継承
1.
東京下町の一角。ラーメン屋「来々軒」の店内に配信中継の実況が響いている。
「さあ、いよいよ青コーナーから挑戦者の入場です。25歳という遅い年齢でデビューしながらもわずか2年を経て初の世界タイトル挑戦。彗星のごとく現れた期待の女性ボクサー、黒木洋子です」
アップテンポでありながらも哀愁の漂う曲が響いている。スマホをつないだ液晶テレビには、ピンクのガウンに身を包んだ洋子の姿が映っている。
店は夕方から臨時休業し、洋子の両親である朝吹洋介と京子が白い割烹着を身に着けながら画面に目をやっている。洋介が腕組みをし、京子が口を開いた。
「あの子、大丈夫かしら」
「大丈夫、大丈夫っすよ」
健太がつぶやくように応えた。車椅子に座り、両拳を握りながら食い入るように見つめている。両隣には藤岡秀美と信人がいた。彼らは健太の叔母夫婦だった。
洋子がロープをくぐり、リングインした。ガウンのフードから顔を出し、右手を挙げながらその場でくるりと一回りし一礼した。少し丸みを帯びた頬が大きく緩んでいた。
彼女の脳裏に浮かんでいる。出逢、決意、覚悟。心の中でつぶやいた。
「ここまで来ちゃったよ、絶対取るよ、きっとだよ、健ちゃん」
2.
洋子は会社勤めを辞め、実家のラーメン屋を手伝っていた。都内の私立4年制大学を卒業し総合職で商社に入社したが1年で退職した。一身上の都合としていたが単調な毎日に飽き飽きしてしまった。刺激を求めたい訳ではなかったが、心の片隅にぽっかりと穴が開いていたことも確かだ。
ある日のこと。洋介と京子の幼馴染である丹波勝平が「来々軒」にやって来た。真夏の日照りがじりじりし、冷房の効いた店内に入り、大きく息をついた。一人で来店することが多かったが、その日は違った。連れの若い男がいた。
「いらっしゃい!!」
洋子の大きな声が響いた。
「暑いのに元気だねえ。イキイキしてるねえ。やっぱ会社勤めは似合わねえか」
口ひげを讃えた勝平の口からガサツな笑いが聞こえた。
「ああ、そうそう、こいつね、今度うちのジムでデビューするから。よろしくね。名前は黒木健太。洗濯屋のケンじゃねえよ。高倉健の健に菅原文太の太の方だから。表だから」
再びガサツな笑いが広がると洋介が口をはさんだ。
「いくらうちの娘たってえ、今時やあ、セクハラだぜえ」
「なんでえい、てめえだって視てただろ。高い金払ってよ、ビデオ買ってよ。確かよ誘われたよ、うちで視ようぜ親いねえし今日しかねんだって言って。こちとらボクシングの高校選手権に向けて必死んなって青春賭けてんのに参っちまったよなあ」
「うっせえよ。ほっとけよ。昔のこったい」
「そうかいそうかい、どうかいね」
「なんだとこんにゃろ、てめえは昔っからそうなんだ。ああ言やあ上祐なんだ。ボクシングにゃ負けっだろうが、喧嘩じゃ負けねえぞ」
洋介が包丁を握ろうとすると京子がすりこぎでぽかりと頭を叩いた。
「やんなら外行っておくれ。警察沙汰なんざあ、ごめんだよ」
洋子が飽きれた顔をしながらも、勝平に注文を訊いた。
「あっちいからね、冷やし中華にすっかな。おめえはどうする?」
「同じので」
健太がぼそりと口にし、一気にコップの水を飲んだ。洋子が気づき、水差しを持ち上げると、
健太が頭を下げ、コップを差し出した。細面の引き締まった顔が洋子の印象に残った。
3.
