03.流浪③
また、頬を小枝が掻いた。一線、紅色が流れる。次いで数秒を待たずして縁に雫が盛り上がり、重力に任せて顎まで滴る。
しかし少女は拭わない。
道の選び方――否、選ばなさと、障害を回避しない様、一切を払い除けることなく無闇に愚直に直進し続けようとする様は、まるで前が見えていないかのようなのだ。
否、実際に、見えていないはずだ。
なぜならば、少女の双眸は、外界を映していないからだ。
外界を映すどころか、外界に向かって開かれてさえいない。
塞がれているのだ。
包帯、である。
白い布地の包帯だ。それも、切った額などから流れた血で薄く斑に染まっているそれが、少女の両の眼を、隙間なく、固く塞いでいる。
怪我をしているのか、そもそも見えていないのか。
だが、そのいずれにしても、両目を塞いでいるというステータスは、やはり山を、それも密林を歩き回ろうという状態ではない。
それなのに、少女は歩く。
立ち止まらない。
そして、道連れもいない。
同伴者どころか、周囲には鳥獣の気配もない。
静かだ――静か過ぎる。
あまりにも不自然なほどに静か過ぎる。
誰もいない――
――しかし、何かはいた。
何かがいた。
それも、そこら中にだ。
しかし何とは言い難い――とても形容し難い何かだった。
強いて描写するならば、それはまるで霧のようなものだった。霧、あるいは靄。
霞だ。
周囲一帯に、そこにあるあらゆるものに、纏わりつくようにして停滞している。
一見しただけならば、それはただの霞だった。だが、わずかにでも注意深い者、あるいは“視る”目を有する者ならば、それがただの霞ではないことはすぐに知れることだった。
それが何なのかはわからない。だが、何でもない何かだ。
“――――、”
少女が一歩を踏み出すたびに、その霞を割るたびに、霞の中にさざめきが走る。
“――――、”
それが、いつから現れたものなのかはわからない。霞の只中、その中心にいる少女自身、恐らくわかってはいまい。
中心にいる。
そう――その霞は、どうやらこの少女を中心に広がっているようだった。
鳥瞰すればわかる。酷くゆっくりと、緩慢にではあるが、少女の歩みに合わせて、霞は移動している。
それも拡大しながら。
“――――、――――、”
少女には、自身に纏わりつく霞に気を払う素振りは露ほども見られない。ただ言葉無く歩を進めるだけだ。
だが、霞には少女に魅かれる“何か”があるようだった。
“――――、――――、”
時間を追うごとに、ごくわずかではあるが、ゆっくりと、“気配”が濃くなってゆく。
次第に、霞の中に、何かの“輪郭”が、“形”が、“姿”が見え隠れし始める。
何かをしようとしているわけではない。ただそれらは、少女の周囲を周回し、時折姿を垣間見せるだけだ。ともすれば気のせいで片付けられてしまいそうな、ごく一瞬。
しかしそれらは、確かに、少女の周囲に、霞の内に潜んでいた。
鳥獣の類ではない――一瞬だけ垣間見えるだけでも、それだけは確信できる、それらは異様な姿をしていた。
異形。
この世に通常に存在している何かではない。
それらが少女の周囲に纏わりつき――集まりつつあった。
ゆっくりと、増え続けている。
“――――、――――、――――、”
数が増え、姿をも得つつある“それら”のさざめきは、次第に色を変えていきつつあった。
“――――、――――、――――、”
囁きだ。
それはまるで言葉のような響きをもって、霞を震わせ、しみ込むように消えてゆく。
“――――、――――、――――、”
その震えはまるで言葉のようでありながら、しかしやはり言葉ではない。
人の意思疎通を図る響きではない。
悲鳴に紛う風の音のような、気のせいで処理できてしまいそうな程度の音だ。
しかしそれは、異形のモノの言葉であるとしても違和感はなかった。
“――――、――――、――――、”
数を増やし、姿を増やし、囁きさざめくモノたち。
その只中にあって、中心にあって、しかし少女は無反応だった。
無感情に。
無感動だった。
気付いていないはずもあるまい。それらは今や質量すら帯び始めているのだ。
だがそれでも、少女はそれらに無関心であった。
「…………」
ただ、どこでもないどこかへ、足を前に出し続けるだけだった。




