1.ため息と舌打ち
「あぁ、どうしよう。」
リリアはもう何度目なのか分からないため息をついた。それにあわせて青銅色の癖毛がゆらりと揺れる。深いため息はコロンと床に転がってリリアの足元を埋めていく。どうにもならないこの状況は、ため息をつけば付くほど悪化するように思われた。しかし、彼女はどうしてもため息をつくのを止められない。あと数日で彼女は父の決めた相手と見合いをする事になっていた。見合い…といっても、結婚することは既に決まっている。顔を見て、話しをして、何を感じたとしても否やは認められない。見合いというより、婚約前の顔合わせといった方が良いのかもしれない。
リリアの結婚話に父以外の家族は大反対だった。ある日の夕食で珍しく早く帰宅した父が見合いが決まった事を告げると、今年成人して社交界に出たばかりのリリアには早すぎると母も兄姉達も肩を怒らせて父に詰め寄った。
「お断り下さいませ。」
そう言い放った母に、父は顔面を蒼白にしながらも首を振った。
「断る事はできない。お相手は侯爵家の跡取りだ。リリアにとっても最良の縁談だと言って良い。これを逃せば、めぼしい相手が居ないのだ。」
「けれどもっ!ラファエル領だなんて、北の外れですわよ?…そんな遠くへリリアをやってしまわれるの?」
モニカ姉様が泣き落としをかける。哀れっぽい泣き声が明瞭な響きをもって耳に届いた。きっと嘘泣きだと家族みんなが分かっているが、それでも可憐なモニカの涙に父はたじろぐ。
「しかし…。」
言葉に詰まった父に家族はこれ幸いとばかりに追い討ちをかける。手こそ出ていないが、袋叩きにされている父が憐れに思えた。昔から、リリアは穏やかな父が大好きだった。姉達は父のことを気の強い母の尻に敷かれてしまって情けないと嘆くが、リリアはその姿を愛情深い故だと捉えていた。母の気の強さも我がままもふとした時の脆さも実は細部に渡っている気遣いも、父はその全てをあるがままで受け入れる。父のように愛してくれる人に嫁ぐことができれば…と言うのがリリアの幼い頃からの夢だ。その父が勧める縁談である、リリアにとって悪いものではないだろうとも思える。だからリリアは白熱する家族に向かってこう言ったのだ。
「お父様、私お見合いさせていただきます。どうぞ、お話しを進めてくださいませ。」
慌てる家族をにっこり微笑んで見つめれば皆一様に言葉をつぐんだ。家族は皆、末娘のリリアの笑顔に弱いのだ。
そう言った自分をこんなに後悔する羽目になるだなんて予想もしていなかった。今になっては見合いを断る事は出来ない。しかし、こんな気持ちで見合いするだなんて…相手にとても失礼だと思われた。リリアの心は、あの少し鋭くて、けれども優しさを湛えた黒い瞳に囚われているのだ。こんな気持ちでとても他の男に嫁ぐ事なんて出来そうに無い。リリアは途方に暮れて、またため息をついた。
*****
「あぁ、くそっ、どうして今になって…」
アルバートはもう何度目なのか分からない舌打ちをした。彼の緑色の瞳はこれ以上無いほどつりあがっている。不機嫌さを隠そうともしないその様子に、同僚のエリオットは頭を抱えた。
「アル。頼むからそう不機嫌な顔をしないでくれ。娘さんたちが怯えてしまう。」
「…あぁ、悪い。」
そういいながらもアルバートはもう一度舌打ちをした。
「…そんなに嫌なら、見合いを断ればよかったじゃないか。」
「見合いの話を受けてから、彼女に出会ったんだ。」
「なら、今から見合いを断ればいい。」
「そんなこと、出来るわけ無いだろう!」
「おいおい、俺に八つ当たりはよしてくれ。」
「…悪い。」
アルバートは浮きかけた腰を落ち着けながら、また舌打ちをして前を睨んだ。その様子にエリオットはやれやれと首を振る。今日は侍女達からの差し入れは届きそうに無い。甘いものに目が無いエリオットにとっては死活問題だった。
黒髪緑目のアルバートと、金髪茶目のエリオットは第3騎士団に所属している。つり目で整った顔立ちのアルバートとたれ目で愛嬌のある顔立ちのエリオット。硬派と軟派。無口と饒舌。静かで落ち着いた雰囲気のアルに朗らかで陽気な笑顔を絶やさないリオ。二人を形容する言葉は示し合わせたかのように対極に位置する。なのに、なぜか国立騎士校で出会った瞬間から馬が合った。アルバートの硬さをエリオットが和らげ、エリオットの軽さをアルバートが落ち着ける…そういう風にお互いを上手く中和しあうらしく昔から2人で居ると良く女性に話しかけられた。騎士になった今も2人で休憩していると、必ず誰かが余り物のおやつを差し入れに持ってきてくれるのだ。女の子も甘いものも大好きなエリオットにとって、それは毎日の重要な楽しみの一つだ。しかし、今日は誰も近寄ってこない。原因は言わずもがな、不機嫌を撒き散らすアルバートだ。
「ちなみに、アルが目をつけたお嬢さんはどこのどなたなんだ?」
エリオットは今日の差し入れは諦めてアルバートの悩みに付き合ってやることにした。このままでは明日のおやつにも差し障るかも知れない。
「……。」
しかし、アルバートは仏頂面でだんまりを決め込んだ。
「おいおい、もしかして名前を聞いてないのか?」
アルバートはつり目をさらに吊り上げてエリオットを睨んだ。その無言の回答にエリオットは頭を抱える。この硬派な友人は、気になった女性の名前すら聞けなかったらしい。
「それで、どうするつもりなんだよ。名前も分からず再会の約束もしていないのだろう?」
「見合い前にそんな不誠実な事出来ないだろう。」
アルバートの苦虫を潰したような顔は造作が整っている分恐ろしい。けれど長年の友人であるエリオットにはその顔に後悔が滲んでいるのを読み取った。
「どんな娘だったんだ?」
「どんなって?」
「見た目の特徴だよ。髪の色とか背丈とか。」
「髪は濃い金色で癖毛だった。目は茶色。背は小さかったと思う、私の胸辺り。」
「年は?」
「…わからない。」
「20代前半か後半か位分かるだろう。」
「たぶん若い。……て、かもしれない。」
「ん?なんだって?」
「成人したて、かもしれない!」
叫ぶようにそう答えたアルバートの顔は赤い。エリオットはからかいたいのをぐっとこらえて頷いた。現在20代中盤の彼らにとって成人したばかりの娘など子どもと一緒だと思っていた。少なくとも今までは眼中に入らない事の方が多かった。共に遊び歩く中で、アルも年上の女が好みなのだろうと思っていたが…そうではなかったらしい。
「10代だな。わかった。ちょっと待っておけよ。」
「何をする気だ?」
「愛しの君を探すんだよ。」
「バカな…。」
「いや、まぁ難しいけれど何もしないよりはましだろう。」
「エリオット、くれぐれも余計な事はするな。私は今週末には見合いだ。今更あの娘と再会したところで…。」
「はいはい。ほら、そろそろ休憩終わりだ。お前も持ち場に戻れよ。」
「エリオット!」
「わかったわかったって。悪いようにはしないさ。」
エリオットは声を荒げるアルバートを無視して歩き出した。後に残されたアルバートは不安を拭えないまま逆の方向に歩き出す。仕事に遅れるわけにはいかない。仕事が終わったときに、もう一度エリオットをとっ捕まえて余計な事をしないように釘を刺さなくては。イライラを押し殺そうとして、アルバートはまた舌打ちをした。