健太はすでに「来々軒」の常連になっていた。当然洋子も顔見知りとなり、気楽に話しかけるようになった。初めて来てから1年程でプロデビューが決まった。すでに洋子も知っていた。尋ねてみた。
「何か他にスポーツやってたの?」
「いえ、特に」
「勝平おじさん、早い方だって言ってたわよ」
「そうすっか?」
「そうよ」
「そうすっかねえ」
洋子がほほ笑んだ。ふと見るとカウンターの足元に紙袋に入った洗濯物が置いてあった。
「ひょっとして、これから洗い?すぐそこのコインランドリーで?」
「ええ、まあ」
「もしかして掃除とかしてないの?」
「いえ、まあ、自分なりに」
「あたしが言うのもなんだけど、ラーメンばっかじゃ体に良くないわよ。ましてやボクサーなんだし」
「ええ、まあ、気を付けるっす」
洋子の心に少し温かいものが流れた。
「今度手伝ってあげようか?」
「え、あ、それは、いえ、どうも」
「迷惑かしら?」
「え、あ、それは、いえ、どうも」
「いいのよ。こう見えてもちょいと得意だから」
「え、あ、それは、いえ、どうも」
「じゃあ、明日でもいい? お店休みだし」
「え、あ、それは、いえ、どうも」
洋子が白い前掛けからスマホを取り出し、健太がズボンの後ろポケットから抜き取り、お互い連絡先を交換し、健太のアパートの住所も教えてもらった。
洋子がネットのマップで調べると、意外に近いことが分かった。「来々軒」から歩いて5分程だった。
「こんな近くにいたのね。そりゃあ常連になるわ。ジムもうちの隣だし」
洋子が陽気に笑うと健太がようやくほほ笑んだ。厨房の洋介と京子は黙って手を動かしていた。耳に入っても知らぬ振りをしていた。
4.
翌日、洋子が健太のアパートへ行った。時刻は午後3時頃。フォークソングにでも歌われるような木造アパートの2階に住んでいた。
21世紀も20年以上経っているが、いまだ昭和以前の香りを残す建物が東京下町には残っている。大家も個人の年寄とのことで、昔ながらの人情の灯が微かに繋がっているようだ。
洋子は健太へ事前に連絡していた。練習も休みとのことでかなりタイミングがよかった。ギシギシ音の鳴る外階段を上り、一番奥の203号室のドアを叩いた。よれよれの部屋着姿の健太が出てきた。
洋子が招き入れられると驚きと同時に納得もした。一人暮らしの男の部屋。六畳間には万年布団に乱雑に重ねられた雑誌類、小さな台所にはどんぶりが放置されていた。
「さっ、これから忙しくなるんだから、少しは手伝ってよね。足手まといにならないでよね」
健太が照れるように頷いた。
言葉通りと言えるのだろうか? 洋子はてきぱき片づけを始めた。雑誌類等を部屋の隅にまとめ、ゴミ等も持参したビニール袋に放り込んだ。台所の食器も洗い、洗濯物も部屋にあった紙袋にまとめた。部屋の隅に目をやると掃除機が置いてあった。
「あれ、使ってもいい?」
「昼間だし、お隣いないし、問題ないし」
洋子が掃除機を手に取った。一通り終えた後、四つん這いになりながら持って着た雑巾で台所の足元や畳の隅などを拭いていった。
ふと後ろを振り向くと健太がこちらを見ていた。
「もしかして変なこと考えてる? あっちにある雑誌みたいなこと考えてる?」
健太が真っ赤になり、声を荒げた。
「そ、そんなことねえよ。なんか手伝えるかなって思ってただけだよ」
洋子が笑みを浮かべながら言った。
「男の人ってバカだからね。否定するってことはそうよね」
「う、うるさい」
健太が珍しく言い返した。
「暇なら洗濯行ってきて。あれなら慣れてるでしょ?」
健太が頷き紙袋を持ってそそくさと部屋を出た。
帰宅後、見違えたような部屋を目にしびっくりした。雑誌類等は部屋の隅にきちんとまとめられ、椅子のない机の上も整理されている。どこかしら畳が光っているように感じられ、万年布団も違って見えた。
洋子が洗濯物を催促し、紙袋から取り出し、きれいに畳んだ。小さな洋服ダンスの中にしまい、部屋の中央のテーブルの傍に座り、一息ついた。
「やれやれってところね。お茶入れてあげる。あれ、コーヒーや紅茶の方がいい?」
健太が首を振った。お茶をすすりながら洋子が言った。
「デビュー戦、いつ?」
「一週間後」
「練習いいの?」
「やりすぎはいけないから」
「休みでもちょっとは動く?」
「洗濯物でロードワークしたから」
洋子が笑った。
「ねえ、あのポスターの人、誰?」
机と接する壁の上に2人のボクサーのポスターが貼ってあった。
「日本人は輪島功一、外国人はモハメド・アリ。どちらもレジェンド」
「へえ、尊敬しているの?」
「まあ、憧れかな」
「結構、古い人そうね」
「60-70年代が全盛期かな」
「そんな昔? どうして知ってるの?」
「父さんが気に入ってたから」
「お父さんもボクシングを」
