(2)保健室
/保健室
「どうやら寝不足みたいね。しばらくベットで休んだら大丈夫よ」
薬品の独自な匂いが漂い、学内で唯一違う空気が流れるこの部屋の主、槙野雫が、体温計を振りながら笑顔を見せた。
「そうですか!よかったー!利堂くん、神奈大丈夫だって!寝不足だって!」
「聞こえてるっつーの」
廊下で倒れた梭鷺を、俺はおぶってこの保健室まで運んだ。清水には教室に戻れと言ったのだが、結局ここまで付いてきやがった。梭鷺の状態を聞いて、飛んだり跳ねたりしている。……ちょっとは静かにできないのか。
梭鷺は奥のベットで静かに寝息を立てている。良かった。一時はどうなることかと思った。確かにかなり具合が悪そうだったが、いきなり倒れるとは思ってもみなかった。
「ここは私に任せて、早くあなた達は教室に戻りなさい。先生が心配するわよ?」
槙野先生はそう言いながら、椅子に腰かけた。……足を組むと、白衣から短いスカートが覗き、長い足が露わになる。しかも生足。槙野先生は若くて美人な先生だが、清楚なイメージの養護教諭からはかなりかけ離れている。ミニスカ生足って……先生として、いいのか?
「ん?」
そんな先生の白衣から微かに覗く腕は、なぜかその白衣と同じくらいに白かった。
「先生、その腕……」
俺が指摘すると、先生はああ、と袖を捲り上げた。予想通り、細い腕が見事に真っ白な包帯で包み込まれている。
「ちょっとね、うちの犬に噛まれちゃって」
「はぁ、それは……お大事に」
先生は犬を飼っているのか。飼い犬に噛まれるだなんて、なんともご愁傷様だ。
すると、先生は優美に微笑んだ。
「気づいてくれたの利堂君だけよ。ありがとう。先生嬉しいわ」
「あ、いえ……」
俺が曖昧に答えると、清水が横から肘でど突いてきた。
「な、なんだよ」
清水は俺をじろりと睨みながら「帰ろ」と短く言った。
その様子を見て、先生は何か可笑しかったのか、笑い声をあげた。
「あはは。利堂君あなたって結構罪な男なのね。青春っていいわー」
は?何言ってんだ?
先生はそう言いながら清水を見る。清水はどこか癇に障ったのか、小動物のように唸りながら先生を威嚇している。
「それじゃあね。梭鷺さんが起きたら知らせに行くわ」
「利堂くんじゃなくて私のとこにお願いします」
清水はそう言うと、ぷいっとよそを向いてさっさと廊下へと出て行ってしまった。
「あ、おいっ!待てよ!」
なんだかよく分からなかったが、置いていかれるのはちょっと嫌だ。
「あ、ちょっと待って」
先生の声に、俺は速めた足を止め、振り返る。
槙野先生は優雅に微笑んだ。
「利堂君、あんまり梭鷺さんと仲良くしない方がいいんじゃない?」
昼休み、そして放課後になっても槙野先生は現れなかった。
「どうしたんだろ……まだ神奈起きてないのかな?」
「さあ……」
俺は梭鷺の席を見る。鞄がまだ横にぶら下がったまま。しばらく教室で待ってはみたが、一向に戻ってくる気配はない。
「利堂くん、神奈迎えに行こ。もうすぐ下校時間だし、早く帰らないとまた怒られちゃう」
「そうだな」
俺と清水は、自分と梭鷺の荷物を持って教室を後にする。廊下に出ると、昼のざわめきが嘘のように閑散としていた。
部活動が中止された今、生徒はもちろん、先生達も早めに帰宅している。現在残っているのはたぶん俺達ぐらいだろう。外の強い風で、窓が軋む音だけが響く。
「なんかお化け出そう……ちょっとくっついてもいい?」
「は?やめろ」
「なんでよケチ」
そう言って清水は足を速める。いや、いきなりなんだよこいつは……。
二つの足音を響かせながら階段を下り、保健室を目指す。
ふと、今朝言われた槙野先生の言葉が頭を過ぎった。『あまり梭鷺さんと仲良くしない方がいいんじゃない?』……あれは、一体どういう意味だろう?
どうして槙野先生は去り際にあんなことを言ったのか。
しかも俺に。
どうしてだろう。正直、俺と先生は面識ないに等しいのに。梭鷺の方はよく知らないが、なんで仲良くしない方がいいんだ?
……なんで?
「利堂くん?おーい」
「ん?」
清水の声に呼び起されると、もう目の前が保健室だということに気付いた。
「どーしたの?考え事?」
「あ、いや……まあ、な」
もういいや。訳分からん。考えるのはやめよう。
仲良くするとかしないとか、そんなの俺の勝手だろ?先生なんかに指図されるもんじゃない。ましてや梭鷺は……優しいし、いい奴だ。
「失礼しまーす。槙野センセー?」
清水がドアをノックする。しかし、中からは物音ひとつ返ってこなかった。
「あれれ?もう帰っちゃったのかな」
「さあ。職員室じゃね?」
「うーん……ま、入っていいよね」
「いいだろ。開いてんのなら」
清水はドアに手をかける。
「神奈―むっかえに来たよー」
そして、一気に開けた。
「わっ!!」
いきなり強い風が俺達を襲った。思わず目を塞ぐ。
「な、なんだ?」
そしてゆっくりと目を開けた。
「――――っ!!!」
言葉が、出ない。
目の前の光景に唖然としてしまった。
保健室。そこは真っ白なベットとカーテンが並び、清潔感の溢れる場所。それが本来あるべき姿。
でも、今は――
床に散らばるガラスの欠片。荒らされた薬棚。こぼれる薬液。風に舞う大量の書類――
その真ん中に梭鷺神奈は佇んでいた。
「えっ、梭鷺……?」
返事はない。梭鷺は俺達に背を向けたまま、風が吹き込む窓の外を眺めている。
「神奈!これ……どっどうしたの?」
清水の声にも返事はない。いや、聞こえていないのか、俺達の存在すら気付いていないようだった。
荒らされた保健室。そしてその中央に梭鷺。
彼女はどこか遠くを見つめている。
そんな後姿は、梭鷺であって梭鷺じゃないような――そんな、
「!?」
またいきなり、梭鷺の体が後ろへと傾いた。俺は破片を踏みつけながら咄嗟に走り出し、今度こそ倒れるのを防いだ。
「梭鷺!しっかりしろ!」
「神奈っ!」
さっきおぶった時も思ったが、支えた梭鷺の体は、何も食べてないんじゃないかってほど軽く、顔が真っ青だった。そして、腕には新しい傷跡。きっとこのガラス破片で切ってしまったのだろう。床には転々と血が染みついていた。
「清水!先生呼んで来い!」
「う、うん!」
清水が走り出そうとした時、梭鷺が「んっ……」と苦しそうに唸った。清水の足が止まる。
「梭鷺!」
俺が大きく呼びかけると、梭鷺はゆっくりと瞼を開いた。
「あ……れ……?ここ……」
そして、俺と目が合う。
「あ……利堂君……?なん……で」
「大丈夫か?お前倒れたんだぞ?」
「え……?」
梭鷺は俺の腕から離れて辺りを見回した。まるで、初めて見るかのように。
「な、なにこれ……。ここ……何かあったの?」
「えっ」
思わず俺と清水は声を上げてしまった。
梭鷺は不思議そうに首を傾げる。
「お前……もしかして覚えてないのか?」
梭鷺は茫然と俺の目を見つめ返すだけだった。




