2.気まぐれな兄と酔っ払いの下心
アルバートに見合いの話が舞い込んだのは1ヶ月程前の事だ。成人して騎士として身を立てたアルバートに、実家が結婚をせっついた事は無かった。良くも悪くも放任され、自由を謳歌していた。
事態が変わったのは見合い話が出る少し前。2つ上の兄が突然、侯爵家の継承権を放棄したのだ。その異例とも言える事態にラファエル家は一時騒然としたが、結局アルバートが継承権を受け継ぐということで落ち着いた。その騒動の詳しい内容はあまり語りたくないので割愛するが、アルバートには寝耳に水の大問題だった。侯爵家の次男に生まれ、幼い頃から自活の道を模索せねばならなかった。運よく体格に恵まれて国立騎士校に入ったはいいものの、文字通り血反吐を吐きながら何とか卒業し、騎士になることが出来た。その後も決して生易しい道だった訳では無い。いびりに耐え、辛い訓練を重ね、命のやり取りもしてきたし、貞操の危機もあった。ようやく騎士として程々の地位を手に入れ、生活に慣れ、安息を感じる事ができるようになったのはここ数年の事だった。兄の気まぐれは容赦なくそれらの努力を無に帰した。
それでも、貴族として生まれ育ってきたのだから、家に跡取りが必要だと言うことは分かる。アルバートのこれまでの数年の努力など、今までラファエル家を受け継ぎ守ってきた領主達の長年の努力の前では塵ほどの重みも持たない。兄が継承権を放棄した今、自分がその役目を担う責任があると言うのは理解できた。そして、自分という代えが居た事に安堵さえした。もちろん父の決定に否やは無い。わがままが許されるのなら、次に会った時、兄を思いっきり殴りたいとは思ったけれど。
家を継ぐことが決まってすぐに騎士団には申し出た。すると直ぐに比較的安全な所に配置されるようになった。そうして3ヶ月の引き継ぎ期間を置いて騎士団を辞める事が決まった。貴族の子弟が多い王宮の騎士団において、実家の都合で騎士を辞める者は少なく無い。事務方に申し出ればあっけないほどトントン拍子に退団までの予定が決まった。
そうして、穏やかな任務をこなしつつ騎士団との別れを惜しみながら過ごしていたある日、父から見合いの打診が来た。領地に帰ったらきっとすぐにそういう話が出るだろうとは思っていたが、予想よりも早かった。兄の一件が有って、父も焦っているのかも知れない。すぐにでも跡を継がせて安心したいというのがありありと伺える。父を安心させるためにも諾と返事をした。幸か不幸か結婚したいと思うような特別な女性はいなかったし、跡取りとなれば政略結婚が当たり前だと分かっていたのだ。
*****
「止めてくださいっ!」
「う〜ん、可愛いね。恥ずかしがることは無いよ、私に任せておけば良いんだから。」
リリアは必死に身を捩っていた。目の前には父とそう歳が変わらないくらいの貴族の男がいて、リリアを暗がりへ導こうとしていた。
「やめて、離してっ!」
必死に抵抗するけれども、男性の力には叶う訳もなくどうしてこうなったのかと思うと涙が滲んだ。
「あまり大きな声を出さない方がいい。誰かに見られたら大変だ。嫁入り前の娘さんがこんな暗がりで男を誘っていたなんて噂をたてられたくは無いでしょう。ご両親に迷惑がかかる。」
卑怯な酔っぱらいの言い分に、けれどもリリアは一瞬息を止めた。成人したばかりの世間知らずなリリアには男の言葉こそが真実に思われたのだ。幾分潜めた声で必死に止めて欲しいと懇願するが、男はニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべたまま、リリアを離そうとはしない。
今日は父の居ない初めての夜会だった。今年成人して社交界デビューしたリリアだったが、数回父にエスコートされて夜会に参加し、社交界の雰囲気にも少し慣れた。今夜の城での夜会は盛大で、父母はあいさつ回りに忙しいし、リリアもそろそろ同年代の友人を作るべきだしと、付き添いは兄姉達に任された。何人かの友人と出会い、親交を深めた後、リリアは一人で壁の華となっていた。ハリス兄様はフィアンセを見つけて挨拶に行った。モニカ姉様はダンスに誘われてホールに向かった。マリオ兄様は手洗いに行くと会場を後にした。
