小さな私と行った水族館
その日、私は家に帰るか迷っていた。
朝早くから資格試験を受ける為に外出し、無事に終わり小腹が空いたので近場のファーストフード店で少し早めの昼食をとっていた。
子ども達は両親の帰省に付き合って不在の為、明日まで帰って来ない。夫も出張中で帰って来るのは明日だ。つまり今の私はおひとり様である。
このまま雑用を済ませる為に帰宅しても良いのだが、今の私は試験を終えた燃え尽き症候群であり、おそらく帰った所で何もせずソファに倒れ込む未来が見える。
折角のおひとり様を無駄に過ごすのは何となく気が引けたので、こうして悩んでいるわけだ。
フライドポテトに手を伸ばしながら、特に目的も無くスマートフォンを操作して、近くにカラオケボックスがある事に気が付く。
久しぶりにヒトカラをしてストレス発散するのも良いなと思ったが、先週風邪を引いた後遺症で咳がまだ続いてるのでそこまで行く気になれなかった。
「最近の歌もそんなに知らないし、懐メロを歌いたい気分でも無いんだよなあ……」
スマートフォンをテーブルに置き、ソーシャルネットワークサービスのアプリをタップしたその時だった。
「お姉さん、何してるの?」
正面からふと、幼さが残る高い声が聞こえた。
顔を上げると三つ編みのおさげの少女が私の前に座っていた。
小学生くらいだろうか。入学したてより少し上に見えるその子は、不思議そうな目で私のスマートフォンを見ていた。
「えっと……お姉ちゃん、どうしたの?」
「それなーに? ゲームしてるの?」
少女は私の質問には答えず、私のスマートフォンを興味津々で見ている。それは初めて見るような物珍しそうにしてる目だった。
「いや、ゲームはしてな、いや出来るけどそうじゃなくて、お姉ちゃん一人? お母さんかお父さんは?」
「お姉ちゃんじゃなくてニノハラカリン。ママとパパは夜までいないから暇なの。お姉さんは?」
「えっと、私も暇だけど……」
「そうじゃなくてお姉さんの名前、なんて言うの?」
「あ、私は本宮夏鈴だけど」
「え、お姉さんあたしと同じ名前なの!?」
少女が、否、カリンががたりと音を立てて立ち上がった。
突然の事で私は思考がついて行かずに目の前の少女に戸惑っていると、カリンが身を乗り出して私の顔を覗き込んできた。
「すごい偶然! ねえねえ、暇ならあたしと一緒に出掛けようよ! 行きたい所があるんだ!」
「え、そんな急に言われても、ていうかご両親がそんなの駄目って言うに決まってるじゃない」
「夜まで帰って来ないから大丈夫だよ。ねえお願い。電車に乗って行く所だからあたし一人じゃ行けないの」
戸惑う私を気にもせずカリンは頼み込んでくる。
突然の見知らぬ少女の誘いなど断れば良い話なのだが、何故か私にはそれが出来なかった。
そしてちょっとだけ誘拐の文字が頭をちらついていたが、このまま帰るより少女の頼みを聞くのも悪くないと考えてる自分もいることに気付いた。
まあ、近場ならちゃちゃっと行って帰ってくれば良い話だ。人助けをして暇がつぶせるなら私にも都合が良い。
「……じゃあ、近くなら良いよ」
「ほんと!? あのね水族館に行きたいの! ここから電車で五個目の駅にある所!」
「あーあそこか……それこそご両親には頼めなかったの?」
「ママとパパお仕事忙しいから。駄目?」
「まあ……近くだから良いか……」
「やったー! お姉さんありがとう!」
カリンが満面の笑みで私の手を取って立ち上がらせようとしてきたので、私も慌てて上着を着て荷物を手に取り席を立つ。
店を出てカリンと並んで歩き、駅まで向かおうとしたその時、私はカリンの名乗った名前が引っかかった。
(二野原って……私の旧姓?)