「大学の時かじった程度って言ってた。勉強もしたかったらしいから」
「へえ、お父さんはどこにいるの? お母さんも一緒なの?」
「いや、いないよ、もう」
「いないって?」
「いないはいなんだよ」
「だからいないってなによ?」
「この世にいないんだよ。俺が10歳の時、事故で二人とも」
洋子は健太から聞いた。路上を二人で歩いていた際、酒酔い運転の車に轢かれた。以後、母方の叔母夫婦に育てられた。
子供がいなかったので大事にしてくれたが依存はしたくなかった。大学進学も勧められたが埼玉の公立高校を卒業後東京へ出てきた。フリーターでプラプラしているうち、ボクシングジムを目にし、通うことを決意した。
「ほんとはさ、中学や高校の時にもしたかったけど、やっぱりね、迷惑掛けられないから。あきらめてたけど、あのジムを見たらさ、なんかさ、やりたくなってさ、こうなんかさ、目に見えない両手一杯の花びらを感じるだよね」
健太の細面の顔に満面の笑みが訪れた。洋子はなぜかドキッとした。同時に心が安らぎ、いつまでもじっとしていたいと思った。
「デビュー戦、見に行っていい?」
「うん、ああ」
「勝てるといいね」
「うん、ああ」
「いっぱい応援するね」
「うん、ああ」
「チャンピオン目指してるんでしょ、やっぱり」
「うん、ああ」
「なれるといいね」
「うん、ああ」
その夜、洋子は帰宅しなかった。
5
一週間後、健太のデビュー戦が後楽園ホールで行われた。格闘技の聖地と呼ばれ、様々な格闘家が己の闘いを表現していた。健太もその一人になる。勝平から色々聞いていたので、洋子には感慨深さが湧いた。
収容人数は約2000人であり、イベント会場としては小さい方だ。ホール中央にリングが設置され、どの席からも選手の姿がはっきり見て取れる。洋子は敢えて二階の立見席を選んだ。座って見ていられない。なんだかんだでそういう気持ちもあった。
デビュー戦ということで第一試合に組まれていた。青コーナーから健太が入場してきた。身長160センチそこそこで洋子より少し上背があるくらいだ。それでもライトフライ級では大きい方かもしれない。
白いガウンを頭からすっぽりかぶり、顔はあまりよく見えない。ロープをくぐり、リングインした。ガウンのフードから顔を出し、右手を挙げながらその場でくるりと一回りし一礼した。頬のややこけた細面だが精悍さがあった。
減量は苦しくない。そう、健太は洋子に話していた。
赤コーナーから相手選手が入場してきた。すでに四回戦で三戦しており、一つ勝ち星を付けている。健太よりほぼ同じ背丈だが筋肉質である。力がありそうな雰囲気だった。
リングアナのコールの後、両者がリング中央で対峙した。健太は敢えて目を逸らしていた。レフリーからの注意を受け、両こぶしを合わせ、両コーナーへ分かれた。
ゴングが鳴った。いよいよ、健太の闘いが始まる。洋子は二階席から祈るように両手を握っていた。
「輪島功一はね、25歳でデビューした遅咲きなんだ。『炎の男』と言われてね、三回世界チャンピオンになってるんだ。蛙飛びとか変則技を繰り出してね、とってもユニークなんだよ。モハメド・アリは『蝶のように舞い、蜂のように刺す』というキャッチフレーズがあって、フットワークを使った華麗なボクシングをするんだ。ほぼノーガードで相手のパンチ避けて、カウンターが上手くて、スピードを武器にしたボクサーだね。ビッグマウスとも言われてたけどエンターティナーでもあったんだ。輪島も試合後に自慢の喉をお披露目したりしたけど、オレはエンタメは苦手だね。でも戦い方や不屈の魂は参考にしたい」
洋子は珍しく饒舌になった健太から耳にしていた。二人でYouTubeの動画を視たこともある。目の前の闘い方も確かにガードが低めでフットワークを使って相手を牽制したり翻弄したりしている。時折しゃがみ込み蛙飛びのような技も出し変則的な動きをする。
第一ラウンドから健太のペースだった。そして第二ラウンド。ロープに追い詰められながらも相手が出てきたところを右ストレートで返した。コロリと倒れ、そのまま10カウントが刻まれた。デビュー戦を見事KO勝利で飾った。
洋子は健太がほとんど傷つかずほっとした。一方で心が熱くなったことも感じた。もともと中学から高校まで陸上部に所属していた。短距離走者として活躍し高校女子の東京都200メートルの記録を持っている。
高校最後の大会前、練習中にアキレス腱を痛めた。医者からはオーバーワークと言われ、しかも陸上短距離への復帰は絶望的と診断された。以来、陸上をあきらめ、普通の女子高生に戻り、そのまま普通の女子大生とOLになった。
忘れていた気持ち。競技は違えど共通するものがあるのかもしれない。健太が立ち去ったリングを見つめながら洋子は思った。
6.
