30.実検②
「――――!」
“それ”に視線を当てた次の瞬間、先に倍する勢いで白犬は視線を逸らしていた。
「……は、……ぁ、――は」
激しい呼吸を繰り返す。思わず舌を出して喘いでしまった。
それほどの衝撃だった。
……盲いたかと、思い申した。
己の足元を凝視する。――見える。見えている。だが、もう一度視線を上げることはできなかった。
一瞬だけ認識した“それ”は、さながら空間に空いた裂け目だった。……成程あれは確かに、何かの“口”に見えなくもない。
だが、その“口”の内側には、何もなかった。
冗談ではなく、比喩でもなく、空っぽだったというわけでもなく、まさしくそのまま“何もなかった”。
何もかもを呑み込んでいるようにも思われる“それ”は、光も、視線すらも喰らい尽そうとしているようだった。
もしもあと数秒長く見つめていたら、視力を――いや、存在ごと喰われていたかもしれない。
そんな恐怖が、白犬の全身を襲った。
「――市子、殿」
苦しい呼吸の中、白犬は極力“それ”を視界に納めないようにしながら市子を見上げる。見れば、狐までもがやや顔色を悪くして、あらぬ方向へ視線を向けていた。狐も、白犬と同じく“それ”を見てしまったのだろう。そして同じ症状に見舞われた。
だが、果たして市子は。
「んー……やれやれ、今回のこれは想定以上が多いかな。全く、どうなってるんだろうね? 困っちゃうよほんと」
そんな調子で、つまりは平素と何も変わらない物腰で、ため息などついた。
考えてみれば確かに、“肉眼”では何も見えない市子は、“それ”を見ようとしても見えないのだから、白犬や狐がとらわれたような恐怖に晒されることはないのかもしれない――だが、しかし。
“喪失”の恐怖は肉眼よりも、市子のような霊視にとった方が大きいのではないのか?
「――おやおや、ちょっとちょっとタヌキ君、しっかりしてよ」
白犬の懸念を余所にそんなことを言って、振り返った市子はおもむろに狐に抱えられていたぬいぐるみの顔面を握り潰した。
アイアンクロー。
市子の平坦な容赦のなさで憐れ無残な様相になってしまったが、それで、視界を塞がれていたことで、ぐてっと舌など垂れ出して虚ろな目になっていたぬいぐるみが蘇生した。
「――ぅお、なんだ。何が起こったんだ」
「いや別に、これといったことは起こってないよ。――ただ、タヌキ君が帰らぬタヌキ君に成り損なっただけだ」
「いやそれは大問題だ! オレサマが帰らぬオレサマになるなんてのは!! ……成り損なった?」
「ともあれ、狐さんも、ゴザル君も、大丈夫? まあふたりはタヌキ君ほどやわじゃないから大丈夫だとは思うけど……」
市子の呼びかけに、狐も白犬も頷いて応じる。大丈夫とは、言えないかもしれないが……狐はともかく、白犬には声で応じるほどの気力がなかった。
精気をごっそりと失っていた。
「市子殿は……平気なので御座るか」
「ん、まあ平気ってほどではないけど、問題はないよ。――ともあれ、狐さんもゴザル君も“あれ”と正面から向き合うのは難しそうだね」
仕方ないかな、と呟くと、市子はそのまま躊躇いなく“それ”に向き直り、すたすたと歩み寄った。
“それ”に。
「――、市子殿!」
「や、大丈夫だよ。ちゃんと対策はしてある。いきなりすぽんって呑まれちゃうなんてことはない」
「しかし――」
「心配しなくても、“これ”にはもう自発的な吸引力はないよ。ゐつさんの封印は、誰がどうやったものか壊されちゃってはいるけれど、その最低線はどうやら幸いにして踏み越えていない。――それに、なかなかない機会だからねえ」
ふふ、などと市子は含み笑いなどした。白犬にとっては、恐らく狐にとっても、今の状況はとても笑えたものではないのだが。
「いい機会、とは」
「いい機会はいい機会だよ。“境界線”を、それとも“門”かな、それを“視る”ことのできる機会も、さらにはその“向こう側”を“視る”機会も――不謹慎かもしれないけれど、こればかりはちょっと有り難いよね」
「市子殿!」
「わかってるよ、大丈夫。本分は忘れてないよ。御仕事もちゃんとするって」
言いながら、淀みない足取りで“それ”に接近する。白犬には為すすべもない――が。しかし、ふと狐だけは何かに反応した。
わずかに足を踏み変える。
