03 遭遇
奥へ、奥へと進んでいく。外から見ているだけでも、半径数キロに渡って広がっていることは確認していたが、行けども行けども中心へ近づいている気配がしない。濃く、分厚い瘴気が距離感を狂わせる。足元すら重く立ち込めている瘴気は頭上にすら万遍なく覆いつくしており、今が昼なのか夜なのか、時間の感覚すら曖昧になる。
「…………」
通信を終え、険しい顔の木崎が、後方へ振り返る。
「隊長、何かありましたか」
隊員の問いに、木崎は首を振る。
「何も、ない」
何もないのだ。
他の隊も着々と進んでいるはずだが、どの隊からも中心へたどり着いたという報告がない。
「それどころか……いくつかの隊からの通信が途絶えていると、観測班からの報告があった」
「途絶えているって……」
「何かがあった、ということだ。生存は辛うじて確認できているようだが、生存レベルが危ういほど反応が小さいらしい。恐らくは、瘴気に精気を喰われたものと思われる。お前たちも」
己の符を、女性隊員へ渡しながら、木崎は強い口調で言う。
「消耗が激しい。気付かないうちに、瘴気が濃くなっている。符を惜しむな。中心に近づいているということかもしれん。ずっと垣間見えている怪異は、今のところ攻撃されたという報告はないが、警戒は怠るな」
指示を出しながら、木崎も方々へ連絡を取る。動けなくなったものは瘴気の外へ退避、動ける者も常に通信はオープンしておくよう命じる。
……この瘴気は、本当に、何だ。
何が原因なのか。観測班の解析を東北圏本部へ送っているが、正体は掴めていない。他地域の守護連にも照会しているが、回答は芳しくない。
新種の怪異か? 古都圏ですら把握していない怪異となると、今の東北圏では対処は厳しい。
ここ数代、東北圏は人材不足だ。一般隊員も人手不足、特務級ともなると、数年前に錦織が昇格するまで長らく木崎がひとりだけだった。
ここは一旦、全部隊退却するべきか?
人材不足、情報不足。練度も高いとは言えない。未知の相手に、今の状態で対処するのは……
「た、隊長!」
女性隊員が声を上げた。どうした、と振り返ると、彼女はやや震えを帯びた声でとある木を示す。
「そ、そこに、女の子が……」
女の子?
彼女の視線の先に、木崎も見る。
闇の向こう。昏く、薄絹のようにかかる瘴気の向こうに、それはいた。
いる。
この場所に。今、この場所にあって、有り得べからざるモノ。
幼い、少女。
……そんなはずは、ない。
「観測班。探知してくれ。俺たちの目の前だ。……何がいる?」
応答は即座に。
「……隊長?」
不安げに窺う隊員の声に、止まれ、という手指示を出しつつ、木崎は身構える。
観測班からの探知結果。
……不明、と。
濃く、濃く、あまりにも濃い瘴気が、正体を覆っている。少女どころか、何かがいるのかどうかすら判然としない。至近にいる木崎たちですら、感知がギリギリであるという。
しかし、であるからこそ、確定することがある。
ひとつ、この場が、この瘴気の坩堝の中心点であること。
そして、ここにあって、ただの少女などというものが存在し得るわけがないこと。
つまり、
「これは、少女などではない。少女の形をした何かだ。これが……この瘴気の、根源だ」
低く抑えた声で、木崎は隊員を制する。
「迂闊に動くな。あれがなぜ少女の形など取っているのかはわからんが、ずっと垣間見えている異形どもと同じモノのはずだ。刺激して、この距離で暴発でもしようものなら、ひとたまりもない」
刻一刻と、瘴気が濃くなっていく。渦巻くように、濃度を増していく。闇の隙間から異形の垣間見える頻度が上がる。
カチカチと、歯を鳴らす音が聞こえた。背後、最初に異形を目撃した女性隊員だ。彼女だけではない。他の隊員たちからも、緊張が高まっていく気配を感じる。
これは、よくない。
緊迫、張り詰めたそれは、ほんの些細なきっかけで決壊し……状況が崩壊する。
と――少女が、少女の形をしたソレが、動いた。
一歩、前に出る。
その容貌が、わずかに判別できるようになる。それは、
……両目に、包帯を?
