第10話:患者の研究・中編
病室の窓からは高いコンクリートの塀が見える。
あの向こうにはどんな空があるんだろう。
僕はベッドの上から灰色の壁の向こうを、向こう側の青い空をいつまでも眺めていた。
「一号、行きます!」
かすかに消毒薬のにおいがする病院の廊下。少女のような顔をした少年が、突然走り出した。その先にはまだ若い女性の看護師が無防備に歩いている。
「たあっ」
少年は看護師の足元まで来ると、仰向けにスライディング。
「きゃあ!」
「よし、白いパンンンンンン!」
少年は仰向けのまま階段に頭を一定のリズムでぶつけながら滑り降りていった。
「司君」
「はい」
診察室の中で、頭に包帯を巻いた司は神妙な顔をして初老の医師の言葉を聞いている。
「病院で怪我を増やすのはやめてくれんかね」
「わかりました」
医師は司の言葉を聞くと、細い眼をさらに細くして目の前の少年を見つめた。
「君はこの間もわかりましたと言って、盲腸でもないのに自分で剃って怪我してるじゃないか」
「あれは4号室のさゆりちゃんが剃るところ見たいっていうから」
「3歳の子供に何を見せるつもりだったんだね」
「いや、剃りあとを……」
「司君、君はそもそも生えて……はあ」
初老の医師はため息をつくと、もういいです気を付けてください、といって司を診察室から追い出した。
「ちょっと痛いな。次は気をつけないと」
「にいちゃーん」
診察室のドアの前で司が包帯を巻いた頭をなでていると、背後から聞きなれた幼い声がした。
「お、芳樹、来たか」
司が振り向くと、バナナを両手に一本ずつ持った少年が駆け寄ってくる姿が見えた。
「にいちゃん入院おめでとう。はいバナナ」
無邪気な笑顔で兄にバナナを手渡す芳樹。
「よくやった芳樹、いいアイテムだ」
言葉の意味をあまり気にせず笑顔でこたえる。司は手の中のバナナに視線を落とすと、何かを考え込むように静かになった。
「……よし、つぎはこれだ」
「これ?」
不思議そうに兄の顔を覗き込む芳樹を無視して、司は颯爽と病院の廊下を歩きだした。
「兄ちゃん何やってるの?」
「静かにみていろ」
芳樹の不思議そうな顔をよそに、司はバナナの皮をもって女性看護師の背後にゆっくりと近づいて行った。
「今だ!」
司は叫ぶと同時にバナナの皮を女性看護師の足元に投げ、同時に仰向けスライディング。
「きゃあ!」
「よっし、黒べぶ!」
滑り込んだ司の顔面に女性看護師のかかとが振り下ろされた。
「あっ、ご、ごめんなさい! 大丈夫?」
「らいじょうぶれふ」
ゆっくりと立ち上がり、端正な顔の下半分を赤く染めながら司は笑顔でこたえる。
「で、でも、ちょっと先生に診てもらいましょうか」
「いえ、それにはおよみまへん。ひつれいひまふ」
「あっ、ちょっと」
司は声に背を向けて駆け出した。またあの先生の嫌味を聞くのはまっぴらごめんだった。
「よしひ、ほい!」
「どうしたの兄ちゃん顔が赤いよ」
状況をよく理解していない芳樹の手をひっぱり、病院の廊下を走る司。
「ちょっと待ってー、待ちなさーい」
背後からは被害者兼加害者が廊下に赤い足跡を残しながら追いかけてくる。
「まふいな、かふれないと」
司は芳樹の手を引いて近くの病室のドアを開けて飛び込んだ。
素早くドアを閉め、息を殺す。足音がドアの前を通り、そのまま遠くなる。
「……ひったか」
「え? うんこ?」
「しずかに」
司は芳樹の頭をなでて、だいぶ腫れのひいた自分の唇に人差し指を当てた。
落ち着いてから周りを見ると、薄暗い部屋だった。
奥のベッドには誰かが上半身を起し、背を向けて窓の外を見ている。
「ああ、勝手に入ってごめんね、すぐ出て行くから」
窓を見ていた誰かがゆっくりと司たちの方へ振り向いた。
綺麗だった。司も美少年と呼ばれていたが、それよりも綺麗だった。
ぼんやりと乾いた鼻血をつけたまま見つめる司。
ベッドの上で形のいい唇が動いた。
「……誰?」