デビューから三連勝を飾り、健太は順調に進んでいた。会長の勝平は東日本新人王へエントリーすることを勧め、健太も了承した。
東日本新人王はアマチュア歴なしの叩き上げの選手も参加可能だ。四回戦から始めるC級ライセンス保持者で4勝未満の選手がエントリーできる。
デビュー戦からエントリーはできるが勝平は慎重なスタンスを取っていた。数か月に一度で試合をこなし、年明けにエントリーすることができた。
ちょうどいい頃合い。そう、勝平は思っていた。エントリーを決めた時、勝平は「来々軒」に訪れた。洋介に話すと「相当期待してんな」と言われた。
「お前んとこ、まだチャンピオン出てねえもんなあ。ジム開いて何年になるよ」
「うるせえよ。いろいろあんだよ」
「しごき過ぎてついてこれねえんじゃねえの? 最近の子は違うぞ」
「けっ、何時の時代にだって、最近の子は最近の子だい。オレらだってそうだったじゃねえか」
「ああ、よく練習したくねえって言ってたもんな。さぼりてえって、弱音言ってたよな」
「なんだ、この」
「おう、やるってのか?」
洋介が包丁を手にすると京子がすりこぎで頭を叩いた。。
「やんなら外行っておくれ。警察沙汰なんざあ、ごめんだよ」
洋介が頭をなでながらその場を離れた。京子が言った。
「でも、よかったね。健太くん、相当期待できるね」
「まあね。でも、過剰なのはね、よくないやね」
勝平が餃子をほおばり、ジョッキビールをぐいぐい喉に通した。
洋子は健太のアパートへ頻繁に通うようになっていた。時折泊まることもあり、洋介も京子もそして勝平も自然と認めていた。東日本新人王へのエントリーは健太の口から聞いていた。
「初戦はいつなの?」
「二週間後かな」
六畳一間でテーブルをはさんで向かい合いながら、洋子と健太が箸をつついている。
「また後楽園よね」
「ああ、そうだよ」
「また見に行くね」
「ああ、分かったよ」
「また立ち見にするね」
「ああ、好きにしろよ」
静かに時が流れた。
7.
東日本新人王戦はトーナメントで行われる。一発勝負の世界であり負ければ当然終わりである。健太が出場した大会のライトフライ級には16名がエントリーした。
独特のシード決定方式があり、抽選で当選するとシード権が得られる。健太は無理だった。優勝まで5勝しなければならない長い道程になったが数々の名選手を輩出している。
輪島功一も東日本新人王になり、全日本新人王にもなって、世界チャンピオンまで上り詰めた。健太の中にも漠然と世界の文字が浮かんでいる。
一体どんな景色が待っているのか? 時折想像し、わくわくする自分がいた。
東日本新人王一回戦も後楽園ホールで開催され、3Rにワンツーからの連打でダウンを奪い、見事KO勝利を飾った。二回戦は少し手こずったが判定で勝利をおさめ、準々決勝へ辿り着いた。
洋子は全試合を立見観戦した。少し離れていないと落ち着かないらしい。またしばらく会わない約束もした。東日本新人王が終わるまでお泊りはなく、代わりにLINE交換していた。
「今ロードワークしてる」
「どこまで?」
「荒川浄水場まで」
「えっ? 結構あるね。凄いね」
「そうかな?」
「ええ、そうよ」
「時間は何時頃?」
「大体朝の4時から5時の間」
「気を付けてね」
「ああ」
「無理しないでね」
「ああ」
「頑張ってね」
「ああ」
準々決勝まであと3日という時だった。明け方近くに洋子のスマホが鳴った。出れば勝平の声がした。慌てた様子だが寝ぼけ眼でも一つ一つの言葉を頭に刻んだ。
だが途中で集中できなくなり、急いで着替えをし、家を出た。ばたばたする音で洋介と京子が目を覚まし、そそくさと出ていく洋子の後姿を目にした。
ロードワーク中、健太が交通事故に遭った。
8.
