26.攻め手は間断なく
先に動いたのは白城だった。畳を抉るような、ぞ、という音だけを背後に残し、正面の狐へと突貫する。
速い。
風をまとい、髪をなびかせた白城は一瞬で間合いを詰めた。
ド、という鈍い音を響かせる震脚。
拳が空を貫く。放たれた圧は直線に数メートルを突き抜けた。
直撃すれば、鉄板程度は容易く破砕し得るであろう。
当たれば、だが。
「――――っ!」
射線上に、狐の姿はない。紙一重で、避けている。
だがその程度は想定内だ。ギュル、と低く身を回し、足を払いにかかる。それを狐は浅く飛ぶだけで回避した。
空中。それは身動きのできない無防備になる瞬間だ。その隙を、白城は見逃さない。素早く両の脚を畳むと、爆発的な瞬発をもってアッパーブローを繰り出す。
逃れられない。
はずだった。あろうことか狐は宙にありながら腰の反動をつけて身を回し、射出途中の白城の拳に爪先をかけた。白城の腕はまだ動作途中、威力は生まれていない。添えるように置かれた爪先へ、白城は繰り出した拳を下げる間もなく全身の力をもって最後まで振り上げてしまう。その威力を、たわめた足により自らの瞬発力へと変換した狐は、遥か壁の方へと発射された。
それでもなお、滑空する狐は空中だ。白城は素早く動作を切り替え追撃する。大振りの攻撃はせず、ショートアタックを連続する。拳撃、蹴撃ともにコンパクトに、手数を増やすが、それでも一撃には十分な重みが載せてある。
しかし狐の方がさらに上手だった。身動きの取れない筈の宙にあって、腕、脚、腰の振りや反動をもって白城の打撃を全てさばき続ける。
「――くっ」
だが、道場という空間には終わりがある。十メートル以上の距離を滑空した狐は、背中から壁に――ぶつからない。
狐は背後を一瞥もすることなく、くるりと身を回すと足から壁につき、真横へと跳ねた。白城も間髪入れず追随する。
数歩、壁を疾走し、そこから落とすような勢いで脚斧を繰り出す。踵が宙を割るが、首の振りだけで一撃をかわした狐は、壁を蹴って道場の中央へ跳び戻る。当然、白城も後を追って跳ぶ。
――届かないっ!
前へ、前へ、前へ。けれど、伸ばす手は、その狐色の髪先を掠めることもできない。
防御するとか、受け流すとか、そういうレベルの話ではない。
触れることすらできない。
ふ、と吸気を呑んで、床を踏む。練り上げられる気を、右の拳に乗せて打つ。
空を貫いた。
打ち出した右の拳の、さらに外側へ回避した狐を、旋回する動きで追う。
白城を中心に回転するように動く。
手刀、踵斧、掌底、貫手、旋脚。
ただひとつとして当たらない。
――まだ!
さらにギアを上げる。
息を詰め、無駄を省き、最小限の動きで隙を狙っていく。
百を打ち当たらなければ千を突く。
千を突いて足りなければ万を貫く。
――私に、足りないのは、何だろう。
耳元で、自分の巻く風が鳴いている。
筋力だろうか。
技術だろうか。
鍛錬だろうか。
あるいは、それら全てか。
「――――!」
無論、それら全てだ。
何もかもが、足りていない。
だから自分は、届かない。
目の前の、狐にも。
そして――市子にも。
「――――――――っ!」
裂帛の気合を込めて白城が繰り出した肘鉄を、狐は大きく飛び退って躱した。一瞬、白城と狐との間に数メートルの距離が開く。
しかし――白城は、狐を追わなかった。
「……お願いします」
構えを解き、白城は狐に正面から向き直った。狐は顔色ひとつ変わることなく、開始前から寸分違わぬ様相で立っている。
相手は、絶対に届かない相手。
拳ひとつ、満足に合わせられない程、絶望的に力の及ばない相手。
……だけど、それでも。
「お願いします」
今はまだ、と添えておく。
「私に稽古をつけてください。そう、私はお願いしました。だから、どうか遠慮なく、私と正面から相対してください。――私が降参したら私の負け。そういうルールだったはずです。私は、息切れで降参したりなんて、絶対にしない」
先の攻防、時間にして数分にも満たない交錯の乱れは、既に整えている。白城だって特務だ。相応に過酷な鍛錬を積んでいる。確かに、狐が本気で持久戦に持ち込もうというのなら先に倒れるのは白城だろう。けれど、この程度の運動量なら一週間はぶっ通しで戦える。戦ってみせる。例えその先で体力が枯渇したとしても、精神力で立ってみせる。
心が折られない限り、決して降参はしない。
白城の眼光の強さは、心の強さだ。
「…………」
対する狐は、無言のまま一度市子の方を見た。
「うん、いいんだよ、狐さん。最初からそういうルールなんだ。ちゃんと、白城さんと向き合ってあげて」
穏やかな笑みとともに、市子は狐を送り出す。狐は、再び白城を見た。そして、小さく頭を下げる。
「……手を抜いていたわけでは、ありませんが」
狐の言葉に、白城はやや身を固くする。圧を感じたわけではない。滅多に喋らない狐の言葉に驚いただけだ。白城の反応に構わず、狐は続けた。
「謝ります。――申し訳ありません。私はまだ、迷っていた。ですが、これより先は」
遠慮なく。
狐はそう静かに告げ、伏せていた視線を上げた。
白城をまっすぐに見据える。
ゾッ、と。
「…………っ」
反射的に飛び退きそうになるが、ぐっと堪える。
今度こそ、本当の圧を感じた。
それはまるで巨大な敵を見上げた時のような――あるいは底の見えない淵を覗き込んだときのような。得体の知れない、ともすれば、
……恐怖のような。
ギリ、と奥歯を強く噛み、踏みとどまる。わかっていた。
狐がそれほどに、いや、それ以上に強大であることは、初めからわかっていた。
……それでも。
白城は、退かない。
何のために。
確たる答えを、言葉としては、未だ白城は持ち得ていない。だからこれは、言葉にならない、剥き出しの感情だ。
ただ、確かめたい。
何を。
何かを、だ。だから。
白城は、構える。
「――よろしくお願いします」
狐は、目礼で応じる。
仕切り直す。
今度は、向枝の合図はない。だから、白城が自ら前に出る。
一歩目から、全速で。
震脚からの、全体重に速度を重ねた貫手。
彼我の距離は一瞬でゼロになり、白城の攻撃は未だ身構えなど取っていない狐の胸元へまっすぐに伸び、
狐の痩身が揺れ、
世界が回り、
白城は、大の字で天井を見上げていた。
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