第3話:弟の研究・裏
森本芳樹の朝はお弁当作りから始まる。
本来なら、今日の弁当当番は姉の香澄だったが、朝の筋トレと言って出て行ったジョギングから帰ってこない。
芳樹はため息をついて作業に取り掛かった。
五個の弁当箱にまずご飯を詰めてテーブルに並べて置いておく。こうする事で湯気をとばし、ご飯がべちゃべちゃになるのを防ぐ。
おかずは……時間も無いので、昨日の残りのカレーをご飯の上からかけて弁当に蓋をする。
「お父さーん、お母さーん、朝だよー」
芳樹が部屋のドアをノックする。
雀の鳴き声が朝のキッチンまで聞こえてきた。爽やかな早朝の空気が、一日の活力を与えてくれる。
「お兄ちゃーん、朝だよー」
芳樹が部屋のドアを叩く。
口ひげをたくわえたダンディーな父親と、きちんと三つ編みをした母親がパジャマ姿でキッチンに入ってきた。
芳樹の兄が、目をこすりながらキッチンに入ってきた。姉はいつの間にかキッチンにいて朝ご飯を食べている。
窓からは昇ったばかりの太陽が、すがすがしい光を浴びせていた。
芳樹の兄は、自分の分の朝食をもりもり食べている姉の巨躯を、寝ぼけた顔で見ている。
「……かすみちゃん、それ俺の飯」
「……」
姉は弁当にも手を伸ばした。
「……かすみちゃん、それは俺の弁当……カレー!?」
姉は全部かきこんだ後、ゆっくりと口を開いた。
「ごちそうさま」
「じゃあ行ってきまーす」
背後から「かすみちゃん、それ俺のおやつ」という声が聞こえてくる。
いつもと変わらない森本家の朝の光景を背に芳樹は自転車で学校に向かった。
自分が一番下の弟だから、こういう時に面倒臭い事が回ってくる。
「下にもう一人いればなあ」
そんな事を呟きながら自転車をこぐ芳樹。
学校に着いた芳樹は適当に授業をこなし、いつの間にか放課後。
他の生徒はみんな帰り、芳樹と雄二が他に誰もいない教室でダラダラしている。
「あー、暇だなー」
生徒が皆帰り閑散とした放課後の教室で、安藤雄二が椅子の背もたれに体を預けながら呟いた。
「妹はもういいの?」
雄二の机の向かいで椅子に座っている芳樹が、手にした文庫本を読みながら訊ねる。
「もういい。やっぱり身内じゃなあ……誰かの所為でなんか不健全な気がしてきたし」
雄二の言葉を聞いていた芳樹は、文庫本から目を離さないまま呟いた。
「僕は弟が欲しいんだよね」
「へー」
雄二は椅子に背を預けたまま、特に興味ないといった感じの気のない返事をした。
「だから弟の役やって」
「ナニゆえ!?」
雄二は予想外の一撃を喰らってバランスを崩し、椅子から落ちた。
「この間妹の役やってあげたじゃない」
「あれはお前がやるって言ったんじゃないか」
雄二は服の埃を払いながら椅子に座りなおす。芳樹はそんな雄二をじっとみて言った。
「でも参考になったでしょ」
「悪い意味でな」
雄二は警戒するような顔で芳樹を見ている。なにか嫌そうな顔をしていた雄二だったが、何か諦めたような顔をして頷いた。
「……それで俺はどうすればいいんだ」
「じゃあまず立って立って」
芳樹に促されるまま雄二はだるそうに椅子から立ち上がる。
芳樹も立ち上がると、頭一つ大きい雄二を見上げた。
「そうだねえ、まずは身長を縮めて」
「……できるか。せめて人間に可能な事を言え」
「じゃあ年下になって」
「聞けよ人の話」
雄二の言葉を聞いてない芳樹は、何かを思いついたように胸の前で手を叩いた。
「そうだ、その場で一回転してみて」
「……こうか?」
雄二は片足を軸にしてくるりと回転した。
「そうそう。それで回転しながら、裸エプロン似合う? って言ってみて」
「裸エプ……なんて事を。ふざけんな」
「えー、うちの兄ちゃんがこの間、僕に理想の弟像を熱く語ってた時に」
「妹でもアウトなのに何を考えているんだ。それとお前の兄貴の闇はいいから」
雄二は嫌そうな表情を隠そうとしない。芳樹はそれを無視して額に手を当てて目を閉じる。
「うーん。それじゃあ、お兄ちゃんの子だよって言ってみて」
「お兄ちゃんの子だ……できるか! いろんな意味で!」
「えー、うちの兄ちゃんは昼寝してたときに、寝言で僕男の子なのに妊娠し」
「だからお前の兄貴の闇はもういいって言ってるだろ! 勘弁してください!」
雄二はもう泣きそうな顔をしている。
芳樹は先週兄から聞いた事を思いだした。
「そうだ、兄ちゃんに聞いたんだけど、首輪をした弟はポイント高いって」
「そんなポイントは燃えないゴミの日に10パーセントオフして還元しろ!」
やや錯乱気味の雄二は意味のよく分からない事を吼えた後、何かに気付いて凍りついた。
「お前、末っ子だったよな……まさか……お前……首輪を……」
「僕? 兄ちゃんに頼まれたけど、首輪嫌いだから断ったよ」
「そ、そうか」
胸をなでおろす雄二。
「そしたら、俺が首輪するからお前は紐を持ってくれっていわれて、二人で散歩に」
雄二がドン引きしている。この程度でどうしたんだろうと芳樹は思う。
雄二はプルプル震えながら、芳樹に尋ねた。
「お、お前、は、は、裸エプロンは……」
「ああそれ? 兄ちゃんに頼まれたけど断ったよ」
「そ、そうか」
「そしたら、まず俺が手本を見」
言葉の途中で、雄二は両手で耳をふさいだままその場から走って逃げた。
「せるからよく見ててくれって兄ちゃんが、あれ? 雄二?」
夕日が差し込む放課後の教室に一人取り残される芳樹。
逢魔ヶ時から逃げるようにひたすら走る雄二。
「裸エプロンの手本って意味ねえだろ!」
芳樹の耳に、遠くから雄二の叫びが聞こえた。