第1話 指先が触れた、境界線
その後、会社に戻る道すがら、わたしと吉田くんは一言も話さなかった。
わたしは何だか恥ずかしくて。
だって、吉田くんに抱きついて、子供みたいに泣いてしまって。
ううん。違う。
本当は、横を歩く吉田くんが、わたしを護って戦ってくれる姿が嬉しくて、でも心配で、堪らなくて……
この人に、わたしは「特別」な感情を抱き始めていることに、気付いてしまったからだ。
怖い。まだ。
だけど……他の男の子とは、明らかに違う。
ふと見上げれば、吉田くんは目線をわたしに当てたまま、心配気な笑みを浮かべていた。
でも、ただそれだけ。
何を言っても、わたしが混乱すると思っているのだろう。
その方が、今のわたしにも有難かった。
頭の中が、ぐるぐるしているし、鈍い痛みが走る。
何だか、頬も熱いし、身体のあちこちが痛い。
会社に着いて、吉田くんはわたしの隣の席に座り、何事もなかったかのように、今日の成果をパソコンに打ち込み始めた。
……ああ。吉田くんにばかりやらせる訳にはいかない。
わたしも、フリーズしていたパソコンのマウスをクリックすると、吉田くんが端正な顔を寄せて囁いた。
「藤森さん、俺がやるから。少し休んでいて」
そんなこと、出来ない。
さっきまで、身体を張ってわたしを護ってくれていたのは……戦ってくれたのは、吉田くんだから。
「ううん、吉田くんこそ休んで。入力くらいは、わたしも出来るから」
そう言ったわたしの背中に、衝撃が走る。
また、牛鳥!?
目を見開いて振り返れば、そこに綺麗な容姿に、艶やかな笑みを浮かべる由利ちゃんがいた。
「お疲れ、彩花! どうだった、今日の客って偏屈だったでしょ?」
「由利ちゃん……」
わたしはほっとして、何だか力が抜けてしまって。
緊張の糸が、ぶちっと途切れてしまったようだった。
わたしは椅子の背もたれに身体を預け、そして情け無い笑みを浮かべた。
「ああ……どうかな、割と感じのいいお客様だったけど」
「そう? ねえ、彩花」
由利ちゃんはそう言って、白い綺麗な手をわたしに伸ばした。
少し茶色くなってしまった前髪を掻き分けて、わたしの額に触れる。
ひんやりしていて、気持ちいい。
「ちょっと彩花!あんた、熱がある!」
そう言うや、目を吊り上げて吉田くんに詰め寄った由利ちゃん。
凄い勢いで、あの吉田くんに怒鳴り始めた。
「あんた、一体どういうつもり!? 彩花が具合悪いのを、ずっと一緒にいて気付かなかったの!?」
吉田くんは、びっくりしたように目を開き、わたしをじっと見つめた。
……やめて。
頬が、ますます熱くなる。
そして吉田くんの手が、わたしの手を握り、彼は眉間を寄せた。
「本当だ。ごめんな、藤森さん、気付かなかった……」
苦しげにそう言う吉田くんに、わたしはあたふたと手を振った。
由利ちゃんはまだ憤慨してるけど、違うの。吉田くんが悪い訳じゃない。
「ううん、わたしも由利ちゃんに言われるまで、気付かなかった。鈍いから、わたし」
「帰って休んだ方がいい。宮下さん、課長に早退すると伝えてくれないか?」
「もちろんよ。彩花、ゆっくりと寝るのよ。いい!?」
吉田くんと由利ちゃんが、ぱっぱとわたしの早退を決めてしまった。
今まで、無遅刻無早退無欠勤で頑張ってきたのに……。
でも、ここで意地を張ってたら、二人に迷惑が掛かる。
わたしはパソコンを立ち下げ、吉田くんと由利ちゃんに頭を下げた。
「ごめんなさい。じゃあ、お言葉に甘えて……」
「よしてよ。そんなことをしている暇があったら、早く帰りなさい!」
また、由利ちゃんに怒られちゃった。
でも、暖かい言葉。由利ちゃんは、本当に優しい。
吉田くんにもお礼をと思って振り返ると、彼は怒涛の速さでキーボードに入力していた。