事故の原因は自動車側の一方的な過失だった。横断歩道での信号無視であり、酒酔い運転でもあった。春間もない時期であり、朝の4時から5時の間は少し薄暗かった。
健太にとって慣れた道とはいえ、まさか車が突っ込んで来るとは思いもしなかった。それなりに広い道であり見通しも良かった。
衝突の衝撃で数メートル飛ばされたが、幸い命には別条はなかった。しかし脊椎を痛め、二度と立ち上がれない体になった。ボクシングを断念せざるを得なくなった。
東日本新人王、全日本新人王、そしてその先の夢。20代前半の青年にとってショックという言葉では足りないくらいだ。
車椅子生活を余儀なくされ、現在のアパートでは暮らせなくなった。事故の夜、健太の叔母夫婦である藤岡秀美と信人が「来々軒」を訪れた。
臨時休業の札が掛かり、叔母夫婦と洋子親子がテーブル席で向かい合った。お互い初めての対面であった。秀美は細面の顔でどことなく健太を匂わせ、信人は筋肉質なスーツ姿だった。
「兄たち夫婦が事故で亡くなった後、あの子を引き取ることを二人ですぐ決めました。わたしたちには子供がなかったので、こんなこと言っては不謹慎かもしれませんが、嬉しい気持ちもありました」
意気消沈のような秀美が言った。
「けれども親戚は親戚なんでしょうか? 親のように甘えていいのよ、と言っても、独立心が強くて、なるべく心配させないようにしているのが、幼い頃から分かりました。ボクシングをしていたなんて、今回のことで初めて知りました。もっと真面目に受け止めてあげたかったです」
悲しげな表情を浮かべる洋子が応えた。
「けんちゃ、いえ、健太さんは藤岡さんたちに大変感謝しています。いくら親戚だからと言って、残った自分を引き取って、高校まで出してくれて、大学進学も勧めてくれて、恩に着るという言葉じゃ足りないとよく口にしていました。ちょっと照れ臭かったのかもしれません、親のように接するのが」
秀美そして信人の瞳が少し光を帯びた。
「だから、わたしの方からこれからはもっと甘えるようにと言っておきます。けれど、藤岡さんたちと暮らすのは待っていただけますか? いえ、遠慮していただけますか?」
洋子が意を決するように続けた。
「ここでわたしと両親と暮らすことをお許し下さい。そしてわたしと籍を入れることも認めて下さい」
洋子が立ち上がり深々頭を下げた。秀美も信人も驚いた表情になった。洋介と京子も知らされておらず、ぽかんと口を開けた。だが秀美がにっこりしながら応えた。
「今日初めてお会いしましたが、あなたなら大丈夫でしょう。そんな感じがします。親御さんと共に、あの子のこと、よろしくお願いします。何かあればわたしたちもお手伝いしますから」
洋子がぱっと顔を上げ、少しふっくらした頬をさらに膨らませた。
「はいっ!!」
9.
洋子は店の手伝いをしながら健太の世話をした。店を見ながら時折健太の様子を伺いに行く。食事以外はほとんど部屋にいてネットやゲームをしていた。
店が休みの時は洋子が外へ連れ出した。近所の公園で日向ぼっこをしながら、歓声を上げている子供の姿等を眺めた。
ある日のこと。桜がちらちらと舞っていた。朗らかな陽気の中、二人の子供が向かい合いながらボクシングの真似事をしていた。
前の日、大人気の日本人ボクサーが世界戦へ挑戦し、見事タイトルを奪った。ボクシング界を超えた有名人でもあり、各種マスコミも騒いでいた。
洋子は秘めていた想ひを尋ねてみた。
「まだボクシングしたい?」
健太は応えなかった。
「まだボクシング好き?」
これも応えなかった。
「まだチャンピオンになりたい?」
三度応えなかったが、洋子の瞳には明らかに映っていた。健太が両膝の上で両拳を力強く握っていた。ふと、洋子の頭に熱気みなぎる後楽園ホールの光景が浮かんできた。
「あたしやってみるよ。代わりにやってみるよ。頑張ってみるよ」
健太が目を丸くしながら背後の洋子を見ると満面の笑みを湛えていた。
10.
