29.実検①
市子が背にしがみつき直すのと同時に、狐は発進した。
しゃがみこんだ状態の低い姿勢から、まるで高さを変えない低姿勢で爆進する。最小限の動きだけで入り乱れる木々を縫うように回避し、斜面だけでなく幹や岩なども足場にして跳ぶ。
それは、初めに市子がやってみせた動きと同じものだが、
……さすがに狐殿は、危なげがない。
小柄な市子であるとはいえ、少女をひとり背負っているのにも関わらず、その動きには驚くほどの安定感がある。アクションとしてはただ後からついていくだけの白犬をして、ともすれば一瞬の油断で引き離されそうになる。現状、白犬の結界を狐の前面に展開し、正体不明者の襲撃は全て防ぎつつ、狐の機動力で強引に突き進む状態だ――まさしくそのまま突貫だ。結界を展開するために物理的距離は関係ないし、視界に入っておらずとも狐相手ならば、気配を追うだけで結界の展開自体は難しくないのだが……
……この山中で個々に分断されるようなことは、宜しくのう御座る。
連携が取れなくなることは、避けなければならない。いざとなれば白犬が攻撃系魔術を使うことも、狐が結界系魔術を使うこともできるし、何よりも市子自身が戦うことも可能だが――
市子の、市子ひとりでの戦闘。
……それだけは、避けなければのう御座る。
市子がひとりで、狐も白犬も経由することなく魔術を使うことは。
――それだけは。
だから白犬は、意地でも狐の背を追尾する。
……それにしても。
先陣を切る狐と付かず離れずの距離を保ちつつも(割と必死だが)、何とか敵を見定めようと視線を周囲に走らせる。
だが、やはり見えない。
市子の言う通りなら……市子の仮説が、少なくともある程度まで正しいとするのなら。
だが、“そういう視点”で見てみても、やはり捉えきれない。
……なんらかの術式で隠蔽されている?
だが相手は魔術師の類ではなく、戦闘に不慣れな複数人数。
ならば、誰かしらの魔術師から援助を……
……なぜ?
そして、そのような魔術的援助者が仮にいたとして、このような者たちを支援する意味がまるでわからない。
……人間ではない。
だがそれ以外でもない。
そう定めても、見定まらない。
「――結界を越えるよ」
市子の声で、白犬は我に返った。
視線を、前を走る狐と狐に背負われている市子の背、そしてその先に向ける。
高速の移動による豪風と揺れの先に、それが見えた。
木々を渡して在る、白の線。
注連縄。
それは実のところ、魔術的仕掛けのされていないものであって、ただの障害物のようなものであり。
接近は一瞬。
越える。
ここから先は、完全に未踏領域だ。
先の市子の見立てでは、エックスポイントまでの距離は恐らく残り半合。
そして、一行がその結界を躊躇なく越えた瞬間、攻撃の密度が倍加した。降り注ぐ矢が四方八方から盲目的に撃ち込まれてくる。それでも矢そのものが強化されているわけではないようで、十中八九は白犬が結界で弾くし、稀にすり抜けてしまったものも狐が難なく払ってしまうのだが、
……敵が、誰だかわからないが確かに存在する妨害者が、拙者たちの進行を防ぐためにこれだけ必死になるということは。
やはり、この先に“何か”があるということだ。
“それ”が何なのか、一体どのような様相をしたものなのかはまだわからないが――
そして、見えた。
視界の隅に、捉える。
そして、戦慄した。
……そんな、莫迦な――!
敵陣は戦闘慣れしていない一団だ。継続した、それも風を断ち割る狐の速度に追いつけない者が出てきたのだろう。視認したのは一瞬だ。互いに高速移動の間隙を縫うような刹那のこと、速度に呑まれてその誰かは後方へ消え去ったため、白犬が捉えたのは、ほんのわずかな残像程度のものに過ぎない。
だが、それで十分と言えた。
己の目を疑うには、十分。
……あれは――あの姿は。
白犬が捉えた刹那に見た姿は。
……あれではまるで、異形の――!
「抜けるよ」
市子の声で我に返った。白犬は慌てて前へと向き直り、同時に強引に己の身に制動をかける。そうでなければ、まるで慣性を無視した狐の急停止した背に全力で衝突してしまうところだった。
間一髪。
まあ、例え間に合わずに突っ込んでしまっていたとしても、例によって狐に軽くいなされていたような気もするが。
「よ、っと――お疲れ様。有り難うね。間に合ったみたいだよ」
「! 市子殿、まだ離れては――!」
気軽な調子で狐の背から降りた市子に、白犬が慌てて声をかけるが、市子はやはり軽い調子で振り返ると肩をすくめて、
「や、もう大丈夫だよ。大丈夫なんだよゴザル君――“彼ら”は今のところはここまでは来られない。ね?」
ほら、と周囲を示してみる市子。言われてみれば、確かに。
攻撃が止んでいた。
わずかに、市子の言葉に不穏なものが混ざっていたような気もしたが、とりあえずのところ、攻撃はなくなっている。
しん、と静まり返ってしまっている。まるで先程までの戦闘が嘘のように――いや。
いなくなったわけではない。
いる。
そこら中に、いる。
ただ、ある一線から外側を遠巻きに囲んでいるのだ。ぎらぎらとした殺気を、まるで隠す気配がない。
殺気。
いや、それでも殺気とはまだ異なるものかもしれない――殺気というよりは、怒気と言うべきか。禁足地に踏み入れた、禁を破った者に対する怒気。
だが、今この瞬間に注視するべきはそこではないだろう。
市子の言う“彼ら”が誰ひとりとして踏み込まない、ある一線。
市子たちが今現在立っているのは、自然の偶然か人為の結果か、山中で突然木々の失せる、空白のような空間だ。いや、これまで鬱蒼と茂っていた山中だ。ここまで綺麗に開けてしまっているのは、明らかに不自然である。
そして、開けている、ということは、満月の光が十分に差し込むということだ。ここまで隠密に徹してきた“彼ら”だから、ここで迂闊に姿を現すわけにもいかないということか……それも、もし先程白犬が見定めた“それ”が現実であるのなら、なおのこと――
……いや。
それが理由でない、ということはないのだろうが、最たる理由ではないだろう。
何せ、明らかに“彼ら”が近寄って来ない理由が、まさに一行の眼前にあるのだから。
白犬はそれに改めて視線を向け、それを見た――いや。
見えなかった。




