序章 ーreverce impressionー
ーー世間的に言うちゃんとした一般の学生の青春は、それなりに友人と平凡な学校生活を過ごし、それなりに放課後にカラオケに行ったり飯を食ったり部活に行ったりするものだろう。
だが、普通という物の難しさを、何年も生きるにつれてより感じるようになる。
この世の中は普通以下が基準で、普通は、裕福なのだと。
自分の命は、歪んでいると。
ーーその日の朝は雲も僅かで、まだ春先と言ってもいい季節に相応しい天気だった。
「いよーっす、肥後ー。いよいよ俺らも高校だーなぁ」
寮の隣部屋に住んでいる棚木 健太が、通学路を歩く僕、肥後 瑞樹に話しかけてくる。地方出身の独特のイントネーションの喋り方だ。健康的で平穏の象徴かのようにも感じる。
「ーーふぁ……そうだね。これで君も少し手の掛からない人間になればいいんだけどさぁ」
僕はいつも朝は血圧が低く元気が出ないので、静かにそう返す。寝起きが辛いのはいつもの事だが、こうして日を浴びないと調子が出ないのは面倒な事だ。
「ぬかせぇ。そんなお前こそ体育の授業ついていけんのか? 噂によると高等部には、夏に峠の向こうの海で遠泳授業があるって噂だがよ」
だが向こうはやや機嫌を崩したようで、そう煽ってくる。そういえばそんな事もあるのか。
「海かぁ……僕日差し弱いんだよなぁ」
海と聞くだけで憂鬱になる。女でもないのに日焼けに弱い自分の体質が色々と足を引っ張るせいで、クリームが未だに手放せないのだ。
「お前すぐに火傷するし色素薄いもんな。精々日焼けで全身ずる剥けにならないよう気をつけろよ」
そう言って棚木は意地悪く、快活そうに笑う。歯がやけに白く見えるのは、浅黒く日焼けした肌のせいだろう。半分は心配してくれているのもあるのだろうが。
ーー思えば棚木とは長い腐れ縁になる。3年前にこの学校の中等部に入学して、部屋が隣になったその年から、夏休みの最終日に宿題を手伝ってくれと泣きつかれたり、冬休みの最後に宿題を手伝ってくれと泣きつかれたり、飯時に醤油が足りないと泣きつかれたりとなんかもう散々だ。まぁそれでも、馬鹿だけどどこか憎めない奴ではあるし、体育の実技テストが近くなると身体が強いとは言い難い運動の苦手な僕の為に部活の時間を削ってまで特訓に付き合ってくれたりして、持ちつ持たれつなのだけれども。
「そういや昨日の入学式で貼り出されてたけど、お前とクラス分かれちまったなー」
残念そうに棚木は言う。
「それに関しては仕方ないよ。君は……本当は文理に分ける以前のレベルだけど、文系コースだし、僕は理系コースなんだから」
本心からいえば残念だが、仕方ないことだと割り切るしかない。
「……俺も理系の欄に丸付ければよかったかなぁ」
顎を人差し指でかきつつも、ぼやく棚木。確かに、今までは何だかんだで一緒だった。
「……いやいや、渡米をわたりごめと読む人間は、きちんと国語で日本語を勉強し直した方がいいと思うよ。本当大人になってから困るからね」
僕が苦笑いしつつ言うと、
「るっせー。昔の傷をほじくり返すなよ!」
恥ずかしそうに僕の背中を叩き、棚木は声を荒げた。
「痛っ! ……昔って、つい二か月前の期末テストの話じゃないか」
「俺は過去は振り返らない主義なんだよ、そこんとこ、宜しく!」
「ああ、だから君は馬鹿なんだな。合点がいった!」
癪なので、言い返す。
「はぁあああ? なんだと! 脳筋だからって馬鹿にすんじゃねぇぞ!」
「はは!……」
そんなこんなでお互いふざけあっていると、いつしか学校の立派な石造りの門構えが見えてきた。
校舎自体さもさながら、『第十七回 迅焔高等学校入学式』といった立て看板は片づけられ、昨日より些か閑散とした印象を受ける。
「んで、昨日俺んちの親は仕事で来なかったけどさ、お前んちは見に来たんだろ、入学式。どうだった? 感動の親子対面は」
茶化したように棚木は言う。
「どうもこうも、普通だよ。一緒にご飯食べて、少し話して、それで終わり。あ、あと少しだけ……お小遣いは貰ったかな」
「なんだよー、おめぇんところ、三年ぶりの再会だってのにそっけねぇなぁ、仮面家族かよ」