だとしたらカリンの名前は、昔の私と同姓同名という事になる。
そういえば私の髪型も昔は、カリンと同じ三つ編みのおさげだった時期があった。毛量が多く、髪色を変えたら世界的に有名な名作小説の主人公みたいだとよく言われていた。カリンも似てる気がする。
偶然かもしれないが、今の私には確認する術が無かった。
* * *
カリンと一緒に改札にカードをかざし、水族館のある最寄り駅を出る。
水族館までの道を並んで歩きながら、私はカリンに話しかけた。
「どうしてここの水族館に来たかったの?」
「この間学校の遠足で来て楽しかったんだけど、なんか物足りなくて……もう一度来てみたかったの」
「そっか……私もここは遠足で来てそれっきりだったなあ」
「お姉さんも遠足で来たの? 楽しかった?」
カリンの問いに、私は即答が出来なかった。
胸に何かが突っかかり、上手く言葉が出ない。
お姉さん? とカリンが心配そうに見上げてきたので私は悟られぬ様平常心を装い、顎に手を当てて考える素振りをした。
「うーん……楽しかったといえば楽しかった……かな? 元々水族館好きだし」
「水族館好きなの? 他にはどんな所行った?」
「確か東京の水族館は三箇所行ったかな。カリンちゃんぐらいの時に品川の水族館も行ったよ」
「そこ確かパパが連れてってくれたかも! イルカショーがすごかった!」
「おお、良いねー。私も父に連れてって貰ったんだよ」
「あそこも楽しかったからまた行きたいなー」
たわいもない話をしているといつの間にか水族館の入口の前に着いていた。
幸い小学生以下は無料だったのでチケットは私の分だけで済んだ。事前に購入した電子チケットを見せて中に入ると、大きな水槽の中を泳いでるシュモクザメ達が私たちを出迎える。
以前老朽化が進んだ影響で全体的にリニューアル改装をするという話を聞いた気がするが、この水槽は何となく見覚えがあった。
カリンが目を輝かせながら下に続く階段を降りていくので私も後を追うと、薄暗い空間でいくつもの水槽が連なるエリアに着いた。
世界中の海の生き物たちがそれぞれ決められた水槽の中で過ごしている。
幻想的な空間だが、そこには似つかわしくない胸の痛みが少しずつ私の中から生まれ始めていた。
「わーやっぱり綺麗だなあ。ねえお姉さ……お姉さん?」
カリンが振り向いて私に声をかけようとして、しかしその声は語尾に疑問符が付いた。心配かけまいと私は笑顔を取り繕うとしたが、息がつまり少しずつ呼吸が難しくなってきた。
「お姉さん、どうしたの? 苦しいの?」
「う、ううん、大丈夫。大丈夫だから」
「……お姉さん、泣いてるの?」
カリンの言葉が引き金になったのか、私の目から雫がこぼれ始めた。
どんどん溢れるそれは止まる事を知らずに、私の目からは溢れてくる。
「ご、ごめっ……大丈夫だか……っ」
「無理しなくて良いよ。あっちの椅子に座って休もう」
不安げな顔をしながらもカリンは私の手を引いて休憩場所の椅子に向かう。年端も行かない子どもに気を遣わせるなんてと私は自分の言動を恥じた。
落ち着いて深呼吸をし、ここに来る前に自販機で買った飲料を口に含む。涙が余分な何かも流してくれたのか、少しだけスッキリしていた。
ふうっと息を吐きカリンを見ると先程と同じ目で私を見ている。
心配させてしまった罪悪感が私に覆い被さってきた。
「いきなりごめんね。その……昔の事を思い出して」
「昔って、ここに遠足で来た時のこと?」
「うん……遠足自体は楽しかったんだけど、その時の私はね、一緒にまわりたかった友達がいたんだけど、その子は別の子とまわりたくて……私はその子たちの後ろをついていってたの。まるで金魚のフンみたいだった」
言葉で改めて口にした事が引き金になったのか、また目の奥に涙が押し寄せる感覚が来る。いつも以上に瞬きをしてそれらを抑えながら、私は言葉を続けた。
「ちょっと記憶は朧気だけど、それが多分ここのエリアだったんだと思う。だから、その時の惨めな気持ちを思い出しちゃって」
「……今もそう?」
「えっ?」
「今も、その気持ちになる? あたしと一緒にいて、惨めな気持ちになる?」
ずっと不安な目でこちらを見るカリンの頭を、私はそっと撫でた。
「ううん、カリンちゃんとここに来て私は楽しいよ」
「ほんと? 良かった。そしたらもっといっぱい楽しい思い出作ろうよ! お姉さんの嫌な思い出、全部上書きしちゃお!」
明るい声でそう言いながら、カリンは私の肩を叩く。
軽やかな音が響き、同時に私の胸の内も少しだけ軽くなった気がした。
* * *
「ここは暖かい海のエリアだって。世界地図の真ん中辺りみたいだね」
