第2話:妹の研究・裏
森本芳樹の朝はお弁当作りから始まる。
五個の弁当箱にまずご飯を詰めてテーブルに並べて置いておく。こうする事で湯気をとばし、ご飯がべちゃべちゃになるのを防ぐ。
ソーセージに切れ目を入れ、油を引いたフライパンで炒める。兄の分のソーセージは、兄のたっての要望で(自主規制)の形にしていた。
次に卵をボウルに割りいれ、塩と砂糖を入れてかき混ぜる。本来なら出し汁も入れるところだが、忙しい朝なので省略する。
後は冷凍食品をレンジで暖めて弁当のおかずが揃った。
すでにご飯が入っている弁当箱に、見栄えよくおかずを入れていく。
「お父さーん、お母さーん、朝だよー」
芳樹が部屋のドアをノックする。
雀の鳴き声が朝のキッチンまで聞こえてきた。爽やかな早朝の空気が、一日の活力を与えてくれる。
「お兄ちゃーん、お姉ちゃーん、朝だよー」
芳樹が部屋のドアを叩く。
口ひげをたくわえたダンディーな父親と、きちんと三つ編みをした母親がパジャマ姿でキッチンに入ってきた。
その後に一見美少年の兄と全身筋肉の姉が、目をこすりながらキッチンに入ってきた。
窓からは昇ったばかりの太陽が、すがすがしい光を浴びせている。
芳樹の兄は、自分が座るはずだった席にどっかと腰を落ち着けている姉の巨体を、寝ぼけた顔で見ている。
「……かすみちゃん、そこ俺の席」
「……」
姉は半目でテーブルの一点を見つめたまま、微動だにしない。
「……かすみちゃん、そこ俺の席」
「はあ? ナニいってんの?」
「いや、だって、そこ」
姉は細く長いため息をついた後、ゆっくりと口を開いた。
「あんた……ウザイ」
「じゃあ行ってきまーす」
テーブルの上に、四つの弁当箱と四人分の朝食を残して芳樹は玄関へ向かった。
背後から「かすみちゃん、それ俺の弁当」という声が聞こえてくる。
いつもと変わらない森本家の朝の光景を背に芳樹は自転車で学校に向かった。
最初は息が詰まるような雰囲気だったクラスが、今では和気藹々としている。芳樹は学校に行くのが楽しみになっていた。まとまったきっかけがきっかけだっただけに、あけすけな雰囲気がクラスに蔓延している。
適当に授業をこなし、いつの間にか放課後。
他の生徒はみんな帰り、芳樹と雄二が他に誰もいない教室でダラダラしている。
「あー、妹が欲しいー」
雄二が椅子の背もたれに体を預けながら呟いた。クラスの雰囲気に当てられて、雄二もそういう方面に関して抵抗が薄くなっていた。
「あれ? 雄二に妹いないの?」
人妻フェチだと思っていた雄二がそんな事を言うので芳樹は少し驚いた。
「いないんだよ。いないから欲しいんだよ」
「なんで」
雄二は立ち上がると、芳樹に向かって、特に意味なく熱弁を振るう。
「いや、なんかいいじゃないか。朝起こしに来てくれる妹とか、お弁当を作ってくれる妹とか」
「ふむふむ」
新しい方面へ雄二が挑戦している。芳樹はそのチャレンジ魂に感心したのと、この高校ではじめての友人という事で協力しようと考えた。
「そうだ、妹が欲しいなら試しに僕が妹の役をやってみようか」
「は?」
「どんなもんか参考になるかもしれないよ」
「どんな参考だよ」
いぶかしげな表情をしていた雄二だったが、暇だったらしく、とりあえず芳樹の提案にのってくれる事になった。
「じゃあお兄ちゃんを迎えに来た妹って感じでやってみるね」
芳樹は立ち上がり教室の出入り口に向かって歩いていく。背後からは戸惑う雄二の声が聞こえてくる。
「意味がよく分からんが、なんか緊張するな」
「よーし、じゃはじめるよー」
そう言うと芳樹はいったん教室から出て行き、手を振りながら入ってきた。
「おー、兄貴ー」
「弟かよ」
醒めた顔の雄二が突っ込みを入れた。
「素で来られても妹とは思いにくいんだが」
「ボーイッシュな妹ということで何とかならない?」
雄二と芳樹は先程の反省点を振り返りながら打ち合わせをしていた。
「実はお前も妹がどんなか分かってないだろ」
「うーん……まあ、ねえ。姉ちゃんならいるんだけどなあ」
そういえば今朝の姉ちゃんは機嫌悪かったなあと、テンションの下がりだした雄二を見ながら芳樹は思い出していた。
「なんか無意味な事やってる気がしてきたぞ」
