崖っぷち温泉旅館
こうして僕らは温泉旅館『華月』へやってきた。
建物は伝統を感じさせる古風な木造で、海が見えるという広告通り、建物の背後には海が広がっている。
でもイメージしていた景色と随分ギャップがあるな。
白い砂浜……ねぇし。つーか、断崖絶壁の上から見る海じゃねぇか!
まるで火曜サスペンス劇場に出てくる殺人犯を追いつめる崖の上に旅館を建てたような外観に少し戸惑う。そう考えて見ると、古風というよりは寂れたという比喩の方が合う旅館だ。
まさに文字通り崖っぷち旅館みたいな?
いや、笑えねぇよ。今日から僕らはここに泊まることになるんだぜ?
あの金玉オヤジめ、とんでもない宿泊券を掴ませやがったな。
入口の暖簾を潜ると、女将らしき綺麗な女性が膝をついて頭を下げて歓迎してくれた。
「本日はようこそ華月にいらしてくださいました。ご予約をいただいていた姫島さまでございますね? 荷物をお持ちいたします」
数人の仲居さんが荷物を持って部屋まで案内してくれる。大部屋に案内される途中、卓球台とレトロなインベーダーゲームを見つけて安心した。
外見はアレだけど、ちゃんと温泉旅館なのだと。
持参した無料宿泊券を渡すと、女将さんの表情が一変した。
「この券は……?! かしこまりました。当旅館最大級のおもてなしで歓迎させていただきます」
そんなにすごい券だったのだろうか?
まぁ、最大級のおもてなしをしてくれるというのだから、素直に甘えさせてもらおう。外見は崖っぷちだけど、内装は掃除が行き届いていて、窓から見える景色もこれはこれで見応えがあるじゃないか。荷物を片付け、他のメンバーは露天風呂を見てくるとはしゃいで出て行ったので、ひとり残された僕は窓側の椅子に腰をかけて深く嘆息する。
重大な問題に気がついてしまったからだ。これについては早急に対処しないと。
完全に盲点だった。ここに来るまで気がつかなかった自分の愚かさを悔やみ、誰もいないのをいいことに僕は文字通り頭を抱えて、
「……大部屋かよ」
力なく呟く。予定としては僕と柊が二人で別室を利用するつもりだったのに。今夜、僕らはどこで就寝すればいいのだろうか?
とりあえず同じ部屋に寝るわけにはいかないから、もうひとつ部屋を用意してもらおうと立ち上がったとき、ちょうど襖が開いて女将が慎ましいお辞儀をして入ってきた。
「姫島さま、昼食はお済みでしょうか? 差し支えなければご用意いたしますが」
「よろしくお願いします。それと、もし部屋が空いていたらもうひとつ用意していただけませんか?」
「何かご不満がございましたか?」
「いえ、とても素敵な部屋で気に入りましたが、女子ばかりなので、僕は別室を利用しようと思うんです。さすがに一緒に寝るわけにはいかないですから」
「かしこまりました。手配させていただきます」
女将が出て行ってから、僕も風呂を見に行くことにした。男湯の暖簾を潜り、脱衣所を抜けて扉を開くと、湯けむりがたつ大きな露天風呂が視界に広がった。奥には海が広がっていて、この景色を見ながら入る風呂はさぞかし愉快だろうと胸が躍る。
自宅以外の風呂にはあまり良い思い出がないけれど(前作一話参照)、今回は修羅場に遭遇することなく、ゆっくり湯船に浸かれそうだ。
なにしろ今回は華月の計らいで貸切にさせてもらえたし。というのも、あの無料宿泊券を渡したときに女将が顔色を変えたのは貸切の権限を持つ券だったからだそうだ。幸い、他に予約は入っていなかったので女将は快く承諾してくれた。
最大級のおもてなしという言葉にはそんな意味が込められていたらしい。
大部屋の前に戻ってきた僕は扉に手をかけたところで躊躇する。
「あたしはママにフラれちゃったけど、まだチャンスはあるって思っているのよ」
そんな会話が聞こえてしまったからだ。先月、僕は釘宮に告白されて色々悩んだ末に、秋葉への想いに気がついてそれを断った。
