30.瞬間の産声
白城の姿が、消えた。
いや、違う。消えたのではない――高速の、移動だ。
どこへ、と視線を動かすと、白城は、先程立っていた位置から数メートル先にいた。立っているというより、ふらついていた。
……どういうこと?
その様子からは、とても高速の移動を行ったとは思われない。重心はブれ、視線は変わらず定まっていない。
だが、事実として、白城はその立ち位置を変えていた。
ふらふらと、白城は頭を振る――探している。そして、振り返った先に狐の姿を見つけ、緩慢な動きで身を回す。深く数呼吸、息を整えるようにして、わずかに拳を構え、
また、消えた。
注視していたにもかかわらず、その動きを追えない。まさか、と思うと、また数メートル直進したところで、白城がたたらを踏んでいた。
……どういうこと?
驚いているのは、向枝だけではなかった。
白城が、再び探している、狐。
狐が――わずかに、目を見開いていた。それはつまり、
まさか狐も――!?
狐の姿勢は白城に対して半身。恐らくは
……直線で突進してくる白城を、咄嗟に回避したというところかしら。
向枝が全く捉え切れなかった白城の動きを、なおも狐は反応し得ているというのは流石と言うほかないが、いや、今はそこに感心している場合ではなく。
……白城のあの動きは、なに?
向枝は、白城の鍛錬にはよく付き合っている。どちらかと言えば体術の指南は高坂の担当だが、組手などに取り組むことはよくあるし、実戦でも何度も肩を並べている。しかし、
……あんな速度での移動、見たことがないわ。
移動術としての速度であるならば、まだわかる。白城がいつの間にそんな技術を身につけていたとは思わないが、技術としてならば、理解できる。だが、先程の動きは歩法のそれではない。戦闘のための、攻める動きだ。ならば、それは質量を伴う動きのはずで、にもかかわらず白城が向枝の知らない動きをなし得たというのは。
ましてや、白城は、今もなお意識の不明瞭な状態だ。とてもではないが、そんな力は残っていないはず。
「――成程、それなら確かに、選ばれるわけだ」
市子が独り言のように言った。何の話だ? 市子を見るも、少女は向枝を一瞥もしない。ふむ、とひとりで頷いて、狐へ言う。
「さすがに限界だね――狐さん」
限界。何が、誰が。当然、白城だ。傾いだ身体で緩慢に振り返る白城へ顔を向けたまま、狐は無言で頷いた。半身に引いていた身体を、白城に正対するように向ける。
どうするつもり、と見守る向枝の向こうで、両者が対峙する。
白城は重心定まらず揺れたまま、狐はここに至っても最初と変わらぬ自然体で。
一拍。
白城が、動いた。
それは揺らぎに見え――残像だとわかった。
ギ、と強く目を凝らして集中して、ようやく、辛うじてではあるが、白城の動きを視認する。
前に倒れこむような前傾。上体が水平になるほど傾いで、一歩。
たった、一足。
驀進。
音を置き去りに、白城の痩身が跳ぶ。
――有り得ないっ!
明らかに、どう考えても、白城の為せる動きではない。十全の白城でさえ、不可能だ。あれは白城の身体能力を遥かに超えている。ましてや、今の白城に出せる速度では、ない。
そして――向枝が、全力で集中してようやく認識できる速度の白城へ、狐は、反応した。
見るのは三度目。慣れた、というわけではまさかないと思いたいが。
白城の突進は、本当に、ただの突進だ。構えも何もなく、勢いに任せただけの突貫。それを、狐は迎え入れるかのように半歩踏み込み、白城の右肩に添えるように左の掌を置き、右の掌底を、
大砲のような音がした。
残像しか、見えなかった。はっと気が付いた瞬間には、眼前には残身を解く狐しかいない。
何が……起こった?
白城は?
狐の視線の先へ、向枝も顔を向ける。――白城の姿は、そこにあった。
十メートル近い先。修練場の壁。
めり込むように凹んだ壁の、下に、四肢を投げ出すように座り込んでいる、白城。壁に背を預けたまま、俯く姿勢になっている白城の顔は、前髪の陰になって窺い知れないが――ぴくりとも、動かない。
あれほど、朦朧とした意識の中でさえ立ち上がった白城は、とうとう、動かなかった。
……死んでないわよね?
「大丈夫大丈夫。気を失ってるだけだよ」
横の市子が陽気に言う。いや、向枝もそれはわかっていたが、思わず心配になるほど、白城の姿には生気が感じられなかった。心身ともに、精も魂も尽き果ててしまったかのようだ。
「ギブアップ、とは聞けてないけど、さすがに気絶しちゃったのなら、このお稽古はおしまいかな?」
わかっているだろうに、市子は向枝を見上げて問う。そうね、と向枝はため息混じりに頷いた。
「結局……手加減されちゃってたわけか」
白城へ歩み寄り、状態を確かめる。呼吸はしている。触診した限り、骨や内臓にも損傷はないようだ。
「手加減って言っても、手抜きじゃないよ。ちゃんと、白城さんの望みには応えられたと思う。――白城さんも、得るものはあったはずだよ。それが善いものか悪いものなのかはともかくね」
さて、と市子は一息、切り替えるように柏手を打つと、狐へ歩み寄っていく。白犬も無言のまま続く。
「狐さん、お疲れ様。今日もいろいろとありがとう。思っていたよりも収穫があったみたいだね」
歩み寄る市子を、狐はこれといった感情も読み取れない、つまりはいつも通りの表情で見下ろす。数秒前に掌底で白城を十メートル近くぶっ飛ばしたとはとても思えないほどに冷静な顔だ。その顔のまま、狐は懐から何かを取り出した。
スマートフォンだ。
持っていたのか。
しかも、随分と近代的ではないか。
呆れた、と向枝は思わず苦笑した。戦闘に、スマートフォン携帯のまま臨むとは。
「あ、大丈夫だよ。ちゃんと電源は切ってあったから」
そういう問題ではないのだが。
そのスマートフォンは、今は電源が入れられている。狐が差し出しているスマートフォンの画面を覗き込んでいた市子は、やがて「うん」と頷き、顔を上げた。
「それじゃあ、行かなきゃだね。もうすぐ――時間だ」
向枝は弓使いだ。当然、目はかなり利く。盗み見るつもりではなかったが、遠目に垣間見えたスマートフォンの画面はメッセージアプリに見えた。誰かからの連絡か?
……魔女、かしら。
もうすぐ時間、とは何の話だろう。
だが、向枝がそこに思考を巡らせる時間もなかった。くるっと身を翻したからだ。
「それじゃあ、向枝さん。私たちはもう行くよ。白城さんに、よろしく伝えておいてもらえるかな」
「ええ、わかったわ」
どこへ行くのか、など尋ねても応えはあるまい。次にいつどこで再会するかはわからないが、敵同士になっていないことを願うほかない。
「大丈夫だよ」
言葉に、はっと顔を上げる。ふたりと一匹と一体(のぬいぐるみ)。修練場の扉を開け放ったそこで、朝日を背負いながら、逆光のなかで少女は言う。
「また、すぐに会うことになるよ。そのときは、敵同士じゃない」
「……どういうこと?」
問うも、答えがないことはわかっていたし、市子も、答えなかった。またね、とだけ言い残し、少女らは去っていく。
修練場の扉が閉じるまで見届けて、向枝は吐息した。
……結局、わからないことが増えたわけね。