「あ、そうだ。姉ちゃんを参考にやってみるよ。これなら妹に近いんじゃないかな」
「おー、それは近い……のか?」
いまいち納得いかない雄二だったが、芳樹は適当にノリで押してみた。
「よーし、それじゃ行くよ」
「はいはい」
気のない返事をする雄二。芳樹は椅子に座ったまま、頬づえをついてそっぽを向いた。
そのまま何事もなく時間が過ぎていく。雄二は沈黙に耐え切れなかったようで芳樹に話し掛けた。
「おい、何かいえよ」
雄二の言葉に芳樹はゆっくりと振り返り、冷たく見下すような目を向けながらけだるそうに言いはなった。
「はあ? ナニいってんの?」
芳樹の突然の豹変に、雄二はうろたえた。
「え? あの、その、何かお気にさわる」
雄二の言葉をさえぎるように、芳樹は細く長いため息をついて口を開いた。
「あんた……ウザイ」
「……ごめんなさい」
特に理由も無く雄二は頭を下げた。
「いやもうなんというか、申し訳ないとしか言いようがないな」
「何が?」
芳樹は不思議そうな顔で雄二を見ている。
「というか、お前んちの姉弟関係を見せられて何で俺が謝るんだ」
今ひとつ納得行かない様子の雄二。芳樹は先日兄が熱心に妹について語った事を思い出した。
「あっ、そうだ、兄ちゃんが妹についていろいろ話してくれた事があるんだ。それを参考にやってみるよ」
雄二が驚いたように目を見開いた。
「お前妹がいるのか?」
「いや、いないよ。女は一番上の姉ちゃんだけ」
「という事は兄貴にも妹がいないって事だよな……その兄貴が妹について語ったのか?」
「うん」
雄二は額に人差し指を当てて目を閉じた。
「なんか遠ざかっているのか近づいているのかよく分からなくなってきたな」
「それじゃいくよ」
芳樹はそう言うと、雄二の隣に椅子を持ってきて座り、雄二を潤んだ目で見上げてみた。
「……お兄ちゃん」
「な、なに?」
芳樹は手を伸ばすと戸惑う雄二の手をとって自分のおなかにあてた。
「お兄ちゃんの子だよ」
「……」
雄二は凍りついた。
「いやもうなんというか、勘弁してくれって感じだな」
「何が?」
芳樹は雄二を見て不思議そうな顔をしている。
「というか、俺は別にお前の兄貴の闇なんて知りたくなかったんだが」
「闇って大げさな。パソコンのゲームの話だって言ってたよ」
「ああ……そう」
「なんかものすごく熱心に語ってて」
「いやもういいから」
疲れたような様子の雄二。芳樹は何か他に参考になる物はないか、腕組みして考え込んだ。
「うーん、あとは親戚の人くらいかなあ、妹の参考になるの」
「なんか心の底からどうでもよくなってきたぞ」
雄二は一つため息をついた。芳樹の方は気にする様子はない。
「じゃあやってみるね」
「そうね」
芳樹は雄二のそばにやってくると、雄二の頭に手を置いた。
「本当に雄二はいい子だね。私の若い頃はB-29が」
「戦中かよ」
雄二の力ない突っ込みが入った。
「いやもうなんというか、妹に対する固定概念が覆されてしまったな」
「何が?」
芳樹が不思議そうな顔をしている。
「そもそも誰なの」
「ウメ婆ちゃんは確か、曾爺ちゃんの妹だよ」
「それは確かに妹かもしれんが、年上の妹は想定外だ」
疲れたように雄二が机に突っ伏した。その顔に窓から夕日が差し込む。
「ん、今何時だ?」
芳樹は携帯電話の時計を見た。
「五時だね」
「もう五時? なんて無駄な時間を」
机に突っ伏していた雄二は、立ち上がって鞄を手に取るとさっさと歩き出した。
「帰るぞ!」
「そうだね」
芳樹は雄二の後を追って教室から出て行った。
雄二に追いついた芳樹は気になっていた事を聞いてみた。
「ところで人妻の方は?」
「……いや、本当は人妻好きじゃないんだ」
「なんと」
初対面の人間にいきなり人妻本を貸せといったり、授業中に朗読するなど、かなりの情熱を感じていた芳樹としては寝耳に水だった。
「それで実は妹好きだったと……なるほど」
「……いや、お前の考えているような妹好きじゃないぞ。断じて」
「ああ、そうなんだ。てっきり家族としての妹かと思ったけど。さすが雄二、濃厚だね」
「なんかよく分からんけど、確実に違う」
一つの誤解が解け、新たな誤解が生まれた。
そんな感じで、二人は帰路についた。