参上!アムドブレイバーX Ⅱ ◆
夜が来る。
街並みから明かりは消えて、子供達は床につく。酔っ払いは酒場から放逐されて、ただ静かに朝を待つ時間。
それでも、彼女の部屋から明かりは消えない。
一糸纏わぬ姿で、彼女は合わせ鏡を使い背中を見る。両手で握り締めるのは、小さな果物ナイフ。
彼女は想う。
竜鱗症の発症が近年無いなど、嘘だった。自分で命を断てば、その痕跡はどこにも残らない。
遺書に書けるわけはない。そんな事をすれば、自分の体が研究対象になる。竜鱗症の娘を育てたとあれば家族がどんな扱いを受けるか。
――だから、これは正義。
自分の命を絶つ事が何よりも正しい。教壇で子供達に語った事と、何一つ違いはない。
それが言い訳だと、彼女は理解していた。止めどなく流れる涙が、その証明。
彼女の呼吸が荒くなる。刃先を喉に近づけるたび、指先が大きく震える。
死にたくない。
死ぬしかない。
相反する感情を、理性で上書きする。生物としての本能を、理論で塗り替えていく。
だから。
「やっと見つけた」
男の声は、静かな部屋によく響いた。
「駄目じゃないか、折角舞台は整ったのに」
ランプの篝火に照らされる彼の顔は、笑っていた。外套のポケットから小さな鱗を取り出して。
彼女の唇にゆっくりと指先をいれ、妖しくそこをこじ開ける。
「先生なんだから。自殺なんてしたら」
人が変わったかのように、男は乱暴に腕を伸ばす。口を、鼻を両手で押さえ、その鱗を飲み込ませる。
喉が動く音だけが、確かに部屋の中に響く。
「……ね?」
――そして世界に、竜が生まれた。
§
俺たちは、轟音で飛び起きた。
いや、俺たちだけじゃない。暗闇だったはずの街に次々と明かりが灯る。
何が起きたのか。それを確かめようと、皆寝間着のまま窓から顔を出す。
だから、月明かりに照らされる緋色の竜を見て。
悲鳴が、街に轟いた。
「リュート、逃げるよ!」
母さんが叫ぶ。部屋から手早く貴重品だけを取り出しながら、声の限り叫んだ。守りべきものが、自分にとって大切なものが、これからも生きていくために必要なものが何なのかを知っていた。
だけど、父さんは違った。
「……竜だ、行かなくちゃ」
父さんは空を見上げ、当然の結果を呟く。学者としてその発言は、何よりも正しい。ただ研究したいだけなのか、その先にある富や名誉に興味があるのかはわからない。それでも、その目に宿っているのは使命感。この人なりにやらなければならない事が、今目の前にあるのだろう。
だけど母さんはそんな彼の胸倉を掴み、その頬に平手打ちをする。
「……馬鹿。死んだら全部終わりなんだから」
「……そうだね、ごめん」
俺たちの顔を見て、父さんが謝罪の言葉を口にする。悔しそうではあったけれど、母さんの言うことは正しい。
それがごく普通の反応。次々と街を避難する多くの人々と同じように、どうしようもないほどに当然の言葉。
今この瞬間でさえ街を壊す竜に対して、普通の人間が出来る唯一の事。
だからこそ、普通じゃない俺の胸には、父さんの言葉が胸に刺さる。
――行かなくちゃ。
その言葉は、俺が言うべき言葉だった。草原の上で小さな神様とやくそくをした、俺だけが言うべき言葉。
「父さん……あの竜は、助かるの?」
震える声で、俺は尋ねた。
「無理だろうね。軍が明日には駆けつけて殺される」
「そうじゃなくて!」
俺は叫んだ。そんな一般論は聞きたくない。違うだろ、そんな下らないことを言うために机に向かってた訳じゃないだろ。さっきの言葉は何だったんだよ。
拳を握る。爪が手のひらに食い込み、痛い。
「恐らくだけど……竜の鱗には役割がある。人と竜を繋ぐ鱗を破壊して、そこから同時に全部を壊せたら……助かる」
助かる。その言葉が聞きたかった。
俺は走る。部屋を出て、振り返らない。
母さんが俺に手を伸ばすけど、俺はそいつを躱してみせる。
――ごめん。
泣いていることも、俺の名前を呼んでることも、それぐらいわかっている。
後で沢山怒られよう。山ほど家事を押し付けられよう。
だけど俺は行かなくちゃならない。振り返って一緒に逃げることは出来ない。
俺は逃げない。絶対に負けたりはしない。
そのために、ここにいるから。
街を出て行く人の波に逆らい、走る。
竜は街を一瞬で瓦礫に変える。崩れ落ちた建物に、簡単に人が下敷きになる。
だから、俺は進む。
肩がぶつかる。人波をかき分けていくには、この体は小さすぎた。
「リュート!?」
振り返らない。聞き覚えのある声がヴィオラのものだってわかっていても、絶対に振り返らない、
「何やってるの! 早く逃げないと!」