異様な出で立ちだ。
土埃に汚れ、擦り切れ、至る所に枝で引っ掛けられたかのような穴があり、足元の草履もボロボロだ。
人ならざるモノ、そのはずだ。それなのに、その痩身は妙に生々しい。頬の傷、生乾きの血痕や、乾いた唇が、人らしさを感じさせる。
けれど、相反して増大する、ドロドロとした怪異の気配。少女を中心に、形すら得て、巡り始める。それは、あるものは獣の輪郭に、あるものは魚の背や鰭を持ち、あるものはヒトのような手足を蠢かせる、魔物――
「――――! 待て、やめろ!」
咄嗟に木崎が怒鳴り、止めようとするが、遅い。
隊員のひとりが、撃った。
術式だ。簡易なもので、魔性を縫い留める威力のあるもの。
それが、至近距離で少女へ向けてまっすぐに放たれ、しかし間に漂ってきた異形に阻まれ、それとともに潰える。
「ひ、え、ぁ――」
放った隊員が、上ずった声をもらす。当人ですら、意識して撃ったわけではないのだろう。張り詰め切った緊張から、指先が震えてしまった、きっとその程度のきっかけだ。
だが、十分だ。
状況が悪化するには。
少女は、小さく首を傾げていた。
足元で潰えている異形に、そこで初めて気が付いたかのように、まじまじと見下ろす。
そして、
――――瘴気の全てが、身震いした。
蠢く。騒めく。何があったのか、と瞬間的に観測班から通信が飛んでくるが、それどころではない。
「――伏せろ!」
怒鳴りながら、自身も全速で地面へ身を伏せる。だが、咄嗟に反応できたのは、木崎の他は女性隊員がひとりだけだった。残りの二人は、
「え、あ――」
一瞬だ。
少女の周囲、回遊していた異形が、形を失い、融け合い、もはや一個の粘菌のように混ざり合い、その全てが、一瞬前まで木崎らのいた位置を薙ぎ払った。
木崎の指示に間に合わなかった二人が、短い悲鳴を残して、消えた。
「く――」
歯噛みする。それぞれの練度も、勿論ある。この状況で、緊張に屈して不用意に攻撃を仕掛けてしまうなど。だが、それを制しきれなかったものまた、木崎自身の落ち度だ。
あのふたりは、どうなった。案じ、すぐにでも回収に向かいたいが、状況がそれを許さない。
ふたりの隊員を吹き飛ばした怪異が、目の前に立っている。
「……お前は、前に出るな。そのまま、後方まで離脱しろ」
残された女性隊員へ、小さく命じる。でも、と彼女は反駁するが、従え、と力を込めて言う。
「ただでさえ予断を許さないこの状況に、ふたりではとてもじゃないが対応できん。俺が時間を稼ぐ。錦織はもう呼んだ。お前は、後方班まで下がって、他の守護連に応援を要請しろ。ありったけだ。こいつは――想像以上に、まずい」
だから行け、と木崎は命じ、彼女は固い唾を呑みこみながらも、頷いた。
「……どうか、御無事で」
女性へ頷いて返し、彼女が下がり始めたのを視界の隅に捉えながら、木崎はゆっくりと立ち上がった。
少女の姿をしたソレの前に立つ。
その背後に聳え立つ者を見据える。
「……そいつは、鬼種か」
身の丈は木崎を遥かに超える。四肢は丸太のように太く、周囲を圧す存在感は、およそ生物のそれではない。
知らず生唾を呑み込んだ。
鬼種。怪異でも特上に位置する化け物だ。ただ在るだけで瘴気を撒き散らす。移動する災厄。生物を荒らし、人を喰う。化け物の中の化け物。
特務となり、怪異を鎮護・討伐する任務に就いて長い木崎ですら、鬼種と対峙したことなど数えるほどもない。
ましてや、これほどに育った鬼ともなると。
……最大級の警戒域だぞ、これは。
とてもではないが、東北圏だけで対処できる相手ではない。ともすれば、こいつ一体だけで東北圏が瘴気に呑まれる。
「木崎さん!」
声。錦織だ。反射的に木崎は怒鳴る。
「止まれ! 近づくな!」
濃密な瘴気のせいで、錦織の位置は把握できない。だが、少なくとも足を止めてくれたらしいことはわかった。
すぐに、息を呑む音が聞こえる。
「木崎さん、これは……」
「鬼種だ。間違いない。この状況は――最悪だ」
睨み合う先、鬼は動かない。その足元の少女もまた、茫洋と佇むばかりで、すぐさまこちらへ襲い掛かる様子はない。だが、
「放置すればまた進み始めるだろう。これ以上の前進を許すわけにはいかん」
「そんなこと言ったって、木崎さん。……どうすんだよ」
どうしたらいいんだよ、と錦織が落とすように言う。その声音には、わずかではあるが怯えがあった。
それも当然だ。錦織はまだ若い。鬼種との遭遇経験など、まだ何度もあろうはずもない。
……どうする?
撤退はできない。だが、正面から激突したところで、木崎と錦織のふたりだけでは分が悪すぎる。ただでさえ、黙っていても精気を吸われていくこの瘴気の中心にいるのだ。
何もかも、状況が悪すぎる。
「……時間稼ぎだ。撤退させた隊員に、応援を呼んでくるよう命じてある。その指令が届くまで、何とか時間を稼ぐしかない」
「時間稼ぎって言ったってよ……!」
と、動きがあった。
鬼が――いや、少女が、一歩、前に出た。その動きに追随して、鬼もまた前に出る。
いよいよ猶予がない。く、と歯噛みしながら、木崎もまた身構えを改め前に踏み出す。
「やるしかないんだ、錦織。お前は浄化の結界を張れ。少しでもこの瘴気を払って、鬼の動きも止めるんだ」
「んなこと言ったって、結界術はあんたの方が上手いじゃないか!」
「ならお前があの鬼と正面から殴り合うか?」
ぐ、と息を詰める音が聞こえた。苦笑しながら、木崎は手持ちの符をありったけ、ばらまくように周囲へ展開する。
「いずれにしても、俺たちじゃあれを完全に止めるまではいかん。可能な限り瘴気を浄化し、あの鬼を削るんだ」
「あの女の子は?」
「あれが恐らく、この瘴気の核なのだろうとは思う。だが、迂闊に手を出すな。――あれも、人間ではなく、鬼と連動していると見ていいだろう。あれに気を取られている隙に、上から鬼に殴られたのでは目も当てられない。とにかく鬼を削り、抑えることだけを考えろ」
いいな、と木崎は言い含め、了解した、と錦織が頷き、少女が、鬼が、二歩目を前に出た。
「――行くぞ」