洋子は勝平の元を訪ねた。むろん入門のことである。ジムには女性もいるがいずれもプロ目的ではない。フィットネスが主であり、健康志向の練習生だ。
今では女性ボクサーも珍しくないため、勝平自身も否定はしていない。けれども洋子は幼馴染の娘である。会長室のソファで対面し、戸惑いを表した。
「なんだかんだで結局ボクシングは殴り合いだよ。顔が傷つき、血だらけになるなんて当たり前なんだ。それでもいいの?」
「おじさ、いえ、会長、そんなこと百も承知です。わたしだってここの人たちを幼い頃から見てました。期待されながら辞めた人も見てました。試合の翌日の腫れた顔なんかもしょっちゅう見てました。それでもわたしはやりたいんです」
「今、25だっけ?」
「はい、そうです」
「始めるにはな」
「輪島と同い年です」
「知ってるの?」
「はい」
「健太か?」
「はい」
「あいつも20歳から始めるって言って、今時でも遅えといったら、輪島の名を出したよ。オレもかなりガキの頃、不屈の魂はテレビで視てるよ。柳済斗との試合なんか2戦ともシビレたねえ。それとアリもよく口に出してたなあ。アリをベースに時折輪島のような変則パンチも出す。それがあいつのスタイルだったよ」
勝平が唇をかんだ。洋介とじゃれ合うような朗らかな瞳はなかった。それだけ洋子の熱さを感じていた。
「このジムを開いて何十年も経つのに、まだチャンピオンは出てませんよね。日本タイトルが最高で。けどすぐに敗れましたよね。わたしは狙いたいんです、世界を。やるからには頂点を目指したいです。丹波ジム初の世界チャンピオンになりたいんです」
勝平が苦笑した。
「言うことまで一緒か」
洋子が笑顔で返した。
「まっ、仕方ねえか。洋介の許可は取ってあんの?」
「これからです」
「相変わらず行動が先だね。どうせ健太にも押しかけ女房だったんだろ」
洋子が頭を掻いた。
「元々陸上やってたんだよね。アキレス腱痛めて辞めたとは聞いてるけど、今は大丈夫なの?」
「普通に走ることはできます。鍛える覚悟はできています」
「スタイルも同じか?」
「当然です」
「分かった。明日から来なさい。状況次第じゃすぐにデビューできるかもしれないから。」
勝平と洋子が握手した。
11.
次の日から洋子の練習が始まった。「来々軒」の手伝いは変わらないが時間が短くなり、夕方からジムへ通うことになった。
洋介と京子にも話はつけてある。反対する気配がなかった。言っても聞かないと娘の性格を知っていたのだろう。
健太にも言った。頷くだけだった。ジムへ一緒に行くことを促したが返事がなかった。洋子のいない間は京子が主に面倒を見る。時折秀美も顔を出していた。
ボクシングの基本はもちろんだがアキレス腱の不安を解消するため、脚の筋力を鍛えた。ロードワークもしながらウエイトトレーニングもこなす。
身長や標準体重を加味しアトム級でのデビューを目指す。ただしロードワークの時間は明るいうちだけ。勝平の指示だった。
中学高校と陸上部のエース格だったからだろうか?勝平も驚く程、みるみる上達した。2か月でボクサーとしての基礎が出来上がり、4か月でスパーリングができるようになった。
そして通い始めて半年後にプロテストを受け、見事合格した。叩き上げで異例のスピード。何人もの選手を見てきた勝平が驚いた。同時に大きく期待が膨らんだことも確かだ。
プロテスト合格からまもなくデビュー戦が決まった。四回戦の相手は洋子より少し先輩格で2戦2敗の成績だった。
実践に勝る程の経験はない。ボクシング界にも当てはまることだ。洋子は初舞台である。たとえ勝っていない相手でも洋子より格上であることは確かだ。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
隣の布団で横になっている健太に洋子が話しかけた。
「明後日の試合、後楽園ホールに来てよ。店臨時休業してさ、お父さんもお母さんも来るんだよ。藤岡の叔母さんたちも駆けつけてくれる。リングサイドの席取ってあるんだ。もちろん、健ちゃんのもね、車椅子用のね」
健太から返事はなかった。洋子が見上げる天井はいつもより暗く感じた。
12.
