21.浅沼⑤
市子の言葉に、浅沼は何か言おうと口を開いた。そして、しかし何も言えず、奥歯を噛んだ。
対して市子も、口をつぐんでそれ以上何も言わない。
それもそうだ。市子がしたのは質問だ。問いには答えが必要だ。解答ではなくとも、回答が。
だから市子は待っている。
「……それが」
やがて浅沼は苦々しげに、絞り出すように声を出した。
「その話が仮に本当だとして……だったら何だっていうの。あなたには関係ないじゃない」
少なくとも、そっちの研究者さんよりは、と浅沼は狐を見やる。市子の発言を全く止められなかった狐は、ただ困ったように眉尻を下げた表情で市子と浅沼を見やるばかりだ。
「それに……そう、あなた、さっきからまるで見てきたみたいな口ぶりだけれど、まさか本当に見てきたんじゃないでしょうね」
「見てきたんだよ。だから知っている」
な、と驚く浅沼に、市子は無表情に言う。
「見てきたから知っている――そして見たから知っている。浅沼さん、あなたはあの“逢坂”に、花を供えているんだね」
浅沼は今度こそ絶句した。だがこれには狐は驚かない。
狐も見ていたからだ。その現場を。
浅沼が、そこに花を置く様を。
だから、事ここに至ってしまえば、改めて確認するまでもないような自明のことなのである。
「予測、予想というまでの大したことじゃない。昔から神隠しの多かった山で、その“逢坂”と呼ばれる場所で、12年前に神隠しが起きていて、近づいてはいけないその場所に花を供えている人がいて、それが母を失ったあなただ」
「……別に、私のお母さんが神隠しでいなくなったとは、限らないでしょ」
あがくように、いかにも苦し紛れに、浅沼は言う。
「むしろ、神隠しでいなくなったって考える方がおかしいでしょ。事故かもしれないし、病気かもしれないし、失踪だったとしても、ただの行方不明だって可能性も」
「あったらあなたがあそこに花を置く理由がない」
凛とした市子の言葉に、いよいよ浅沼には言葉がなくなった。市子の態度は一貫して平静だ。この村民にとってのタブーに触れたことすら全く悪びれもしない。そのあまりにも堂々とした態度には、いっそすがすがしいものすら感じてしまう。が、
「――そう。……それで?」
掠れた声を絞りだし、乾いた唇を湿らせて、浅沼は言う。
そちらがそういう態度なら、こちらもそういう対応をさせてもらう。
「私のお母さんが、その12年前に神隠しに遭った人だっていうのが本当だとして、それで、なに? それ以上何が知りたいの? ……いいわ、認めてあげる。そうよ、12年前に神隠しで失踪したのは、私のお母さんよ。でもそれ以上は知らない。あなたが今まで話したことで全部よ。それ以上のことは何もないわ。……あなたの話は全部正解。正しかったわ。大したものね。これで満足?」
もはや喧嘩腰だ。先程までは辛うじてあった友好的な雰囲気はもう微塵も残ってはいない。今は何でもいい、とにかくこの連中に帰ってほしかった。
不快な過去を掘り当てられて。
苛々している。
「いや」
なのに。
「まだ少し足りない――まだあなたに、訊きたいことがある」
両目を包帯で隙間なく覆い隠すという奇怪なファッションのこの少女は、まるで温度を変えずにそう応じた。
「何よ。訊かれたって、話したくたって、こっちにはもう何もないんだけど」
「外の情報としては、外縁の情報としては、確かにこれで十分で、これで満足で、言うことはない、訊くことはないんだけれどね……その内側の情報が、多少でいいから欲しい」
だから、あなたに話してもらいたいことは、至って単純明快な事柄だ、と市子は言った。
「君のお母さんが遭ったその神隠しという事実の、その現象の、現実的な中身を話してほしい」
現実的な、中身、とは。
「12年前だから、あなたが5歳か、6歳のときだよね……覚えている限りでいい。現場にいたあなたの覚えている限りのことを、話して教えてほしい」
「ちょ、ちょっと待って、私がどうして現場にいたって」
「現場にいなかったのに、その瞬間を見なかったのに、あなたはあっさりと神隠しに遭ったと信じ込んで、そこに花を供え続けているのかい?」
