06.時間稼ぎ
……嘘だろ。
声にならない声が漏れる。信じ難い――とてもではないが、信じ難いことだ。
五感を狂わされた状態で、どうして立てる? 平衡感覚だけの問題ではないのだ。聴覚も、触覚も狂わされている。自分の身体がどのような形をしているか、それすらも捉えられなくなっているはずだ。
それなのに、白城は自らの足で立ち、右手に刀を取っている。そして左手は――腹の止血から離れ、“夕霧”の鯉口にかかっていた。
……何をする気だ。
いや、何であろうと関係ない。どうして動ける、という疑念は拭えないが、現に白城は立っている。ならば対処しなければならない。
迅速に。
「――――ッ!」
焦りで手許は狂わない。一直線に、駒鳥のナイフが空を裂く。
焦点は白城の額。手加減など考えられない。最短距離で仕留める。
“菫青”をまともに浴びながら立ち上がるのはもはや化け物だ。しかしまだ茫洋として、動きは鈍い。今のうちに完全に無力化しなければならない――駒鳥のその瞬間的な判断は正しい。正しかった。
――ガィンッ、
白刃が力なく宙を舞う。
白城の額を貫く、その一瞬手前で、ナイフが弾き上げられた。遥か後方に飛び、森の中に落ちる。
「どういう――」
ことだ、と皆まで発音されず、駒鳥の言葉は尻すぼみに消える。
白城の視線が、鋭く、射抜かれるような強さで駒鳥を正面に捉えていた。弾き振り上げた右手の刀を、ゆっくりと正面に構える。
「お前……“菫青”を、どうやって」
そこで駒鳥は気づく。白城の左手、“夕霧”にかかっていたそこから、新たに血が滴っている。
くそ、と新たなナイフを抜きながら駒鳥は歯噛みする。
「“夕霧”の刀身を握り込んで、自分にかけられていた“菫青”を斬りやがったということが! 危険なことをするもんだな。拳一つ分だったとしても、そのまま霊脈まで斬っちまう可能性もあっただろうがよ!」
駒鳥の怒声に、ひとつ、ゆっくりと深呼吸を置いて、白城は静かに応じる。
「問題ない。私は、“夕霧”の、使い手なので」
虚勢だ。“夕霧”は遍く怪異を斬り殺す神格霊装。使い手といえど、対象のコントロールなど、できるはずが。
……まさか、できるのか?
駒鳥は眉根を寄せる。否定できる、はずだ。しかし目の前の女は、“夕霧”を抜く以前に“菫青”の中で自力で立ち上がっている。
常識が通用しない。
……まあこの世界に常識があると思う方がどうかしてるか。
くく、と思わず小さく苦笑が漏れる。訝しげに眉根を寄せる白城に構わず、駒鳥はナイフを前に構えたまま、一歩、退いた。
「お前が想像を外れたビックリ人間だってことはよくわかったよ。あくまで守護者気取りでいたいってこともな。ミッション完遂からは程遠いが、最低限の目標はクリアした。あたしの出番はここまでだ」
もう一歩、後ずさる。
「霊脈の開放と活性化はあくまでついでだ。特務がここまで来た時点で半分クリアだったわけだ」
「……時間稼ぎ」
「そうとも」
さらに一歩。そこでぬるりと、駒鳥の姿が闇に沈んだ。若干の反響を帯びた声だけが残る。
「あわよくば、あんたを寝返らせたり、無力化したりという考えもあったが……まあ無理だったな。それだけの負傷をさせただけでも良しとするさ」
じゃーな。
言い残し、駒鳥の気配は完全に消えた。