デビュー戦の日、洋子は勝平や数人のスタッフと共に後楽園ホールへ向かった。第一試合に組まれているため、早々と出かけることになった。
控室で勝平がバンデージを巻いていく。
「緊張するなとは言わねえよ。オレだって、デビュー戦、いや、毎試合、ゴングが鳴るまでは緊張したさ。けど固くなっちまうと何もできねえからな。緊張と上手く付き合え。なんなら楽しんじゃえ。実力はオレが保証する。できたらKOだ、なっ。先はまだまだこれからだ」
「はい、おじ、いえ、会長」
周囲に少しだけ笑いが広がった。
リングインの時間がやって来た。控室から通路を渡りホール内に入った。洋子の名が呼ばれ勝平やスタッフたちと青コーナーへ向かった。
横を見ると洋介と京子と信人の姿が目に入った。彼らから少し離れたところに秀美がいた。そしてその前に車椅子があった。見知った顔があった。健太だった。
思わず声を上げそうになったが押し留めた。ロープをくぐり、リングインした。ガウンのフードから顔を出し、右手を挙げながらその場でくるりと一回りし一礼した。
健太と目が合った。苦笑する姿が目に映った.
赤コーナーから相手が入場し、リングアナのコールが起きた。両者がリング中央で対面し、レフリーの注意を受けてから各コーナーに分かれた。ゴングが鳴った。
洋子は右利きながらもサウスポーである。右に向かってリングを回っている。時折ジャブを出し、左に行ってからすぐにまた右へ戻る。
陸上の経験が活きているのだろうか? 跳びはねるような足取りが見ている人たちに強い印象を与えた。
時折繰り出される左右の強いストレートやフックさらにアッパーは相手をひるませるのに十分だった。
デビュー戦であるのにすでに慣れた振る舞いだ。独特の存在感のようなものも漂わせている。
リングサイドの健太はじっと見つめていた。ぶつくさ独り言のような言葉も発している。秀美がいった。
「どうしたの? なにかあるの?」
「あいつ、オレの猿真似だ。でもオレ以上にオレのスタイルが染みついてる」
健太の頭の中に自身の経験がフラッシュバックして来た。脚を使ってリングを回り、打っては離れを繰り返し、ここぞのところでカウンターを打つ。
ライトに照らされた自分。レフリーに腕を掲げられる自分。人々の歓声を一斉に浴びる自分。心の底から湧き出るものがあった。
「叔母さん、オレ、生きてたんだね。まだまだ終われないね」
健太の両の眼から雫が落ちた。
試合は第二ラウンドに突入していた。完全な洋子のペースとはいえ、なかなか倒しきれない。たった二戦されど二戦の経験の差が出ているのかもしれない。
リング中央で洋子がにらみ合っている。相手のパンチを見切ってはいるが自身のパンチも決定的な有効打は出せていない。
すると洋子の耳に聞き慣れた声がした。主が誰であるのかすぐに分かった。
「打つ瞬間ガードが落ちてるぞ。当てられるぞ」
相手の左ジャブに合わせ、洋子が被せるように右ストレートを出した。打ち下ろしのような感じになり、顎にヒットしコロリとダウンした。
どうにか起き上がろうとしているが、脚がなかなか動かない。脳が揺れている。気持ち良さを感じている。10カウントが告げられた。
13.