現場を、その瞬間を目撃しているからこそ、それが神隠しという怪異現象によるものであることをまさにその目で目撃しているからこそ、神隠しを認め、花を置いているのだろう、と。
市子は、そう言う。
「…………」
「まあ、無理に話せとは言わないけどね。5歳やそこらじゃ覚えていることもそんなにないだろうし」
一転して、吐息も軽く言う市子。だがそれにつられて浅沼が肩の力をわずかにも抜きかけたその瞬間に、そこに差し込むように、市子は続けた。
「事件直後にやってきた黒装束の人たちに話したことと同じ程度でいいよ。私にもその程度で十分だ」
「――――!」
ばっと、思わず顔を上げて浅沼は市子を見る。対して市子は、何て事のないように小首をかしげなどして、来たでしょ? などと言った。
確かに、来ていた。当時浅沼は5歳だったし、家族を喪ったあとで錯乱していたけれども、やって来たその人たちのことは、よく覚えているのだ。
妙に威圧的で、そして不気味な人たち。得体の知れず、正体の不明な人たち。だが、
「……どうしてそれを知っているの? あなた何者? あの人たちの関係者?」
低い声音で、浅沼は問う。ただでさえ深かった疑心が、ここでさらに深まった。
あの謎の連中の訪問は、当時5歳の浅沼しか知らないはずなのだ。
父にも、祖父母にも知られず、ひっそりと音もなくやってきて、呆然自失だった浅沼に二言三言話を訊き、そして何をするでもなく、また音もなく去って行った人々。
それを、この少女は何故知っている。
「無関係ではない、かな。まあ関係者って程でもない」
警戒心を隠そうともしない浅沼に対し、おろおろとするのは狐ばかりで、市子はまるで泰然として曖昧な言い方をした。
「目的はおおよそ同じだけどね。あの“逢坂”について、“逢坂”での神隠しについて、調べに来た」
「……調べて、どうするの」
「さて……調査結果によるかな。できることがあるなら対処する。ないなら何もしない。できないからね」
飄々とそんなことを言う。――浅沼は、この少女が何者なのか、いよいよわからなくなってきた。
狐の助手、などというのは間違いなく嘘であるとして、それならば何だ。
ここまで、話の主導権は完全に市子が握っている。研究者であるという狐ではなく――こうなると、狐が研究者であるという話も怪しくなってきた。
「…………」
考える。
いや、考えるまでもないような展開だ――これだけ怪しい人たちを前にして、むしろ話そうかという選択肢は考えるまでもない。
考えられない。
そのはずなのだが……
「…………」
唇を浅く噛む。
迷う。
「……ねえ」
苦渋の内から、声を絞り出す。
市子は浅く顎を上げる。普通ならば視線で促しているところなのだろうが、そもそも視線がない市子ではそれも曖昧だ。
だがそれを促しと受け取って、
「あなたに、仮にそれを話したとして……何かが変わるの?」
「変わるって?」
「私の家族が……帰ってきたり、するの?」
言いながら、莫迦みたいだと思い、そしてわけもなく泣きたくなった。
12年。
それだけ経った今でも、自分は家族に帰ってきてほしいと思っているのか。
対して市子は、
「わからない」
とだけ、簡潔に答えた。
その答えに思わず息を呑んだ浅沼に、市子はさらに続けて、
「だけど多分、帰ってこない」
そう加えた。
「……そこは、嘘でも帰ってくるって言うものじゃないの?」
「私は優しい嘘っていうのはあまり好きでなくてね」
さらっとそんなことを言う市子。浅沼は別に、そういうつもりではなかったのだが。
「まあ、場合によっては、あなたとコンタクトすることはできるかもしれないけれど……」
え、と顔を上げた浅沼に、しかし市子は末尾を曖昧なままに首を振った。
「それは多分、あなたにも望ましくない形だろうしね。私としても、そうならない方が幸いだ」
「ちょっと、それはどういう……」
「さあ、どうだろう浅沼さん。私は、私たちは、あなたからお話を聴かせてもらえるのかな?」
浅沼を遮って、市子は言った。
浅沼は再び、唇を引き結ぶ。




