31.実検③
見上げるほどの巨漢。
しかもそれは誇張でも比喩でもなく、犬丈の白犬や、年端もいかない少女である市子が見上げるほどという程度でもなく、180を超える長身の狐でもまだ見上げることになるであろう、身の丈3メートルはあろうかという大男だった。
……この者は……!
白犬は瞠目する。
大きいのは身長だけではない。腕も脚も大木のように太く、胸板も厚く、そこに佇むだけでとてつもない重厚感を発するほどに、ひとつひとつのパーツが巨大だ。
少年のように明らかな非人間的部位こそないものの、やはりこちらも、およそ人間とは思われない様相だった。
「警告を無視して入り込んだのは私たちだからね。そこを謝ることは全くないよ」
己の三倍は高さのある巨漢に対して、市子はやや的のずれたような返事を返した。それからようやく、“それ”の方へ向いたままだった身体をそちらへ向け直す。
「それにまあ、そのヒトを放してあげるのは大いに構わないのだけれど、でも放した途端にまた襲い掛かられても面倒だからねえ」
「そんなことは、俺がさせない」
「どうかな。そっちのヒトはそうしてもらえそうな感じじゃないんだけど」
市子が軽く示して見せたとおり、少年は狐の下でも未だ眼光を減じさせていない。歯を剥いて食い縛り、隙あらば抜け出して戦闘へ転じる気に満ちている。
だが、巨漢は再度首を振った。
「そんなことは、俺がさせない」
「保証できるの?」
「俺の名に懸けて、だ」
「そう。それじゃあ、あなたの名を聞こうか」
それは遠回しな誰何だ。それを知ってか知らずか、巨漢は頷いてみせる。
「俺の名はケイジ。姓はない。この近辺の族長のようなものの立場にある」
「そう」
ケイジという巨漢の名乗りに短く返すと、市子は狐に向けて頷いて見せた。応じて、躊躇なく狐は拘束を解き、一足で市子の傍まで跳び返る。
対して拘束を解かれた少年は、速かった。素早く畳まれた身を立て直すと、片足をグリップに反転、狐の後を追うようにして再び攻勢に転じようとして、
「――シンタロウ!!」
ケイジが大喝した。
その怒声は周辺一帯を痺れさせるほどに覇気の込められた一声で、少年の足を止めるには十分に迫力が込められていた。
「戻れ、シンタロウ――お前の及ぶ相手ではない」
「でも、大将」
「戻れと言っている」
静かな、しかし静かなる迫力をまとったケイジの言葉に、まだ納得のいかない様子の少年も、さすがにそれ以上の攻撃を諦めた。市子と、そして狐を睨めつけながら、後ずさるようにしてケイジの一歩後ろまで退く。
それを確認してから、ケイジは市子へ目礼する。
「――若者の粗相、大目に見てくれたこと痛み入る」
「別にいいけどね。――名乗り遅れた。私は市子だよ。三人市虎を成すの『市』に、子を見ること親に如かずの『子』で、市子。イチコじゃないよ。イチゴだよ」
市子の名乗りに、ケイジは頷いて返した。そしてその対応に、白犬は疑問する。
市子の名を聞いても、ケイジに目立った反応はない。少なくとも、これ以前に市子を知っていたようには見えない。
……守護連の関係者では、ない?
守護連に所属する者であれば、市子の名を知らない者はほとんどいない。それこそ、入隊して間もないのでもなければ、不可触として認識されているはずだ。しかし、そんな様子は窺えない。
ならばやはり、守護連とは関わりのない者か?
しかし、彼らが使用していた矢は守護連が用いる術式を付与されたものだ――これは、一体。
……どういうことに御座るか?
だが白犬の疑問に構うことなく、市子はケイジへ問う。
「それで、ケイジさん? あなたは私たちに何か御用なのかな? まあ聞くまでもないんだけど」
市子の物言いは、ともすれば相手の神経を逆撫でしかねないものだ。ゆえに市子の後ろで聞くことしかできない白犬は肝を冷やし、ケイジの後ろの少年はまた歯噛みして前へ出かけ、ケイジに手で制される。
「勿論、用があってここに来ている。――問う。君たちはここで、何をしようとしている」
態度はあくまでも穏やかに徹している。だがその声音には、有無を言わさぬ響きがあった。
答え如何によっては、それも崩しかねない雰囲気だ。
「なに、と言ってもね」
薄氷の上に成った静寂にも、しかし市子は躊躇なく踏み込む。
「別に悪いことをしようってんじゃないよ」
「良し悪しを問うているのではない。何をしようというのかを問うている」
「拘るねえ……ま、隠すことじゃないけど。何をしようとしているのかと言えば、簡単に言うと、調査だよ」
難しく言っても調査だけどね、などとも言う。
……それは要らん一言に御座る。
市子の返答を聞いたケイジは、調査? と首を傾げた。
「調査とは、“それ”の調査か?」
「そうだよ。“これ”の調査」
ケイジが示し市子が指さすのは、当然ながら、“それ”。
“裂け目”だ。
「そうか。――しかし、それならばやはり、俺は君たちをそれに触れさせるわけにはいかないな」
「どうして?」
「その必要はないからだ」
「どうして?」
市子は二度、同じ反問をする。
「どうしてその必要はないと?」
「それは既に調査済みだ」
「ああ、まあ、50年前にね。それは知ってるけど、でもそれじゃ駄目だったってことがわかってさ」
「50年前……? いや、そんな昔のことなど知らん」
「ん?」
市子が首を傾げた。なに? と白犬も内心に首を傾げる。
50年前では、ない?
