う。
実際、僕は学生時代、友人と遊ぶ時間と同じ、もしくはそれ以上の時間を読書に費やしてきたし、一年間に百冊以上は読んでいたと思う。
つまり、立派な本の虫だったわけだ。
しかし、カタルシス中毒であったことも否めない。
実のところは、両方ともだと思う。
日本語による美しい表現が大好きだし、美しい日本語によって綴られる物語も大好きだ。
そこには見たこともない情景がありありと浮かび上がり、そこには会ったこともない人々が、様々な思いを抱えながら確かに存在しているのだ。
つまり、仮に物語=カタルシスと置き換えると、小説のありとあらゆる要素が好きなのか、その一部にすぎないカタルシスが好きなのか、よくわからなくなるのだ。
小説のありとあらゆる要素はカタルシスがあるからこそ好きなのかもしれないし、物語によるカタルシスは小説のありとあらゆる要素があるからこそ好きなのかもしれない。
よく言う、卵か鶏かという奴と――厳密には違うのかも知れないが――同じような物だと思う。
とはいえ、僕は小説以外でのカタルシスでも、自分の欲求を満足させることが出来る。
その場合、少しすると異様に小説が読みたくなるのだが、逆もまた然りである。
つまり、カタルシスの無い文章――論説文や日常小説――だけを読んでいると、段々と気力が減っていく。
だから、僕はおそらく、カタルシス中毒なのだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カタルシスは、人生の重要なエッセンスだと僕は思う。
そして、それは、生の実感にも繋がる。
例えば、ラノベやアニメで「人を殺す事で生きている実感を味わえる」とか言うキャラクターがよく出てくるが、あれはカタルシスを求めているのだ、と僕は考える。
きっと彼等は、「努力して結果を得る」という普通のカタルシスを知らないか、あるいはその程度のカタルシスでは満足できなくなってしまったのだろう。だから人を殺すという、最上級のカタルシスを求めるのだ。
このことは、中身は違えど"物語"でカタルシスを得ている人に似ていると思う。
「普通のカタルシスでは満足できない→人を殺す→カタルシス→生の実感」
とあるのが、僕等カタルシス中毒者の場合は。
「日常のカタルシスでは満足できないor忙しくて時間がないor努力が嫌い→"物語"を消費する→カタルシス→生の実感」
となっているのだ。
こう図式化してみて本当に怖いのは、僕等が"物語"のカタルシスで満足できなくなった時である。
現実で人殺しをするには相当のリスクを伴うし、全くもって現実的ではない。戦場にでも行かない限りは。戦場に行くのも、カタルシスを得る為だけに向かうにしては危険が大きすぎるだろう。
よって、"物語"でカタルシスを得ることができなくなったカタルシス中毒者達は、他のカタルシスを得る方法を探すか、生の実感を失うかになるわけである。
生の実感がないとどうなるのか?
僕はなったことがないから憶測になるが、おそらく、鬱のような状態になるのではなかろうか。
心が動かされない人間は、死んでいるのと同じようなものだと僕は考える。
だってコンピューターは、生きてはいないだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
しかし実際には、そんなことは起こらない筈だ。
今この文章を書いている内にも幾つもの"物語"は紡ぎ出されているだろうし、その中には名作と呼ばれる物も混じっていることだろう。
娯楽なんてのは小説以外にも幾らでもあるし、小説だって星の数だ。
何よりこの世界は広い。
これを書いている僕自身も、この世界のことを全く知らない。
どんな風景、どんな人、どんな文化、どんな気候、どんな意味、どんな過去、どんな嬉しさ、どんな悲しさ、どんな、どんな、どんな――――
そこには多分、たくさんの"想い"が眠っているのだ。
だから、生の実感なんて、満たすことは簡単な筈だ。
その為に娯楽はあるのだから。
だからあなた方は、物語を紡ぐのでしょう?