その間にも市子は、一歩、一歩と“それ”に近づく。
「この場合の御仕事っていうと、まあ“これ”を開かないようにするってことだよね……ただ、それに関連していくつかまだ残っていたりして――ね」
すたん、と。
“それ”まで残り一歩の距離を残して、ふと市子が足を止めた。
そしてそこで、静止していた状況が急転する。
動いたものはふたつ。
市子の横手、その茂みが不意に鳴り、一迅、何かが飛び出した。
視認速度を超えるその影は、瞬足、“それ”の直前で足を止めた市子に迫る。
急襲する。
だが、動いたものはもうひとつ。
白犬の横から、長身が消えた。
二条の土煙が、市子の右方に交差する。
「――な」
白犬は息を呑むことしかできない。
市子の細首へ向けられた貫手。
その手首を、がっちりと掴み止める狐。
その貫手の主は、
「何者に……御座るか」
白犬にはそれが、何者なのか判断がつかなかった。
一見は、少年の姿をしていた。
手をもち、脚をもつ。人の四肢を以て立っている。
だが、それ以外にも少年はあるものを備えていた。
人の手指には生え得ない、硬く強靭な爪。
獣爪。
そして、尾。
さながら狼の如き黒の尾を、彼は尻に引いていた。
「――く」
少年は己を阻んだ狐を睨み上げ、掴まれた左腕を振りほどけないことを悟ると素早く次の動きに移る。
右脚を全開にかち上げ狐の顔面を狙う。だがその攻撃は、狐が首を軽く傾けるだけで難なく回避されてしまう。
それでも動きを止めず、続けて左脚で狐の脚を横薙ぎに狙い――しかしそこまでだった。
狐は少年に足払いを許すことなく、掴んだ左手首を軽く捻るだけで少年の身体がくるっと回り、ほんの一瞬だが自失した隙に泳いだ逆の手をもまとめて束ね、浮いた足を地面に捻じ伏せるようにして押し畳む。
瞬く間に、少年は小さく折り畳まれてしまった。
形としては、正座の足組みで上体を叩頭するまで押さえつけられ、両手を後ろ手にまとめられた体だ。
少年の登場から拘束まで数秒も経ていない。
「――この」
己の全ての動きを封じられ、完全に制されてしまったことを悟り、しかしそれでも少年の目から戦意は減じていなかった。
唯一自由の利く眼球だけを巡らせ、己を拘束する狐を睨み上げる。
「――放せよ、女」
地の底から響くような低い声音で言う。その口端からは、明らかに人よりも長く、鋭い歯が垣間見えた。それはまるで獣のそれだ。
しかし狐は眉根ひとつ動かさず――顔を上げた。
騒、と森が鳴った。市子らを取り囲む全方位の森だ。
そこにいる何者かたちが。
ざわめく。
少年の拘束から一拍遅れて、それまで一旦は落ち着いていた敵意が爆発的に膨らみ上がり、それらの全ては一線に市子へ向き、そして、
「「――そこまでだ」よ」
ふたつの声が重なった。
ひとつは、市子の声だ。まだ幼さの残る、年相応の少女の声。
もうひとつ。
白犬は声の発せられた方向へ向き直る。それは奇しくも、狐が注視している方向と同じだった。
「狐さん、ちゃんと忘れないでいてくれたね。有り難う。ゴザル君もとりあえずは待機だよ」
市子は、もはや心憎いほどいつもの調子でそんなことを言う。そして、それでようやく白犬も悟った。
……市子殿が先んじて“手加減”を念押しして御座ったのは、これを見越してのことに御座ったか。
てっきり、攻撃されても反撃するな、とそういう指示だと思っていたのだが、こうして現に直接攻撃に出てきたのだから、市子の中では想定内なのだろう。
しかし、と白犬は油断なく敵方の気配を探りながら、未だ狐に畳まれたままの少年を一瞥する。
……この者……
人間、ではない。
だが、怪異の類でもない。
しっかり人語も操るし、敵意に染まってはいるものの、その眼底には理性も見える。
人間ではなく、それ以外でもない者。
しかし、
……それでも一体、何者に御座るか?
「他の者たちも、攻撃してはならない。――矢を下ろせ。構えを解け。もう交戦はしない」
先の一声、市子と声を重ねた者。
それは重低音のきいた男声だった。年齢も、決して若者ではないことを窺わせるに十分なほど練られている声。
その声の主が、ゆっくりと姿を現す。
「――突然攻撃をしかけた非礼は陳謝する。どうかその者を解放していただきたい」
そう言いながら、ぬ、と木々の闇から現れたのは、見上げるほどの巨漢だった。




