33.預かりもの
「御免ね、こんな朝早くに」
居間に通して座布団に座るなり、開口一番言われた言葉に浅沼はちょっと面食らった。それを言ったのがあの市子だったからだ。両目を覆い隠すようにして包帯を巻いた、奇妙な風体の少女。遠慮なくずけずけと物を言い、あまりいい印象のなかった少女がそんな殊勝なことを言ったことが、やや信じられなかった。
「ただ、私たちはすぐに次の場所に行かなくちゃいけなくなったから、この時間しか取れなくてね」
「……そう」
それなら、別に来なくてもいいのに……とは思うものの、口には出さず内心に留める。
ちなみに現在、浅沼の正面に正座しているのはどういうわけか市子の方だった。保護者であり主導者であるはずの狐は、伏し目がちに市子の後方に座っている。先日にはあった人当たりの良さも見られない無表情だった。よくわからない配置だった。
「……それで、何の用?」
夏休みとはいえ、生活のリズムはあまり崩したいものではない。こんな朝早くから起きていたくもないし、昨夜だってまともに眠れていないのだ。
「ちょっと謝りたいことと、訊きたいことと、渡したいものがあってね」
市子は形ばかりに出されたお茶のコップを手に取り、口を付ける。
その様子をわずかな苛立ちを腹底に抱えながら眺めていた浅沼は、ふと先に口を開いた。
「――山には、登ったの?」
それほど訊きたいことでもなかった。ただ口をついて出ただけだ。だから、どうして? などと返されれば引っ込める、その程度の問いだった。
だが市子は、訊き返したりなどはしなかった。
「登ったよ」
「……え。それって、もしかして昨日?」
「そう、昨日。満月の夜に」
何でもないことのように応じ、市子は再び茶をすすった。浅沼はそんな市子を、狐を、軽い驚きとともに見やる。
満月の夜の登山など、この村では禁忌中の禁忌だ。それこそ浅沼が母と弟を同時に喪ったのが満月の夜であって――しかしこのふたりはこうして無事にここにいる。
……何でもないことだった、ってことかな。
やはり神隠しなど、眉唾だったということか。
そう、浅沼が内心につぶやいたとき、ようやく市子がコップを置いた。
「まずは謝りたいこと。この間のことと、今日のことだ。――御免ね。藪から棒に、変なこと訊いたり変な時間に来てみたり」
「いや……別に、いいけど」
戸惑いに瞳を瞬かせながら、浅沼は応じる。随分と素直だ。しかも、こちらの迷惑になっていることにも自覚はあったらしい。ますます驚き、不信だった――この少女、本当にこの間の人物と同じ人間なのだろうか。別人ではないか?
しかし、そんな浅沼の内心に構わず市子は話を進める。
「訊きたいこと――これは、もうあとひとつだけなんだ。これで最後。多くは訊かない」
「……なに。聞くだけなら、聞くけど」
「家族のこと」
端的な市子の言葉に、ん、と浅沼はわずかに身構えた。また、何か詮索されるのだろうか。もう本当に、答えられるようなことも、答えられることもないのだが――しかし、市子の問いは浅沼の思うもののどれでもなかった。
「いなくなってしまったあなたの家族は――今でもまだ、あなたにとって家族かな?」
「……は?」
質問の意味がわからなかった。意味も、意図も。
市子の言わんとしていることが、まるで掴めなかった。
「どういうこと?」
「別にどうということもないんだけどね。率直な答えが聞きたいかな」
言葉は軽い。実に気軽だ。だが、当の市子の態度は言葉ほど軽々しいものではない。
居座りの姿勢も。表情も。
その瞳の奥だけは、決して窺い知れるものではないが。
「……山に、登ったんでしょう、昨日の夜」
満月の、夜。
「うん、登ったよ」
「そこで……何か、あったの?」
あるいは……何かに、会ったの?