「そんなこと言ったってしょうがないよ。それに、三年も離れてたら逆に何話していいかわかんないし」
そう言って僕は昨日の食事の様子を思い出す。元気にやっているか、勉強はどうだ、などといった定型文をやり取りするだけで、それ以外の会話が弾むことはなかった。今思えば、両親も何を言っていいものか分らなかったのだろう。
「そういうもんかね」
門を抜けた僕たちは中庭へと向かう。校舎の構造上、中庭を越えないと僕たちの教室がある棟には行けない。何とも不便なものだ。
「そういえば棚木こそどうなんだよ? 僕以上に家族と会ってないじゃないか」
一つ気になって、僕は棚木に話しかけてみる。
「あー……ウチは仕方ねぇよ。両親共々ブルーカラーで、しかもきょうだいが多いとくりゃ、俺一人にかまけてる時間なんてあるわけねぇ」
そっけなく返事をしてくる、棚木。そういう家族自体は珍しくも無いが、ちくっとする。
「……寂しくは、ないのかい?」
「あっれー、肥後クンはパパとママに会えなくて寂しいのかな? ん?」
「茶化すなよ。そういう意味じゃないからさ」
馬鹿にしたような棚木の物言いにムッとする。
「わりぃわりぃ。あ、あんなとこに自販機とベンチが。ホームルーム始まるまで余裕あるし、あそこで一服してこうぜ。奢るからさ、な?」
すると誤魔化すかのように棚木はそう言って、駈け出した。流石に速い。
「お、おい、待ってって!」
僕は慌てて後を追いかける。そのペースには差があり、追いつくのは難しかった。
「あー、ココアでいいよな?」
さして疲れた様子も見えず財布を取り出した棚木は何とか息を切らして追いついた僕にそう尋ねてくる。
「そ、それでいいけど……急に走り出すのやめろよな。心臓に悪いから」
鈍足とは言わないが、自分は運動部に比べれば赤子同然だ。
「なんだよ、そんくらいで。七十のジジイじゃあるまいし、もうちょっと体力つけろよなー」
こちらを見ながら呆れ果てた顔で、棚木がふぅと溜息を付いた。
「大きなお世話だよ、肺も強いわけじゃないんだから」
と、言いつつも図星だから言い返せない。とりあえず傍らのベンチに座って、一息つかせてもらうことにした。
「ほい、ちょっと遅くなってすまんな。財布の中に10円が多すぎたわ」
それから二、三分した後、棚木は二つの紙コップを持って僕の隣に座り、右手のコップを差し出した。
「ありがとう」
「いやーラインナップが入れ替わってたけどさ、普通の缶とかペットボトルが売ってる自販機かと思ったら、紙コップのやつなのな。高速のサービスエリアぐらいでしか見たことなかったから、ちょっと吃驚しちゃったぜ」
そう言って、棚木はコップに口をつける。
季節は春と言ってもここは山の上にあるせいか、まだまだ吹きすさぶ風は冷たい。そんな中、紙コップ越しに伝わるじんわりとしたココアの温かさが嬉しかった。
「いやな、さっきの話だけどよ。別に親に会えないことはそんな寂しくねぇんだ。ただ残してきた妹達のことが気にかかってな」
しばらくして、棚木は真面目な顔をして口を開く。
「特に一番下の妹は、俺がこの学校に決まった時はまだ二歳になったばっかでさ。そんでも俺のことを慕ってくれてて、『にぃに』なんて下っ足らずな声で俺を呼んではずっと後をついて回ってたんだ。正直邪魔に思ったことも沢山あったけれど、その妹も俺が卒業する頃には八歳。きっともう俺の顔も忘れちゃってるんだろうって思うと、それが少し寂しいなぁ」
棚木は困ったように笑う。
その顔の裏で、本当に言いたい事が推察された。
「……それは辛いだろうね。……しかしまぁ、なんでこの学校って正月すら家に帰れない上に、入学式とか文化祭とかイベント事でしか一般開放されないんだろうね」
一応心を汲んだ上で、問いかける。色々と私立は束縛が激しいが、ここまでとは。
「確かにな。しかも全部平日開催とくりゃ、よっぽど他人を学校に入れたくないんだろうなぁ。……あらよっと」
棚木はすぐに飲み終わったココアの紙コップをぐしゃりと潰し、向かいのごみ箱目掛けて高く放り投げた。それは綺麗な放物線を描いて、まるで吸い込まれるかのようにストン、とゴミ箱に落ちる。
「よっしゃ」
小さくガッツポーズをして棚木は立ち上がった。
