23.過去②
母は峠を越えようとしていた。
夜のことだ。真夜中。満月が恐ろしいほど煌々と輝いていたのを覚えている。その月明りだけを頼りに、母は幼い子供を連れて峠を越えようとしていた。
子供が、容易には治らない病に罹ったのだ。
高熱にうなされ呼吸は浅くなり滝のような汗を流していた。だが村に医者などなく、医者にかかりたければ隣村に行くしかない――だがその頃はまだ麓を迂回する道など全く整備されておらず、隣村へ行くにはその峠道を越えるしかなかった。
“逢坂”を。
越えるしか。
ただでさえ、普段から“逢坂”は安易に通ってはならない道だった。ましてや満月の夜など、何があっても決して通ってはいけなかったのだ。
だが母は通った。
通るしかなかったのだ。
病にうなされる子を、どうする手立てもなくただ見守るだけのことなど、母にはできなかった。
父は仕事で屋敷におらず、祖父母の制止を振り切って母は峠へと向かい。
そして、娘だけが帰ってきた。
それも、何週間も経てからのことだ。
知らせを聞いて戻ってきた父や、祖父母をはじめ村の全員が総出で山を探し回ったが、痕跡すら見つけられず。
娘だけがひとり、ひょっこり歩いて帰ってきた。
いなくなった日とまるで変わらない格好で、いなくなっていた間のことを人々が口々に問うても、娘は何ひとつ答えることができず。
浅沼・南波だけが残された。
そしてそれからほどなく、彼女のもとに謎の人物が数人で訪ねてきた。父も、祖父母も、他の誰もいない瞬間を見計らったかのように、ひとりでいた浅沼の元へ。
全員がそろって黒装束で、妙に目つきの鋭い人たちだったように記憶している。普通なら幼子は怯えてしまいそうなものだが、そして今思えばやはり多少なりとも怖かったように思うのだが、当時の浅沼は、家族を喪ったばかりの幼い浅沼は、恐怖どころかそれ以外の何の感情も湛えず、無感動に見上げていたように思う。そしてその人たちが彼女に二、三言問うたのだ。実際に何を問われて、それに幼い浅沼がどのように答えたのかは覚えていないが、彼らが最後に示した問いは、覚えている。
君は一体、何を見たのか、と。
そしてそれに、幼い浅沼はこう答えた。
食べられた、と。
言葉の足りない答えだ。だが今となっても、それ以上の答えは出せない。
今改めてその瞬間を回想し表現するなら、こうだ。
世界が突然口を開いて、母を目の前で食べてしまった、と。
当時、あの人たちが浅沼の答えに納得したのかどうかはわからないが、彼らはそれで帰って行った。
そして、市子も。
あの少女もまた、浅沼の答えを聞いて、何か考え深げにしながらも、それが決め手になったかのように席を立った。
世界が人を食べる。
それがどういうことなのか、正直に言うと、言っている自分でもよくわからない。それでも、そうとしか言いようがないのだ。
しかも。
その口は、初めは母と、母と手を繋いでいた娘とをまとめて呑み込もうとして――しかしとっさに娘を突き飛ばしたお陰で、母だけが食われた。
夜の森の、闇の恐怖と戦うために固く握りしめていた母の手が、いともあっけなく振りほどかれ、突き飛ばされ、動転している間に、母は消えた。
跡形もなく。
痕跡もなく。
気が付けば、自分以外は誰もいなくなっていた。
「……いや」
正確に言うならば、少し、違う。
残されたのは、免れたのは確かに娘ひとりだった。だが――喰われたのは、母だけではない。
弟。
高熱にうなされ、呼吸は浅く、滝のように汗を流していた生まれて間もない幼い弟もまた母の背に負われたまま――喰われた。
浅沼・南波は、母と弟を同時に喪ったのだった。
「……まあ」
それももう全て、取り返しのない昔の話、なのだが。
あのときの浅沼に、出来たことなど何もない。
顔も名も記憶のない、思い出のない母と弟に、何も思わないということはないけれど。母がいないという境遇に、辛く思うこともあったし、母が自分だけを助けてしまったことを、恨めしく思うこともあったけれど。
でも浅沼はこうして今も生きている。
だから。
過去は過去として、ずっと眠っていてほしかった。
浅沼が何度も何度も足繁く“逢坂”に通い、花を供えているのは、決して弔いの念だけではない――純粋な弔慰の念だけではない。
自分の中にぽっかりと空いてしまった、母という、弟という存在への穴に対するやるせなさ、虚しさに対する形付けでもあるのだ。
決別したいのに、その対象の姿が判然としないということへのもどかしさ。
「……そういえば」
もうすぐまた満月だったな、と小さく思い出した。あの子は“逢坂”を訪れようとするのだろうか、とも思い、けれども、
「……別に、どうでもいいんだけれど」
そう小さくつぶやいて、浅沼は目を閉じたのだった。