言外にもそう問うた浅沼に、市子は数呼吸を空けて、曖昧に微笑んだ。
「あったと言えばあった。けれどもそれは――それほど、この場で重要になる話でもないよ」
それはまた別のお話――と嘯くようにつぶやいて、市子は口を閉じた。
数拍待っても、市子は何も言わない。
待っているのだ。浅沼の答えを。
先の問いに対する応答を。
……今でもまだ、私にとって家族なのか、か……
奇妙な問いだ。奇妙と言うよりも、奇抜だ。どう答えるのが相応しいのかもわからない。
けれど、
……うん。
「家族……だよ」
「そう?」
「そうだよ。だって、」
今でもまだ、会えるものなら会いたいって、私は思っているんだもの。
一緒に暮らせるものなら、暮らしてみたいものだって。
理由は、言葉にはしなかった。
考えないようにしてきただけだ。
どうして自分には母親がいないのか、年相応に悩んでいた頃もあった。それを苦にした時期もあった。
当然だ。
ただ、現状に慣れてしまったのだと、自分は平気なのだと、思い込んでいるだけなのだ。
会えるものなら、暮らせるのなら、そうしたい、と。
そう願うだけでも苦しくなりそうで、それが嫌で、避けてきただけだ。
寂しいと、そう思わないわけでは、ない。
「――そう」
市子はそう応じて、ひとつ頷いた。
浅沼の内心を聞き取ったわけではないだろう。言葉にしていないのだから。だがそれでも、何か悟るところはあったのか――市子はそれ以上言及することはなく、頷き、微笑した。
よかった、と。
「訊きたいことはそれだけだよ。そしてこれで本当に最後――あなたに、渡したいもの」
そう言って市子がどこからともなく取り出し、己の前に置いて、指先でこちらへ押し出してきたそれは、
「……簪?」
木製の簪だ。丁寧に削り出され、精密に研磨された、上物と見られる簪である。市子を見ると、少女は頷いた。
「そう。私からのものではないよ。あなたに渡すように頼まれてね――誰から、とかそういうことは訊かないでね。答えられないから。何も言わずに受け取って」
わざわざそうやって前もって言うからには、確かに訊いても答えてもらえないのだろう。非常に気になるところであったし、誰からかもわからないものを受け取るのは正直気が進まなかった――が、その簪を手に取ってみると、不思議と手に馴染むような感覚があって、もらってもいいかな、という気持ちになった。
「ああ、それと一言――それが似合うような女性になってくださいって」
「……何それ」
ふ、と小さく吹き出してしまった。今の浅沼は肩までのショートカットだ。簪を使えるほどの髪の長さはない。
ただ……その一言で、何だか毒気を抜かれてしまった。
そんな浅沼の、心に生まれた余裕の隙間を見て取ったのだろう、市子はやおら躊躇いなく立ち上がった。
「うん、よし。それじゃあ渡すものも渡したし、私はいよいよお暇するよ。これ以上お邪魔もしたくないしね」
「そう――わかった」
浅沼も頷いて、簪を手にそのまま立ち上がった。
祖父母は既に田畑に出ている。見送りくらいは、するべきだろう。
市子と、その後に続く狐の後ろを歩いて、ふたりが靴を履くのを待つ。あの白い犬は今回は中まで入らず、外で待っている。
「じゃあ、ね――多分私はもうここに来ることはないけれど。元気でね、浅沼さん」
「え、うん。有り難う……あなたたちも、ね」
じゃ、と手を振った市子に小さく手を振り返し、目礼する狐にも浅く礼を返して、浅沼は彼女らの背を見送った。
門を出て、見えなくなるまで待ったところで、浅沼は戸を閉めて居間に戻る。コップなどを片付けてから、もう一眠りしようか――そんなことを考えながら、歩いている途中で、
「――ん?」
ふと、何かが気になった。何かと言えば、手触りだ。何の気なしに手の中で転がしていた、市子から受け取った誰かからの言伝物。
その手触りに、何か。
表面は、何かがコーティングされているのではないかというほどにすべすべとしていて心地よい手触りなのだが、どこかに――あった。
その一点、手触りに違和感をもたらしたその一点をよくよく見つめてみる。
何だかよくわからないが、どうやら何かが刻み付けられているようにも思われた。手許が暗くてよくわからない。
ちょっとした傷なのかもしれなかったが、なんとなく気になって、浅沼は足早に居間へ戻り、明かりのもとで再度目を凝らしてみた。
「――んん?」
目を細めて、爪先でなぞるようにして見ると――どうやらそれは、文字であるようだった。
それを、何度も繰り返しなぞってみると、
“あさぬま・みなみ”、
と、酷く拙い筆跡で、そう読み取れた。
一瞬、あの少女が刻み付けたものかとも思ったが――すぐにその考えを打ち消す。あの少女の言が本当なら、これはあの少女にとっても預かり物なのだ。浅沼の名を刻み付ける意味などない。
――今でもまだ、あなたにとって家族かな?
ふと、市子の意図のわからない問いが脳裏をよぎる。
「……これって」
しばらくの間、浅沼はその場に佇んでいた。