「まぁ、俺たちゃそれを承知で入ったんだ。いまさらグチグチ言ってもしょうがねぇ。田舎だけどいわゆる大学並、っていう設備を使わせてもらってるんだしな。普通の高校はまだ木の横開きの扉だろうが、うちの高校は鉄扉だし、巨大な聴講室もある。トレーニングルームにしたってまず普通の学校には無いレベルだしさ」
「……それもそうだね」
僕は目を伏せる。
「なんか湿っぽい話しちゃって悪かったな。あ、そうだ俺、部室に忘れ物してたんだった。すまんが先に行くわ。また昼休み、食堂でな」
「わかった。ホームルーム遅刻しないよう気を付けなよ」
「おう。付き会ってくれてありがとーな」
そう言って棚木は教室のある棟とは反対の、僕たちが通ってきた方向の道を駆けていく。
「他人を学校に入れたくない……か」
棚木の背を見送ってから、僕はそうひとりごちる。
そんな秘密が、この学校にあるとは思いがたいが。
「まぁ棚木の言うとおり、考えても仕方ない話だ。僕もそろそろ教室行かなきゃ」
大分ぬるくなってしまったココアを飲みほし、立ち上がる。
――その直後。
「おい、そこの色白のあんた」
ふいに、後ろから声がかけられた。
「僕……ですか?」
教師にしては若い、不遜な物言いに少しの不快さを感じながらも振り返る。
「あぁ。そこのあんただ。すまんが事務室は何処だ? この学校、棟が多くて何が何だか分からないんだよ」
そう言って、僕をまっすぐに見つめた男は、僕の人生において見たこともない風采をしていた。
まず目立つのは男にしては長い、肩につくほどのアシンメトリーな二色の髪。メッシュとでも言うのだろうか、狼を思わせる黒い毛並みに、幾筋かの金色の房が見え隠れしている。顔立ちは精悍としていて目付きは鋭く、制服の上からでもわかる筋肉質な体型と相俟って、常人ならざる雰囲気だ。
そして何よりも、彼の肩には折れ耳の猫――そう、テレビとかで見たことがある、スコティッシュフォールドとかいう種類の猫だ。それがちょこんと乗っていて、小首を傾げている。くりくりとしたまあるい目に、吸い込まれそうなロシアンブルーの瞳。十人が見たら十人全員が愛らしく思うであろう程の器量良しだ。
「ーーっ」
そのあまりにもアンバランスな風体にあっけに取られ、僕は言葉に詰まる。
「……事務室。分からないのか?」
男は怪訝な顔で再度聞き返してくる。
「ーーあぁ、えぇと。事務室ならここから見て、一番左の棟の一階にあります」
汗でずり落ちた眼鏡の位置を整えながら、僕は何とか言葉を絞り出す。
「サンキュ、恩に着る」
男が会釈よりやや深く頭を下げると、彼の猫は落ちそうになって必死に男の肩に爪を立てるが、男は痛がる様子もなく猫の尻を支えて軽く乗せなおす。
「にゃん」
「アナスタシア。……分かってるって。礼はちゃんと言っただろ?」
しがみつきながらも小さく猫が鳴くのを見て男は無造作に猫の頭を撫でると、スコティッシュを肩に乗せたまま歩いていった。
彼の後ろ姿を見ると、白とチャコールグレーのまだらな尾が半円を描くように彼の背中で揺れていて、ああ、毛玉凄いだろうなーとか、制服のクリーニング大変そうだなーとか、つい頓珍漢なことを考えてしまう。
ーー一体、何者なのだろう。この学校で過ごして長いけれど、あんな人間は見たことが無かった。
転入生……なのだろうか? 全寮制の中高一貫校と言えど、その偏差値の高さから、転入してくる物好きがいないわけではない。しかし、それを差し引いてもやはり妙なのだ。 あんな風貌の人間なら昨日の入学式で目立つはずだし、また、噂にもなるだろう。しかしそのようなことは一切見てもいなければ、聞いてもいない。何らかの事情で入学式を欠席したのか、或いは上級生……いや、上級生なら事務室の場所は知っているだろう。この学校は高等部への転入は認めているが、それは高校受験制度に則って入学したものだけであり、実質学期途中での転入及び上級学年での転入は受け入れていない筈だ。そうなるとやっぱり彼は同年の転入生(物好き)で、昨日は普通に休んでいただけなのかな。
と、一人で結論付けていたらホームルーム五分前を告げる予鈴が鳴る。
「……やばっ。こんな最初から遅刻なんてしちゃ話にならないや」
僕は慌てて校舎へと駈け出したのだった。