14.訪問②
「――へえ、この辺の民俗学ねえ」
老女は正座する狐の前に同じく正座して、ひとつ吐息した。出されたお茶を一口だけすすり、それを置いて狐は頷く。
「まだ始めたばかりですので、どんな些細なことでもいいのです――私が専攻しておりますのは民間伝承が主ですので、それに関わるものであればより有り難く」
「民間伝承ねえ……」
「伝説、伝記、妖怪、怪異譚。幼い頃に聞いた不思議な寝物語や、わらべうたのようなものは御座いませんか?」
「んー……そうだねえ。そんなに珍しいもんはなかったよ。ねんねころりよ、とか、そんなもんだ」
「そういうものでもいいのですよ。どんなお話でも資料になりますので」
はあ、そんなもんかね、と老女は目の前の、狐と名乗った美女をまじまじと見る。狐とはまた奇妙な名前だが、本名かと問うと本名だと答えた。不思議なこともあるものだが、都会にはきっといろいろあるのだろう。
はて、と首を捻ってみる。こう構えて聞かれると、何か珍しいことでも話して聞かせたくなるものだが、さりとてそんなものなどそうそうない。記憶を探りながらありふれたようなよくある話をしてみても、狐はふむふむ言いながら生真面目にメモを取っているので、なおのこと何か珍しいことでも語ってやりたくなるものだが、
「うーん……すまんけど、このくらいしか思い出せねえな。最近は若いもんがめっきり減っちまって、そういうん話す機会もなかなか無かで」
「いえいえ、そんなことはありませんよ。とても貴重なお話でありました」
そう言って、狐はにっこりと笑って見せる。歯並びの良く白い歯が眩しい。若いっていいさねえ、と内心に思う。自分もあと五十若かったら、いや素材からして敵いっこないか。
「あ……そういえば、こちらへ来る前に、道端に何か祠がありましたね。あれは?」
「ああ、あれかい? いやー、あたしもよく知らんよ。結構古くて……ん、いや違うかな」
「違うとは?」
「違うっちゅーか……」
何とか思い出そうと頭を捻る。狐が期待に満ちた視線でペンを構えているので、これは是が非でも思い出さねばと思い、
「――と、そうそう、思い出した。あれはね、いつだったかな……10年とか、もうちょっとかな? それくらい前に誰かが立て直したんだよ。それより前には、ちっちゃい地蔵さんが立ってた。あたしゃガキん頃にそれに近所のばーさんが供えてたもんよくかっぱらってたから覚えてる」
「成程、立て直されたと……それはまた、どうしてでしょう」
「さあねえ。あたしもガキだったし、よくわからんかな。悪いね」
「いえいえ、有り難うございます。成程……他には、ああいうものはありますか? 以前はあったけれどもなくなってしまったものとか」
「さあねえ……ああ、これはちっと違うかもしらんけど」
「はい、なんでしょう」
前のめり気味の狐に、老女は古い記憶を探りながらとつとつと、
「確かね……あの山んなかにも、あったはずさね」
「山というのは、あの、道路の終わった先にある、あの山でしょうか」
「そうだよ。ああ、でも……」
申し訳なさそうに、だがはっきりと、老女は言った。
「あの山に近づいちゃあいかんよ」
「え、それはまたどうして」
「そういう決まりさ。昔っからそうやって教えられんのよ、この辺のガキはね。ま、そう言われたらむしろ行ってみたくなるのがガキってもんだ。んで、行ってみて何にもなくてがっかりして帰ってくんのが常よ」
「教えられるとは、どのように?」
「脅されんのよ。あの山さ入ったら、神様んに攫われちまうぞってさ」
「神様に?」
「そうさ。……聞こえは悪いがね。今は町のお役人さんらが立派な道さ作ってくれたからいいもんの、昔は隣村行こうと思ったらあの山越えるしかねえでね。でもあの山がまた不気味でよ。昔からよく出たらしいのよ」
「出たとは、いったい?」
嬉々とした様子でペンを走らせる狐に気分を良くしながら、老女も口の滑り良く、
「そりゃいろいろさ。おめぇさんが聞きたがってるような妖怪だのなんだのがよ。んで、夜中にあの峠越えようとすっとそいつらに攫われて、帰って来れねえっつうの。実際、ずっと昔にゃそういうことがようあったっちゅうて」
「成程、成程」
「そうさ、そんだのに、それこそ10と何年か前に――あ」
好調に話していた老女は、そこでふと言葉を詰まらせた。そして話の続きを待ってペンを構えている狐を一瞥し、視線を逸らし、
「いや……悪いがおめぇさん、話はここまでだな。そろそろ午後の仕事あっから、あたしも出にゃなんね。でなきゃじーさんに文句言われっかんな。――とにかくも、あの山にゃ近づいちゃなんねえよ、別嬪さん。帰って来られなくなるでな」