大勢の人が逃げていく。その隙間を、俺は見つける。
「だから男は……」
そこをめがけて、俺は突っ込む。
「行動しなければならないっ!」
これ以上、誰も泣かないために。
立ち止まり、空を見上げる。
――ああ、これが竜か。
何重もの鱗に囲まれ、緋色のそれは月明かりを反射させる。どの建物よりも大きく、災害のようにそこにある。
竜が一歩進むたび、街が崩れる。
俺の過ごした街の景色が、一瞬で変わってゆく。
怖い。こんなに巨大だなんて、知識でしか知らなかったせいだ。
誰だって逃げる。こんな怖いものと戦うのは、ただ毎日を一生懸命に笑って過ごす人の役目じゃない。
だから。
――させない、これ以上。
ポーズを取る余裕はない。俺がするべきことは、そうじゃない。
ただ前へと進みながら、静かに呟くだけでいい。
「……変身」
その、おきまりの言葉を。
視界が変わる。暗かったはずの景色は、暗視ゴーグルのようによく見える。眼を凝らせば細部がわかる。動いているものの動きが、随分とゆっくりに見える。
世界が変わる。歩幅が、身長が大きくなる。一歩踏み出すだけで、自分の筋力が上がっている事がわかる。拳を握りしめるだけで、握力が何千倍にも跳ね上がっている事がわかる。
複眼に映る世界は、人間の脳の理解を超えていた。戦うための生物の世界。不要なものを全てそぎ落とし、必要なものをありったけ突っ込んだ世界。
俺は、飛んだ。地面を蹴れば、そのまま竜の顔に向けて一直線に進んでくれた。
竜と目が合う。自分が世界で一番強いって、自信に満ちた目をしている。
だからこそ、遅い。いまさら爪を向けたって、間に合うはずはない。
蹴りを放つ。一発、頬に。
爪先が鱗を抉り、衝撃波が身体を駆け巡る。
竜がよろめく。だが、終わらせない。倒れた脳天目掛けて、もう一発、かかと落しをくれてやる。
竜の鱗が剥がれる。
――やった。手応えも結果も、申し分ない筈だった。
それなのに、剥がれたはずの鱗は一瞬で再生される。
父さんの言葉の意味を、俺はその時初めて理解した。
鱗が隣接している限り、竜は再生する。切り離すのが唯一無二の苦肉の策。
一枚だけ選んで壊してあとは同時に全部壊せ? 無理、不可能。馬鹿なのかあの人は。
よろめきながら立ち上がろうと竜を観察する。翼が、尻尾が街に擦れるたび一枚の鱗が輝く。それは光ってなどいない。
熱。熱すらも感知する複眼だから見えた、たったの一枚。
首の後ろ。ああ知っている、逆鱗って奴だろう。
――そこか。
煉瓦の道が砕けるぐらい、強く大地を蹴り飛ばす。
高く、高く。
出来るかどうかはわからない。だけど、やらない理由はない。
右腕に念じ、描く。歪でもいい。黒く、身の丈の倍を超える、長い杭のような無骨な槍。目指す箇所は、ただの一枚。
そこを目指し、ただ真っ直ぐとそれを投げる。
「当たれええええええええええっ!」
声の限り、叫ぶ。
誰に届かなくたっていい。聞こえなくたっていい。ただ一人俺だけを奮い立たせるための、獣の咆哮。
黒い杭が鱗を貫く。その場で竜がのたうちまわる。
そこを目掛けて、俺は右足を前へ突き出す。
重力だけじゃ足りない。そんな衝撃で砕け散るほど、眼下の生物は生易しいものじゃない。
そう判断した瞬間、俺の背中が二つに裂けた。激痛が走る。血が吹き出るような感覚が俺を襲う。だが、それでいい。加速する感覚さえあれば、何も間違いなんてない。
だから何度だって叫んでやる。
「ブレイバアアアアアアアッ!」
もっと、もっと。一滴足らず絞り出しても、前へ進まなければならない。
「キイイイイイイック!」
砕けろ。願う、祈る。
右足が杭に触れる。衝撃が伝わり、連鎖的に鱗が同心円状に割れて行く。
もっと。
もっと、もっと、もっと。背中を開く。どうなったっていい、ただ目の前の竜の鱗が、一枚残らず無くなるなら。
「砕けろおおおおおおおおおおおおおお!」
夜空に二匹の竜が吠える。緋色の巨躯を駆る竜と、竜を模した正義の咆哮。
砕けていく。一枚、二枚。連なっている全部の鱗が、一つ残らず消え去るように。
――そして世界から竜が消える。
誰もが空を見上げていた。砕け散った鱗は輝き、街に緋色の雪が降る。
空を見上げる。複眼で見える世界では、眩しすぎる景色だった。
見下ろして、俺は彼女を抱きかかえる。肩を震わせ、ゆっくりと瞳を開いて。
「……誰?」
先生のか細い声が聞こえる。良かった、生きている。
仮面の下で、俺は精一杯笑って見せた。
だから、俺が初めてアムドブレイバー変身にした日は。
初めて竜が人に戻った、そんな一日になってくれた。