10.来訪者
「――市子殿」
白犬の言葉で、市子は思考を中断した。
結論は出ていない。出ていようはずもない。
「ん、終わった?」
問う。対して白犬は頷いて返した。
同時、森が音もなくざわつく。
いつの間にやら、“気配”は森中に満ち満ちていた。
そのことに、白犬や狐は警戒をより一層深める。が、当の市子はというと、
「そっか。それじゃあ帰ろうか」
あまりにもあっさりとした市子の態度に、白犬がは? と顔を上げた。
「市子殿?」
「まあ、解析が終わったんだから、とりあえずここにはもう用はないからね。――仕事はこれだけでもないわけだし、さっさとこの森を出て次の仕事に向かおう」
お腹減ったなあ、などと、あえて周囲に聞かせるような声音で言う。それで市子の意図を悟ったのか、白犬も狐も一切反問することなく市子に従った。
「あー? いったい何だってんだ?」
ぬいぐるみだけが、全く状況を掴めていなかった。だが説明などをすることもなく、市子はその場を去ろうとし、
しかし止まった。
「――おい、おいおい、どうしたんだ。行くのか? 行かねェのか? さっきから何だってんだよ。意味わかんねェぞ」
「ちょっと静かにしてもらってもいいかな」
むぎゅ、と容赦なくぬいぐるみの顔面を握り潰す市子。完全にがっちりと掴んでいるため、ぬいぐるみには反問する余地もない。びちびちと自由の利く手足で市子の手をタップするが、市子はまるでそんなことには構わない。
その場に緊張が走っていた。それも、先程までとはまた少し違う緊張だ。
さっきまでよりも、もっと具体的な。
明確な、生者の気配。そして、それを市子らが感知すると同時、
「――市子殿」
「大丈夫、わかってる」
白犬に、市子は頷いて返した。
たった今まで市子らを取り囲んでいた、濃密な気配が消えた。綺麗さっぱり、跡形もなく、だ。
何か、あるいは誰かの接近に応じるかのように。
だが現状、気にかけるべきは消えた気配ではなく現れた気配だ。
「……接近してきて御座るな」
「そうだね。でも――こっちを目指してるわけじゃないね」
小声で応答する。長身の狐は勿論、市子ですら、身をかがめ、草葉に姿を隠している。
この山奥に、人の気配などあるはずがない。もともと人通りの多い道では決してなく、まして麓に山を迂回するルートが整備されてからは廃道だ。市子らが見に来たこの石碑にしても、歴史から忘れ去られたかのような遺物だ。市子たち以外に見に来るものなどいようはずもない。
だから、そんなところにわざわざやってくるものは、何かいわくつきであることは確かだ。
何者か。
「……うん?」
数分を待ったところで、市子らの潜んでいる草陰から十メートルほど離れた向こうに、人影が現れた。
人影はひとつ。
「…………」
市子たちの見ている前で、まさか見られているなど思うはずもなく、その人物はさらに奥地に分け入っていく。その様は決して不慣れなものではなく、むしろ慣れた足取りで、すいすいと進んで行く。
「市子殿」
「そうだねえ」
小声で頷き合い、市子たちは人影から一定の距離を保ったまま追跡を開始する。
その人物は、やはり市子たちには全く気が付いていないのだろう、誰かがいるということすら思いもよらないに違いない。足取りを全く隠すことなく歩き続ける。それをいいことに、市子たちは気配を断ったまま音もなく追う。
そのままどこまで行くのかと思われたが、人物は石碑のあったところから数十メートル奥に入ったところで立ち止まった。それにあわせて市子らも止まり、息をひそめる。
人影はその場にしゃがみこんだ。そのためその人物も草葉に紛れ、市子たちからは見えなくなる。だが市子は焦ることなく、そのままじっと息を殺している。
どれほどの時間が経ったか。数分か、十分にも届いたか。不意にその人物は立ち上がり、踵を返すと未練なくもと来た方向へ去っていく。その背を見送り、市子は今度は追わなかった。
人物の姿が見えなくなっても、十分に遠ざかったと判断するまで市子は動かなかった。そして十分だと思われるだけ待ったところで立ち上がり、がさがさと無造作に、先程までその人影がかがんでいたところまで向かう。
その場所はすぐに見つかった。
「――へえ」
市子はそれを見下ろして、小さく声をもらす。
狐は勿論、白犬でさえも何も言わないが、ぬいぐるみだけはいつもの調子で、
「あー? なァおいイチゴ、こりゃどういうことだ?」
「さて、ね」
そこにあるそれには触れず、すぐに市子も身を翻した。
「…………」
市子は何かを考えている様子だったが、すぐにまた顔を上げ、人影が去った方へ踏み出した。
「戻ろう。予定通りに行ってよさそうだね」
さくさくと歩いていく。
狐も白犬もそれに従う。が、白犬だけはわずかにその場を振り返った。
そこは、先程市子たちも見た、道を封鎖するようにしてかけられた注連縄。その傍らに、先程は気付かなかった小さな、そして古く粗末な祠。その前。
そこには、小さな花束が、まるで供えられるかのように置かれていた。




