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市子さんは流浪する  作者: FRIDAY
壱:袖振り合うも
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11.儀式

 

 

「ゴザル君、整調」

「承知」


 白犬の応答に、間髪おかず市子は構えた両手を打ち合わせた。

 室内に、大きな、一拍の破音が響く。

 柏手。


「………?」


 美月は、知らず、肌が泡立つような気分になった。

 目に見えて何かが変わったわけではない。だが、確実に“何か”が変わっていた。


「さて……それじゃあ、これからここは聖域、神域だ。二人とも、顔を伏せて」


 言われ、美月と新堂はその通りにする。

 市子は、口調の軽さを一切消して、静かに、厳かに述べる。


「加奈子さん、手を貸してもらえるかな。どっちの手でもいいから」


 新堂は、恐る恐る、といった様子で片手を市子へ差し出した。頷いて市子は新堂の手を取り、


「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね。すぐに済むから」


 取った手と反対の手で、そろり、と新堂の手の甲に短い一線をなぞった。すると、


「………!」


 新堂が息を呑んだ。美月も声もなくそれを見守る。

 新堂の手の甲、市子がなぞった一線が、薄く裂けた。すぐにそこから淡く血が滲む。


「……ん」


 再び、市子がそれをなぞった。滲んでいた血は市子の指によって拭われ、戻した新堂の手の甲は、


 ………傷が、ない?


 美月が見ている中で、新堂はしきりに自分の手の甲をさすっているが、そこに先程確かに市子によって引かれていたはずの血線は跡形もなく消え失せていた。

 まるで、血とともに傷痕まで拭われたようだ。


「……さて」


 指先に付いた新堂の血。それを前にして、市子は二人に言う。


「それじゃあ、いよいよ犬神を引き出すけど……驚いて引っ繰り返らないようにね」


 冗談めかして言う市子に、二人は無言で頷いた。

 そして市子が、ふ、と指先のその血に吐息を吹きかけて、


 突如として大風が巻き起こった。

 

 

  ●

 

 

 暴風だ。室内であるにもかかわらず、風がそこら中を蹂躙している。

 目も薄く開くことがやっとという視界の中で、渦巻く風によって壁際に積まれていた霊能のあれこれが飛び回っているのが見えた。窓も今にも割れそうな音を立てている。自分が吹き飛ばされないのが不思議なほどの暴風だ。

 その中で、美月は見た。

 新堂が。

 こちらと同じく、身を縮めて暴風に耐えている新堂の全身から、淡い、霧のような光があふれている。

 呆然と見ている中で、ふふ、という市子の笑む声が聞こえた。


「うん、そろそろいいね。よし、出ておいで――犬神さん」


 まるでその言葉に応えるかのように。

 新堂の身を包んでいた光が、新堂を離れ、皆の中央あたり、その中空に集まった。


「数百年を経てまどろみし古き神――己の主を見るがいい」


 徐々に、その光が形を成していく。多少は風に慣れてきた目を精一杯見開き見るそれは、


 ……狼?


 “それ”はあまりに大きかった。犬というよりは、まさに狼に近いだろうか。全身には力がみなぎり、眼光鋭く、口端から覗く牙もまた凶悪だ。

 呆然と美月が見上げる中で、不意に“それ”は身をよじった。振り返り、見下ろす。

 新堂を。

 美月と同じく、風に激しくなぶられながらも、唖然と目を見開いて、己より出た“それ”を見上げている。

 小さく、新堂の口が動いた。声にならない声がもれる。

 これが、


「これが犬神。――それも、まあ思ってたより強力な犬神だったみたいだね」


 ひとり、風の影響を受けている様子もなく、平然としている市子が言った。


「よくよく見るんだ犬神さん。彼女が君の当代の主だ。――そして新堂さん。よくよく見ておくんだ」


 それが、あなたの犬神だ。

 市子は言う。

 

 

  ●

 

 

「それがあなたに禍を呼び福をもたらした犬神だ。結果的にあなたを苦しませることになっていたとはいえ、それはあなたのために存在していた。――そのことを、忘れないでね」


 それじゃあ、と市子は犬神へ手をかざした。その先、犬神と市子の掌との間には、また小さなものが浮かんでいる、

 小さく、丸く、紅いもの。

 血滴だ。

 先程市子が拭った血が、市子の指先を離れ、宙に留まっている。

 淡く揺れながらも、丸い形を保って浮かぶそれはまるで鮮やかに紅いビー玉のようで、


 ……綺麗。


 率直に、美月はそう思った。

 市子が厳かに告げる。


「眠れ眠れよ古き神。君の役目は果たされた。もう目を覚ます必要はない。時とともに薄れゆくままに、継がれゆく血のうちにて眠れ」


 安らかなれ、と市子が告げた刹那。

 宙にあった犬神がその形を崩し、淡い光の塊となった。

 そして、市子の掌の上に浮かぶ紅へ、吸い込まれるように消えてゆく。


「あ……」


 思わず、といった様子で、新堂は“それ”へ手を伸ばしていた。美月には、そのとき新堂が何を思っていたのかはわからなかったが。

 伸ばした指先に、一瞬だけ、わずかに、“それ”が触れた気がした。

 数秒で、“それ”は完全に紅に呑まれた。最後の一抹が消えると同時、宙に揺れていた紅が不意に力を失ったかのように落下し、市子の掌に収まった。


「――うん。それじゃあ、加奈子さん」


 市子が、その紅を持った手を新堂に差しのべた。応じて、新堂も市子へ手を伸ばす。

 市子の持つそれは、真球のように丸く、鮮やかな紅色をしていた。

 差し延ばされた新堂の掌に、市子はそれを落とす。

 新堂の掌に落ちたそれは、その勢いのまま、一瞬で染みるように新堂の手の中に消えていった。


「――はい。これで終わり。お疲れ様」


 最後にもう一度、始まりと同じ柏手をひとつ打って、市子は笑った。


「これで、加奈子さんに加奈子さんの犬神が影響することはなくなったんだけど」


 呆然と、紅色の消えた己の掌を見下ろしている新堂に、市子は言った。


「それで加奈子さんの犬神がいなくなったわけじゃないから……そこのところ、忘れたりしないであげてね」


 新堂は。

 その掌をゆっくりと自分の胸に当て、目を浅く伏せて。

 うん、と頷いたのだった。

 

 


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