それでも「そっかぁ。じゃあもっといい女になるぞぉ!」と笑顔で別れた釘宮は僕のことをまだ諦めていなかったのだと知ってしまった。
今、戻ったらどんな顔をしていいのか分からない。インベーダーゲームでもやりながら時間を潰すかと踵を返したとき、扉の奥から気になる言葉が僕を引き止めた。
「それで、秋葉ちゃんはどうなの? 好きな男子とかいるの?」
神宮寺先輩がそんなことを言い出したから僕は扉を背に座り込む。
気になるじゃねぇか。もし秋葉に好きな奴がいるとしたら僕の恋は実らない。この先は聞くべきではないと本能が告げている。それでも僕の重い腰は上がらない。
「あ、赤くなった! 秋葉先輩、好きな人いるんですね!」
「……わ、私は」
「姫島さま? 食事をお持ちいたしました。もしかしてお連れの方が着替え中ですか?」
仲居さんの登場でその先を知ることはできなかった。気になる反面、聞かなくて良かったと安堵している自分に嫌気がさす。どんだけチキンなんだよ、僕は。
その後、僕が何食わぬ顔で仲居さんと部屋に戻ったことで彼女たちのガールズトークは終わった。気にならないわけではないけど、未熟な僕にはまだ秋葉に告白する勇気も資格もない。先月まで彼女を野々山と呼んでいた僕が秋葉と呼称を改めたときに誓ったんだ。あいつと並び立てるくらい強くていい男になるまでは告白しないと。
食卓の上に旬な食材を厳選した豪華な昼食が並ぶ。
「姫島さま、夕食はご一緒にされますか?」
女将が去り際に何気なく訊いたこの一言が後に大きな波乱を生むことになる。
仲居さんたちが去った後、沈黙に包まれた部屋で昼食に手をつける者はまだいない。そんな空気ではなかった。
「それで、どういうことなのか説明してくれないかな、かな?」
釘宮がレナちゃんモードになっているときはマジで怒っているときだということを最近知ったからこそ、僕は返答に窮して視線を逸らす。
誰か、助けてくれ。視線の先にいた秋葉は無表情で僕を睨んでいた。視線を向ける方向を誤ったと後悔するがもう遅い。
「……政宗、説明」
要求された。
「いや、実はですね……」
この叱責するような空気の中ではつい敬語になってしまう。僕は観念して仕方なく先程ひとりになったときの女将とのやり取りを包み隠さず説明した。
「……却下」
しかし秋葉に却下された。
「いやいや、でもさ! さすがに僕が同じ部屋ではまずいだろ!」
「確かに姫島先輩の言うことは尤もだと思います」
小鳥遊、生意気なクソガキとか思って悪かったよ。お前は僕の味方だったんだな。
「こんな節操なしの色情魔と一晩過ごしたらみんなの貞操が危ういですから」
前言撤回! やっぱりお前とは永遠に解り合うことができない敵同士だ!
「千春ちゃんって先輩相手でも容赦ないね。でも、ママはそんな野蛮な男子じゃないよ」
先程まで激怒していた釘宮にフォローされるとは思っていなかった。やっぱりお前は何だかんだ言っても僕の味方でいてくれるんだな。
「だってあたしと秋葉ちゃんが裸になって迫っても襲われなかったし」
アウトオオオオオオオオオォッ!
まさかお前にまで裏切られるとは思っていなかったよ。それは掘り出してはいけない黒歴史だから! 特に今、この状況では。
チキンと呼びたいなら好きなだけ罵れよ、ちくしょう。欲望を抑えるのに必死であの頃は数日まともに眠れなかったんだぞ。
「……政宗くん、それって秋葉があなたの家にお泊りしたときのことかしら?」
可憐さんの尋常ではない殺気を感じて僕は全力で襖に駆け出した。彼女の殺気は秋葉にも伝わったようで、後ろめたい秘密を暴露された僕らはほぼ同時に襖へと手を伸ばす。
しかし次の瞬間、ありえない速度で(残像が見えた。いや、マジで)襖に先回りした可憐さんが僕らの手首をしっかりと捕まえた。
死ぬ……ッ!