「真ん中が暖かいの? 南は下でしょ?」
「赤道付近が一番暑いんだよ。南極は下にあるでしょ?」
「そっか。お姉さん物知りだね」
カリンがこの魚の名前は何だろうと言いながら水槽に展示されてる写真と照らし合わせて微笑むと、私もつられて笑みがこぼれた。
「小学生の頃に覚えた知識はまだ残ってるみたいなのよね。塾に行ってたからかな?」
「お姉さんも塾行ってたの? あたしも今度塾に通うの。ママが中学受験してみないかって提案してきて」
「そっかカリンちゃんもか。私も中学受験したよ」
「ほんと? 行きたい学校に合格出来た?」
「うん。色々あったけど、楽しい学校生活だったよ」
カリンが良いなあと呟きながら再び水槽に目を向ける。
二人の前をカクレクマノミとナンヨウハギが泳いで行った。
「あたしも行きたい所に行けるかな? 学区の中学はあまり行きたくないんだよね。友達と上手く付き合えてないから」
「そっかあ……」
「思ったことを話すと、皆怒ってあたしの前からいなくなっちゃうの。勿論友達が全くいないわけじゃないんだけど、居心地はあまり良くない」
寂しげで、どこか諦めたような目でカリンは水槽を眺める。
群れから外れた小魚を見ながら、私は口を開いた。
「勉強を頑張れば、きっと行きたい学校に行けるよ。でも……環境を変えても、自分自身が変わらないと駄目だと思う。難しいけどね」
「新しい場所に行っても、友達出来ないかな?」
「そんな事ないよ。友達は出来る。けど、その友達とどう仲良くなるかは、カリンちゃん次第だよ」
「お姉さんの言ってる事難しい」
ぷくーっと頬を膨らませたカリンを見て思わず笑いが溢れる。
笑ってる私を横目で見ながらカリンは「あ、ペンギン!」と遠くを指差して走って行った。
フンボルトペンギンがひょこひょこ岩山を歩き、何羽か水の中に入って気持ちよさそうに泳いでいる。
「うちの子もペンギン好きなんだー」
岩陰からひょこっと顔を出すフェアリーペンギンの可愛さに癒されながらそう言うと、カリンが少し驚いたような顔で見上げてきた。
「お姉さん、子どもがいるの?」
「あ、いないと思ったでしょ? こう見えて娘が二人いるんだ」
「へえー。あたしも妹がいるの。お揃いだね」
「カリンちゃんもお姉ちゃんなんだ。私も妹が一人いるよ」
「ねえねえ、お姉さんの子ってどんな子? 可愛い?」
カリンが好奇心旺盛な顔で見てくる。私はスマートフォンを取り出して画面を操作し、娘たちの写真を見せた。
「可愛い。お姉さんに似てるね」
「そう? 二人ともパパにそっくりだって言われるよ。ママの要素が無いって」
「そんな事ないよ。口元とか二人とも似てる。雰囲気も」
「そうかなあ……」
普段言われ慣れてないことに戸惑いつつも、カリンの言葉が純粋に嬉しくて笑みが溢れた。
「二人とも幸せそうな顔してる。ママのことが大好きなんだね」
「そう、だと良いなあ」
「お姉さんは? お姉さんの子達、好き?」
ペンギンの雛が親ペンギンの後を追う姿を見ながら、カリンが私に問いかけた。胸の内を見透かすような問いに緊張が少し走るが、私はこくりと頷いた。
「うん、二人とも大好きだよ」
「そっか。お姉さんの子達は幸せ者だね」
カリンはにっこり笑ってそう言うと、今度はあっちにいこうと次のエリアを指差した。
* * *
川魚のエリアを抜け、プランクトンの写真が展示されてるエリアを抜けるとレストランがあった。
「ここのレストラン入ったことある?」
「遠足で来たんだよ? 公園でお弁当食べたからあるわけないじゃん」
「そういえばそうだったね」
看板のメニューを見ながら店内の空いてる席を探すと、混んではいるが満席というわけでは無さそうだ。
「入らないの? このおまんじゅう美味しそうだよ」
「まだお腹の中にポテトとハンバーガーが残ってるみたいなんだよね……」
お腹に手を当てながら思案する私に、カリンは意味深な目を向ける。
「このスープとゼリーだったら食べれるんじゃない? せっかく来たんだから入ってみようよ」
カリンが私の腕を引きながら中に入ろうとするので、私は空いてる座席に荷物を置き注文カウンターへ向かった。
「お腹空いてたらマグロ丼食べたかったなあ」
「え、お姉さん魚食べれるの? あたし魚は苦手なんだよね」
「私も昔は食べれなかったけど、大人になったら食べられるようになったのよ」
「へえーそうなんだ。なんか想像出来ないや」
「あはは、多分昔の私が今の私を見たら、カリンちゃんと同じこと言うかも」
笑いながらカリンの言ったスープとゼリーの上に乗ったおまんじゅうを注文し、会計を済ませて席に着く。
どうぞとカリンの前におまんじゅうを差し出すが、カリンは首を横に振った。
