05.調査③
「神隠し。一般的なことを言うなら、まあ、行方不明だよね」
山を登りながら、市子は言う。
「遺体もなく、痕跡もなく。まるで初めから存在しなかったかのように綺麗さっぱりいなくなってしまう。――どうしていなくなってしまうのか、いなくなった人たちは一体何処へ行ってしまったのか、とかその辺のことは、まあはっきりとはわかっていないね」
「はっきりとは、ということは、何らかの仮説はあるので御座るか?」
「あるね」
市子は頷く。頷くついでに身をかがめて、張り出していた枝の下をくぐった。
「ただし、仮説はあくまでも仮説だ――何せ戻ってきた人もいないからね。魔術師が神隠しにあったって話も少なくはないけれど、彼らが戻ってきていないから何とも言えない。とはいえ、神隠し、あるいはそれに類似する怪異現象は、この極東だけじゃない、世界でも割とよく聞く話だね」
傾斜が急な斜面に入った。そもそも道らしい道もないのだが、ここは完全な岩場だ。右手に斜面、左手には、さらに急落して、恐らくは沢でもあるのだろう、折り重なった草葉の向こうから微かに水音が聴こえる。
そこを、市子はすいすいと進む。岩肌も僅かに濡れているため非常に滑りやすいはずなのだが、市子は難なく、それも草履で登っていく。
「北大西洋の某諸島を三角形に結んだバミューダトライアングルでは海難や飛行中の行方不明事故が多くあったし、19世紀のメアリー・セレスト号、20世紀のアイリーン・モア灯台事件。ふたつの大戦中にも、大勢の兵士が痕跡も残さず一度に大量失踪する事件がいくつか起こっている。現代でも大きなところでこれだけあるし、古いところで言えば13世紀のハーメルンの伝説が有名だ。記録されないものも数えればもっともっとあるだろうね。まあ、その全てが神隠しだとは限らないけれど……単なる行方不明だとか、後から尾ひれがついた話も少なくないのだろうけれど。でもそういう現象があって、そういう現象に遭った人たちがいることは確かだ」
難所を登り切った。最初から市子に抱えられているぬいぐるみは論外として、市子は涼しげに、狐はこれといった反応もなく、白犬だけが小さく吐息していた。
実のところ、白犬は何度か足を滑らせかけている。
「あん? 世界じゃ多いってのはわかったが、するってェと、この極東でもそういうでっけェ神隠しはあったのか?」
「いや、それほどに大きいものはなかったよ。でも確かにあった。あまりに馴染みがあって、かえって取沙汰されにくかったっていうのもある。極東全国、どこにでもひとつはあるはなしだからね」
地中から浮き出た木の根を足場にして、市子は歩いていく。話しながら歩いているだけでなく、結構な運動量でもあるはずなのに、市子の息が乱れることはない。
というか、舌を出しているのは白犬だけだ。
「ひとつひとつが小規模だった。それに、神隠しは神隠しとして恐れられていただけで、記録する文化もあまりなかったみたいだからね。ましてやもうこの時代に至っては、神隠しっていう現象が既に昔話だ。おとぎ話と言ってもいい。つまり、仮に神隠しが起こっても、現代ではそれが神隠しと認識されることはなく、ただの失踪、ただの行方不明として扱われやすくなっている。だから巷間に上ることもなかった」
「今回の、この件も、そうなので御座るか?」
切れ切れな呼吸の合間に、白犬が問う。まあね、と市子は頷いた。
「12年前。行方不明者としては、もう故人として書類上は処理される期間。だから記録があっても廃棄されているだろうし……しかも、この件では、失踪者としての申請もされていなかった。だからゐつさんが気付いたのは偶然、にほぼ近い」
「んだよそりゃあ。たまたま気付かなきゃ放置だったってことか? なんだ、しょぼくなったもんだなあゐつのばーさんも。こりゃモーロクしたか」
「タヌキ殿。あまりそうゐつ殿を悪く言うと、綿を抜かれるで御座るよ」
「んー……どうなんだろうね。なんだかゐつさんの方でも腑に落ちないところがあるらしくって、そこら辺は濁してたけど」
木の根がさらに入り組み、気を付けなければ簡単に足を挫いてしまいそうなほどに足場が悪くなり始めた。さらには斜面の角度も急になり、木々に手をかけて登る場面が増えてきた。
それでも、市子の歩速は変わらないのだが。
「何て言ってたかな……妖はもうこの世界にはいないはずなのに、とか、何かの境界が揺らぎつつある、とか……何だろう。また何か暗躍してるみたいだったね」
「暗躍って……ゐつのばーさんの暗躍となると、あんまりシャレにならねェな」
「そうだねえ」
「だが、何だ、妖? 何だそりゃ」
「何って……あー、ほら。簡単に言うと、妖怪、かな」
「妖怪?」
そうそう、と市子は頷いた。
「平安くらいまでは極東にまだたくさんいたはずだったんだけどね。それがだんだん減っていって、今ではもう――ん?」
唐突に、市子は立ち止まった。それを予測していたかのように後ろを付いていた狐もぴたりと止まる。だが白犬だけは足元に注視していたためにもろに鼻から狐に突っ込んだ。
危うく道からずり落ちかけたところを声にならない悲鳴を上げつつ踏みこたえ、白犬は急に立ち止まった先頭の市子に、
「い、市子殿?」
「妖。妖怪。確かにいたはずなのに現在ではいない。神々。わずかに残る“だいだら”のような土地神。吹き溜まったように時折龍穴からあふれ出る“陰”。“陰”を退治する守護連。――守護連。暗躍するゐつさん。頻発する異変。――境界」
やや俯き加減で顎に指を添えて、早口にぼそぼそと呟く。急に様相を変えた市子に、ぬいぐるみも白犬も怪訝な視線を向ける。
「市子殿?」
「おい、イチゴ?」
「――うん? ああ、うん、御免」
ふっと我にかえって、市子は応じた。だが、先程までの軽快な様子はない。
何かを考えている。
「――行こうか。これで半分くらいかな。もう半分、頑張ろう」
そう言って再び歩き出した市子。狐も後に無言で続く。白犬は、あと半分と聞いてわずかにうなだれた。