いつも朗らかな笑顔を崩さない可憐さんは笑顔ではいるけど、その質がまったく異なる笑みを浮かべていた。まるで獲物を捕まえていつでも捕食することができると確信したライオンのような恐怖は笑顔の仮面を通してもビリビリと伝わってくる。
「秋葉、さっきの話は本当なの? あなたがお泊りから帰ってきたときに政宗くんの家で起きたことは包み隠さず、すべて報告するように言ったわよね?」
「…………あぅう」
露骨に(無表情なんだけど僕には分かるようになった)狼狽える秋葉は答えなくても釘宮の話が真実だと物語っていた。
「そう……本当なのね」
可憐さんの瞳からフッと生気が消える。完全に瞳孔が開いた瞳でこちらに顔を向けた可憐さんが僕の手を握る力が増したのを感じて覚悟を決める。
「真実だと思っていいのかしら、政宗くん」
「すみませんでした! あれは半ば事故のようなものでしたが、彼女たちの裸は見ていないし、ましてや襲ってなんかいません!」
実はちょっとだけ見えてしまったのだが、あのときは妹の奇策で目隠しをしていたからね。でも、襲ったとか襲わなかったという話ではなく、男子の部屋で女子が服を脱いだという事実に問題があるんだよな。
ああ、小鳥遊の蔑視が痛い。もういっそひと思いに殺してくれよ。
「今の一言で私、完全にキレたわよ……どうして襲わないの?! 秋葉にはそんなに魅力がないっていうの?! 見てみなさい、このパーフェクトなボディにキューティクルな顔! こんなに可愛い女の子が脱いだというのに手を出さなかった? 侮辱にも程があるわ!」
そっちかよ! 相変わらず掴みどころのない人だな。
ご飯が冷めるといけないということで、食事を先に済ませた後に三十分に及ぶ説教を終えて、次にそういった機会があった場合、躊躇しないことを無理やり誓わされてこの件は不問となった。
でも妹に手を出すことを強要する姉ってどうなんだよ。
今は秋葉のことが好きだから自制できる自信はないけど、本人の意思を尊重しようぜ。さっきのガールズトークの様子だと秋葉には好きな奴がいるかもしれないんだろう?
昼食を済ませた僕らは送迎バスを出してもらって少し離れた温泉街へやってきた。メジャーな温泉街とは離れた温泉旅館っていうのも珍しいよな。
女将の話によると、時期が悪かったようで今夜あたり台風が直撃する可能性があるということで、僕らは日保ちしそうなお土産を買って行くことにした。
道中、地元のチャラ男が声をかけてきたけれど、
「ごめんなさい、私たちは彼の愛人なの」
可憐さんが素敵な笑顔でとんでもないことを言うから、地元のチャラ男に尊敬と羨望の眼差しを向けられました。
その後、同じような輩に数回声をかけられて同じやり取りがあったので、不本意ながらこれだけの美人たちを侍らせるジゴロとして有名になってしまった。しばらくこの辺りには近寄れそうにない。
華月のお庭番をしている源さん(ゲンさんと呼ばれているらしい)が送迎ついでに同行してくれたので、お土産屋さんで割引をしてもらえることが多かった。一体、この爺さんは何者なんだろう?
「姫島さまは女性に人気があるんですな。こう見えてわしも若いときゃ、そりゃモテまして地元で一番めんこい女子を嫁にもらったものです」
言いながら古ぼけた写真を見せてくれた。確かにかなり美人の女性の隣にイケメンが立っている。
「あ、すみません。こっちでした」
言いながら違う女性と写った写真と入れ替えた。
おい、今の女が誰なのか気になるじゃねぇか! どうやらモテたというのは事実らしいけど、妻ではない女性の写真を未だに持っているのはどうかと思うぞ。
一通りの買い物を済ませ(釘宮はどうして木刀を買ったのだろう?)、華月へ戻ってきた頃には天気も悪くなっていた。雨が降る前に戻って来られてよかった。
それから夕食までは各自好きなように過ごすことになり、僕は女将に用意してもらった部屋に荷物を移してからインベーダーゲームに興じた。同じところで何度もやられてしまい、なかなか奥が深いゲームなんだなと感心して、帰るまでには自己ベストを更新すると心に誓った。ベストスコア欄の上位三つを独占しているGENJIさんに少しでも近づくことを目標にしよう。
このとき、いつもは鬱陶しいくらい付きまとってくる二人がいなかったことに些かの疑問を抱いたけど、今日は可憐さんもいるからそっちで仲良くしているのかもしれないと思って気にしないことにした。