……凄い。アステリアにも、パソコンがあるのかな……。
そして、たんっ!とエンターキーを押し、プリンターに向かい、一枚の紙を由利ちゃんに渡した。
「今日の報告書。悪い、課長に渡しておいてくれ」
由利ちゃんはそれを受け取り、ふんと鼻を鳴らして口元を曲げて笑った。
悪役みたいな笑みだけど、でも美人の由利ちゃんがやると、それがまた様になる。
「さすがね、吉田くん。仕事が速いわ」
由利ちゃんが珍しく、男の人を褒めた。
わたしが驚いていると、吉田くんはわたしの腕を取って立ち上がらせた。
「じゃあ、お先に。後、よろしく」
そう言うや、ひらひらと手を振る由利ちゃんを置いて、さっさと歩き始めた。
わたしの腕は、吉田くんが掴んだまま。
「えと、あの、わたし、一人で帰れるよ?」
そのわたしの言葉に、吉田くんは困ったような、さっきのと同じ笑みを浮かべたけれど、返事はない。
会社を出るまで、ずっと彼は、わたしを引っ張って歩いていた。
吉田くんに、また迷惑を掛けてしまった。
わたしは、何て役立たずなんだろう……。
ずーんと落ち込んでいったわたし。
歩く足取りも、重たくて。ただ、引っ張られるままに前を進んでいた。
すると、ふと足が止まる。
顔を上げると、目の前に吉田くんのスーツが見えた。
「え……?」
力なく、顔を上げたわたしを見下ろしていた吉田くんのその表情は、限りなく切なそうで、眼差しは熱く、わたしを見つめていて……。
「ごめんな、彩花……」
そう呟くや、わたしの頭部を抱きしめた。
道端で。人通りが多い、この場所で。
わたしは顔を真っ赤にしてしまっていただろう。
どうしたの、急に!
慌てふためいて、わたしがじたばたともがいていると、やっと吉田くんはわたしを離してくれた。
「早く、家に帰ろう。横にならないと」
そう言って、吉田くんは再びわたしの手を握り……今度は腕じゃなく、手を繋がれてしまった……歩き出した。
時折、わたしを見下ろしては、「熱いな……」と独り言のように言い、だけど足を早めることなく、のろのろと歩くわたしに合わせて、歩いてくれた。
電車に乗り、やっと家に着いたのはもう夕方だった。
共働きのお父さんとお母さんは、まだ帰ってきていない。
吉田くんは、わたしを部屋へと追いやると、キッチンへと入っていってしまった。
わたしはふらつく頭を抑え、自分の部屋へ入った。
途中、ポメラニアンのポワンが足元に纏わりつくから、抱きかかえて一緒に部屋に。
スーツを脱ぎ捨て、パジャマを着てベッドに入った。
ポワンも、わたしの横に当然のように寝そべっている。
「心配かけて、ごめんね」
そう微笑んで、ポワンの身体を撫でると。
彼女は、いつものように目を細めて気持ちよさ気にする仕草じゃなくて。
大きな茶色い瞳を、ただじっとわたしに向けていた。
本当に、心配してくれているみたい。
わたしはくすりと笑って、「大丈夫だよ」と言いながら、ポワンを抱きしめた。
目を閉じると、何だか段々眠くなってきた。
今日も、色んなことがあったし。
最近、アステリアのことで、驚くような話を聞いてばかりだし。
少し、疲れているのかな……?
底なし沼に引き込まれるように、わたしは眠りの世界へと落ちていった。
その途中、わたしの額に、何かふわりとした冷たいものが当たったのに気付いた。
目を開けたい。
でも、開かない。
しばらく額に当たっていたそれは、わたしの瞼、頬、そして唇のぎりぎり横にも触れてきた。
何……?
目を開けようとしたけれど、開かないの。どうして?
そのふわりとしたものが、突然わたしから離れた。
少しだけ、寂しい気がした……。
そうしたら、今度は冷たい冷たいものが、わたしの額を覆った。
それが気持ちよくて。
わたしは眠りの世界へと、完全に落ちていった。