言われた通り一歩も動かずに兄姉達を待つリリアだったが、目の前を中年の男が具合が悪そうに通り過ぎた時、思わず声をかけてしまった。持病の発作が出たから外気に当たりたいと言う男の言うがままにバルコニーまで手を貸し、そこで豹変した男に暗がりに連れ込まれそうになっている。男に引きずられてバルコニーを降り、庭の暗がりに押し込められてしまうとリリアは身体の震えが止まらなかった。伯爵家の箱入り娘では有ったが、成人してすぐに性に関して一応の知識を学んだ。その時得た知識に照らし合わせて見ても、この状況は最悪だった。ろくな抵抗も出来ずに良い様にされてしまう位なら、恥をかいても助けを呼ばなければと意を決し、息を吸い込んだその瞬間、
「そこで何をしている。」
と落ち着きのある男の声が聞こえた。小さく舌打ちした酔っぱらいが不機嫌そうに言い訳をしているが、かまわずに助けを求める。
「助けて下さい!」
「…っと、そちらのレディは言っておられますが?あちらで少々お話伺えますか?」
落ち着いた声がそう言うと、リリアを連れ出した酔っぱらいは急に走りだして一目散に逃げていった。
「こらっ!待て!…ったく。お嬢さん、大丈夫ですか?」
リリアに目線を合わせる様にしゃがみこんだのは、黒髪黒目の騎士だった。切れ長の目が一瞬冷たく見えるが、その瞳は同情と心配の色を讃えていて暖かい。
「は、はい。あの、その…」
リリアはお礼を言おうと思うのだが、なかなか言葉が出てこない。そのうち急に視界が滲んで目の前の騎士が闇に溶けてしまったように見えた。自分が泣いていると気づいて慌てて目をこすろうとすると、大きな手がやんわりとそれを止める。
「無理やりこするとせっかくのお化粧が崩れてしまいますよ。もう大丈夫ですから。」
そう言われてハンカチを渡された。飾り気の無いハンカチはほのかにハーブの匂いがする。リリアがやっと落ち着きを取り戻して、そっと涙を拭うと騎士は輪郭を取り戻す。彼はやんわりと微笑んでいる。その笑顔に胸が高鳴る。ドキドキと先ほどまでとは全く違う甘い響きをもった胸の音にリリアは思わず首元で手を組んだ。
「さ、あまり外気に当たると身体に障りますよ。」
そう騎士にせかされてリリアはハッと辺りを見回した。先ほどの男は居ないけれども、こんなところで男性と2人きりで居るのを誰かに見られるのはあまり良くない。淑女としての振る舞いに欠ける自分をこの騎士はどう見ているのだろうかと思うと恥ずかしさで消えてしまいたくなる。きっと、はしたないと思われている…そう考えるとしょんぼりと肩が落ちた。
「こちらへ、ひとまず控えの間までご案内しましょう。」
騎士はそう言ってゆっくりと歩き始めた。リリアはその背を追った。先ほどは真っ暗に見えた庭も落ち着いて見渡せばほのかに明るい。月灯りが草木の輪郭をぼんやりと浮き上がらせているし、遊歩道の脇には灯りがともされ足元を照らしていた。親密さの無い距離感を保ったまま庭を進む。それに安心と同じくらい寂しさを感じる。心の奥に芽生えた触れたい、触れられたいという気持ちはリリアの胸の中で形を現すことない。程なくして、騎士は扉の前に立ち止まるとリリアを振り返った。
「こちらから入るとすぐ右が控えの間です。中から広間に戻れますから、支度をされたら中に居る侍女に案内をさせてください。」
「は、はい。ありがとうございます。あの、お名前は…?」
「いえ。名乗るほどの事はさせて頂いておりませんので。」
一度断られてしまうと再度尋ねるのは難しく、リリアは促されるままに扉をくぐった。ドアをくぐってからやはり名を聞くべきだと思い振り返ると、騎士は既に扉を閉めはじめていて、リリアの言葉は厚い扉に押しとどめられてしまった。
ひとつため息をついて控えの間に向かい、身なりを整えてくれた侍女に指摘されてはじめて、自分が騎士のハンカチを握り締めている事に気づいた。