……ゐつ殿ではないと?
だが、ならば誰が、いつ調査したと?
「ふうん……じゃあ、最近誰かが調査したの?」
「それに答える必要が?」
「まあ、ないけどね。でもそれを聞いたところで、やっぱり私はこれに手を出さないわけにはいかないかな」
やれやれ、と市子は軽く肩をすくめた。ケイジは表情こそ変えないが、剣呑な雰囲気は増す。
「なぜ?」
「一目瞭然――だってこれ、何の対策もされてないんだよ?」
“これ”、と市子は指し示す。
「何の対策もされていない。っていうかまあ、ゐつさんの術式が解かれてるんだからね……むしろ悪い。誰が何の目的で何をしたのかはわからないけれど、これはさっさと対策しないと後に響くよ」
「何の話をしているのかさっぱりわからないが」
「“これ”の話だよ。“これ”の話以外はしていない」
だからさ、と市子は続ける。
「このままにしておけば、遠からず“これ”はまた開くんだよ。それこそ、50年前に――そして12年前に逆戻りだ」
12年前、という単語に、少年が反応した。眉根を寄せ、市子を睨む。
ケイジは大きく取り乱すことはなかったが、こちらもわずかに眉根を寄せた。
「逆戻り、とは?」
「神隠しがまた起こり始めるってことだよ」
「…………」
「それは困るでしょ? あなたたちも」
どう? と市子は問う。ケイジはしばらく何も答えなかった。
黙考している。
市子も、その沈黙に言葉を挟むことなく、ケイジの答えを待つ。
「……いや」
やがて、ケイジは首を振った。
「困らないな。仮にそのようなことがあったとしても、俺たちが何者もここへ通さなければいいだけのことだ」
「いやあ、どうだろうねえ。それでもやっぱり、困ると思うよ」
ふふ、と市子は含み笑いなどする。市子のその態度を受けて、今度こそケイジは、はっきりと眉根を寄せた。
「どういう意味だ」
「だってこれ、広がるから」
広がる、とやや大げさに両手を広げなどして、市子は続ける。
「広がるんだよ、これ。大きくなるんだ。この裂け目は大きくなる――だから、さっさと対応しなきゃいけない。誰も寄せ付けなければいいって話でもないんだよ、ケイジさん? 50年前にゐつさんがそうしたように、私も今ここで封じておかないといけないんだ」
どう? と市子はケイジに問う。口端に笑みを刻み付けて。
「別に悪いことをしようっていうんじゃないんだ……私としても、これは御仕事の一環でね。いざとなったら強引にでも敢行するけれど、できれば穏便に進めたいところだ。だからどうだろう、ケイジさん。そこにいる分には問題はないから、黙って眺めていてはもらえないかな?」
市子の言葉に、ケイジはすぐには応えなかった。再び沈黙する。
そして今度の沈黙は、先程よりも長く――ようやく口を開いても、その歯切れは悪かった。
「君たちを見逃せば、“これ”に危険はなくなるのか。“これ”が再び人を呑み込む危険は」
「残念ながらゼロとは断言できないけどね。何せゐつさんが取りこぼしてしまったんだから。12年前にね。――でもまあ、九割九分九厘は保証する。少なくとも、現状放置よりは遥かに確実に危険性は減るよね」
市子は即座に、そして淀みなく応じた。そうか、とケイジは頷き、瞑目し、口を閉じた。
今度の沈黙は、これまでで一番短かった。
「――それでは、頼もうか」
渋々ながら、といった内心をわずかに垣間見せながらも、そう言ったケイジに市子は笑みで頷いた。
くるっと身を回し、改めて“それ”に向き直ると、場の空気を刷新するようにひとつ手を打った。
「よし、それじゃあいよいよ取り掛かろうか。ゴザル君、狐さん、準備はいいかな?」
「いや、しかし準備と言っても市子殿、拙者らは一体何を」
「いつものことだよ、いつもと同じことだよゴザル君。まずは場を整調、続けて周囲一帯に結界祓い、私の合図で私のパスを通して」
それこそ当人の言うとおりに、いつもの通りにすらすらと指示を出し、再び市子は手を打ち合わせた。しかし今度のそれは先程と違い、明確な意味のある柏手だ。
乾いた音が、ひとつ。
場を整える。
「始めるよ。これ以上もったいぶるのは尺がもったいないからスマートに行こう。さあ――世界の“門”に、鍵を掛けよう」




