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市子さんは流浪する  作者: FRIDAY
肆:暗がりの奥で眠る記憶を
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04.過修練

 

 

 気が付くと、向枝が顔を覗き込んでいた。

 倒れたままの白城の、頭の方から前かがみに覗き込まれているので、見上げる白城からは向枝が逆さに見える。


「――大丈夫? ちょっと思い切りやっちゃったけど……」


 大丈夫です、白城は応じようとした。が、震わせた声帯からは掠れた音しか出なかった。

 どうやら大丈夫ではないようだ。

 視線だけを返すと、向枝は頷いた。


「まあ、そうでしょうね。……そのまましばらく休んでいなさい。どのみち、しばらく動けないでしょうし。ちょうどいいわ。あなた、最近ちょっと無理をし過ぎだから」


 そんなことを言って、向枝は何かを白城の両目の上に置いた。

 ひんやりとして気持ちいい――どうやら向枝が置いて行ってくれたのは、畳んだ濡れタオルのようだった。

 しばらくは動けない。それは確かに、向枝の言う通りであった。

 失った空気は既に十全に循環できる程に復帰している。だが、いかんせん身体の方が動かない。全身を、どこか甘い痺れのようなものが覆っている。あまり気を抜くと、このまま畳に沈み込んでいきそうなくらいだった。

 先に受けた向枝の投げ技の衝撃によるものだけではない。

 無理をし過ぎ。

 そういうことだ。


「最近のあなたは自分を追い込み過ぎなのよ――まあ、私も経験のあることだし、わからないこともないけれど。それで自分の身体を壊しては本末転倒よ」


 タオルで塞がれた薄闇のどこかで、向枝の声が聴こえる。声の大きさと反響から、どうやら壁際にいるらしい。

 水分補給。


「高坂からも、少し控えさせるようにって言われてるのよ。……先々月以来、先月、今月と、暇さえあれば鍛練して、私や高坂と手合せして――あなた、ほとんど休んでいないでしょう。自分を苛め抜く能動鍛練も大事だけれど、休養することだってそれ以上に重要なのよ……何もしていない時間というものに、堪えられないんでしょうけど」


 ……耳に痛い。

 それは、白城自身わかっていることなのだ。鍛練の方法は、十全な鍛練に必要なステップというものは、守護連に入隊して以来ずっと学んでいる。教わっている。

 だが――黙って待ってはいられない。

 徹頭徹尾、向枝の言う通りなのだ。

 身体を動かしていないと、鍛え続けていないと、堪えられない。

 静寂に堪えられない。


「急いでも――どれだけ急いでも、急いだ分だけ強くなれるわけではない。焦らなくても、今のあなたでも十分に強いわ。他圏の特務にも十分に匹敵している」


 でも、勝てない。

 狐には――勝てない。

 ようやく動かせるようになった手で、タオルを額までずり上げる。見えるのは天井だ。


「まだ……足りないんです」


 気付けば、そうつぶやいていた。小声だったために、迎えに聞こえていなければその方がいいと思ったが、微かにため息が聞こえたところから、残念ながら聞こえてしまっていたらしい。


「まあ、高坂は早く控えさせるようにって感じだったけれど、満足するまで――行きつくところまで、やってみてもいいと私は思うけれどね。でも本当に、身体は壊してはいけないわよ」


 布ずれが聞こえる。向枝が着替えているのだろう。当然、更衣室は別にあるのだが、時間も時間であり同性しかいない、横着してふたりともここで着替えていた。


「ましてあなたはまだ学生――学業もあるんだから。鍛練の疲労で授業中に居眠りとかしてないでしょうね?」


 急に俗っぽい話に移って、白城は思わず笑ってしまった。お陰でどこかで張りつめていた気も緩んでしまう。

 白城の緊張が緩んだことが伝わったのだろう、向枝も小さく笑って、


「とにかくそういうわけだから、しばらく休みなさい。少なくとも今日一日は黙っていること。いいわね?」

「……はい」


 それじゃあ、私は業務があるから先に行くわ、と言って向枝は荷物をまとめて道場を出ていった。鍵は置いていくからね、と。

 はい、とそれにも小声で応じて、しかし白城はそのまま動かなかった。まだ動けなかった、という方が正確だが。

 大の字に寝ころんだまま、白城はゆっくりと目を閉じた。

 

 


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