「ううん、あたしはいらない。お姉さん全部食べて良いよ」
「え、いいの? これ美味しそうだよ?」
私は首を傾げたがカリンは笑ったままこちらを見てるだけだった。
訝しみながらスープを飲みおまんじゅうを口に含むと、つるんとした食感からこしあんの重厚な甘みが口の中に広がる。
「美味しいね、お姉さん」
向かいの席に座ってるカリンが、頬杖をついて微笑みながらこちらを見ていた。
* * *
出口付近の売店は、買い物客で賑わっていた。
あれを買ってこれを買ってと強請る子どもの声が所狭しと聞こえてくる。
「お土産屋さんって好きなんだけど、いつも見るだけで買わないんだよね」
「欲しいものないの?」
「昔はあったんだけど、子どもが産まれてからは物欲が消えちゃってね……実用的な物しか欲しくなくて……あっ」
ふとキーホルダーの店に目を向けると、目印キーホルダーがあることに気付いた。
その中の一つ、カクレクマノミの絵が付いたキーホルダーを手に取る。
「これなーに?」
「ペットボトルとかビニール傘って同じの持ってる人が多いでしょ? それにこれは私のって目印にして付けると他の人も間違えにくくなるの」
「なるほどねー。この魚にしたのはなんで?」
「何となく、私はこの魚が好きなんだ」
「そっか。オレンジと黒の縞模様が綺麗だもんね」
カリンが何かを見つけたように壁の棚に向かうと、一つのぬいぐるみを手に取った。
「ねえお姉さん、あたしもこれが欲しいから買って?」
「えー? 親御さんと来た時に買ってもらいなよ」
「いつ来れるか分からないもん! ねえお願い。お姉さんと来た思い出が欲しいの!」
小さな手のひらの中にカクレクマノミのぬいぐるみがすっぽりとおさまっているのを見て、何となくカリンに似合ってる気がした。
仕方ないなあとカリンからぬいぐるみを受け取り、キーホルダーと一緒にレジに持って行った。
「わーい! お姉さん、ありがとう」
にこにことぬいぐるみに頬擦りするカリンを見て、私は微笑んだ。
外に出ると太陽は傾き始めていて、西日の眩しい光が顔に直接かかってくる。目元を手で覆いながら歩いてると、少し前を歩いていたカリンが振り向いて立ち止まった。
「お姉さん、今日はありがとう。ずっとモヤモヤしてたけど、お姉さんとここに来れてとっても楽しかった!」
「私も、思ったより楽しめたよ。ちょっと苦い思い出の場所だったけど、カリンちゃんと来れて楽しい思い出の場所になった」
私の言葉を聞いたからなのか、カリンが満面の笑みを私に向ける。
「ねえお姉さん。お姉さんは今、幸せ?」
「え? えっと……うん、幸せ、だよ?」
突拍子のない問いに私が戸惑いつつも答えると、カリンがぬいぐるみを胸に抱きながら意味深な笑みを浮かべた。
「良かった。お姉さんが幸せなら、私も幸せだから。だからーー」
そう言って、カリンがゆっくりと私の前に来て、そして
「これから、もっと幸せになってね、夏鈴」
刹那、突風が私を襲い思わず目を閉じた。
風がおさまり恐る恐る目を開けると、カリンはどこにもいなかった。
突然いなくなったのに、私は不思議と戸惑ってはいなかった。
何となく、そうなのかもと、気付いていたのかもしれない。
「そっか……私はずっと、ここに来たかったんだ……」
来るだけじゃない。楽しい思い出を作りたかったんだ。
どうしてここだったのか、それは私もよく分からなかったが、どこか心の中で引っかかっていたのかもしれない。
「…‥今度また、皆と一緒に来ようね。夏鈴」
買ったキーホルダーを胸に抱き手のひらで握りしめる。
胸の中が、ほのかに暖かくなった気がした。
* * *
「ママ! ただいま!」
「ママ! これおみやげ! てすとおつかれさま!」
「二人ともおかえりー。あ、これママが好きなお菓子、ありがとう。ばあば達の所でちゃんと良い子にしてた?」
「うん! うしさんにこんにちはしてきた!」
「ママ、リンゴジュースのみたい」
帰省から帰ってきた子ども達を出迎えて荷物の片付けをしていると、再びドアが開き夫が顔を出す。
「おかえり。ちょうど二人も今帰ってきた所だよ」
「おおそうか。二人ともただいまー、あとおかえりー」
「パパ! パパかえってきた!」
リビングに入った子ども達がパパの所に戻って行き、夫が二人を抱き上げて部屋に入っていく。
ひと息付いたところで私は夫に話しかけた。
「あのさ、来月の週末で空いてる日あるよね。子ども達の習い事も休みの日」
「ああ、確かにあるな。どうした?」
夫の問いかけに、私は少し考えてから口を開いた。
「ちょっと、皆と一緒に行きたい所があるんだ」