試合後、健太が控室へ向かった。洋子と対面し傷一つない姿に内心ほっとした。洋子が満面の笑みで礼を言うと「実力だよ実力」と返した。
シャワーを浴びに洋子が立ち去ると会長と顔を合わせた。少し照れ臭そうだった。
「元気そうだな」
「あ、いえ、ご無沙汰です」
「洋子ちゃん、やるだろう」
「はあ、まあ」
「お前と似てるだろ」
「はあ、まあ」
「しっかりやれよ」
「はあ、まあ」
勝平がにやりとした。
「ところで、なんだ、お前、またやりたくなったんじゃねえのか?」
「いえ、でも、このなりじゃ」
「いや、なにね、今さ、車椅子ボクシングってのがあるらしいんだ。まだまだマイナーだが、徐々に世界に広まってるらしい。ゆくゆくはパラリンピックの競技にしたいそうだが、元プロが参加することで色々貢献できそうなんだ」
健太の目の色が変わった。
「やってみるか?」
「いいんですか?」
「なあに、女性ボクサーの次は車椅子ボクサーだ。丹波ジムも新しいことにチャレンジしねえとな、末永くにはならねえからな」
「はあ、まあ、じゃあ、ちょっとやってみます。またお願いします」
勝平が笑った。
「だけどな、ジム通いはいいけどな、代わりにお前にも協力して欲しいんだ。トレーナーみたいな形でよう、うちの連中も見てやってくれよ」
「オレまだまだ若いっすよ。年上もいるじゃないっすか?」
「年は関係ねえよ。オレがきっちり言っておく。お前の経験や技術はうちの財産でもある」
洋子の時と同様、勝平と健太が握手した。
14.
デビュー戦をKO勝利で飾った洋子は快進撃を続けた。判定までもつれることはなく全て2Rもしくは3RでKO決着していた。
5戦目に早くも日本女子アトム級王者を獲得し、7戦目に東洋太平洋女子アトム級王者に輝いた。防衛戦も考えたが世界戦を優先しすぐに返上した。8戦目、世界への扉が開けた。
洋子は瞬く間に話題の選手になった。強さはもちろん健太の存在も理由の一つである。勝ち続けると後援会の話が持ち上がった。「来々軒」が所属する商店街の提案だ。
けれども洋子たちは丁重に断った。ボクシングはあまりにも個人的な夢なので応援してもらうのは有り難いが何もお返しできないと話した。
もし夢が実現できたら考えてもいいと付け加えた。夢とはもちろん、世界チャンピオンになることだ。
世界戦の相手は長い間王座を守っているメキシコのマリア・ゴンザレスだ。20戦負けなしで15度のKO勝利を収めている。洋子とは真逆のスタイルであり完全なファイターだ。
マリアとの試合が決まりファイスオフの時間が訪れた。
身長差はそれ程なくお互いにこやかな雰囲気だったが、角ばった顔の長い瞳の奥にきらりと光るものを感じた。野性味。少し身震いした。
試合は敵地で行われる。慣れない環境でもあるので約一か月前に現地へ向かうことにした。出発の前夜、洋子と健太は布団に入りながら横になっていた。
「いよいよだね」
「ああ、そうだな」
「どきどきするね」
「ああ、そうだな」
「わくわくもするね」
「ああ、そうだな」
「楽しみだなあ」
健太がごろりと顔を向けた。
「試合は一か月先だぞ。あんまり焦るなよ」
洋子が見返しほほ笑んだ。
「健ちゃんも順調だね」
「そうかな?」
「さすがだよ。車椅子ボクシングで負けなしの8連勝。もと日本チャンプにも勝ってるでしょう。あたしより先に8戦勝った」
「運が良かったんだよ」
「運も実力のうち」
「うん、うん」
「オヤジギャグ」
ふたりが笑った。
「健ちゃんも変わったね」
「そうか?」
「喋るようになった」
「そうか?」
「ボキャブラリーが少し増えた」
「そうか?」
またもふたりで笑った。
「現地行けねえが、しっかりな。体調は万全にな」
「うん」
「特に水には気をつけろよ。もっとも一番の心配は会長か。ちょっとボケってからなあ」
「十分注意しておく」
二人が静かになった。いつもの暗い天井が少し明るくなっていた。
15.
世界戦当日。
リングアナのコールが終わり、両者が中央で対面し、レフリーの注意が促され、両者が分かれた。
洋子は青コーナーの上に合わせた両拳を乗せ、祈るような姿勢になっている。配信中継の実況から聞こえてくる。
「無敗同士の世界戦。ブル・ファイターの異名を取る王者に対し、レジェンドである輪島功一とモハメド・アリに憧れる挑戦者はこのように言われています。『鹿のように跳ね、鷹のように打つ』。日本の皆さん、歴史的瞬間をしっかりとご覧下さい」
ゴングが鳴った。洋子が青コーナーから振り返り、満面の笑みでリング中央へ歩み寄る。彼女の躍動はこれから始まる。




