第2話 日常の中の不協和音
朝起きたら、すでにわたし以外の家族は起きていて。
吉田くんは、当然のようにお母さんの手伝いをしていた。
その時に口ずさんでいた鼻歌が、いつもは新聞を読んでいるお父さんを動かした。
「……その歌、いい選択だ」
「ですよね。最高ですよね、この曲」
吉田くんは、嬉しそうに笑ってお父さんの前にコーヒーを差し出した。
ウェイターみたい……。
お父さんは、……あり得ない。読んでいた新聞を畳んで、吉田くんに席を指し示した。
「その曲は、2001年3月28日に発売された、吉田拓郎のアルバム『こんにちは』収録の、『消えていくもの』だね?」
「ええ、さすがです、お父さん」
吉田くん!あなたのお父さんじゃないし!
……ていうか、本当はわたしのお父さんでもないの……?
わたしの本当の名前は、レーリア・チュニス・エルハラード・アステリア。そういうらしい。
舌を噛みそう。
目の前の吉田くんも、まるっきり日本人みたいなくせに、本当の名前は、ラナディート・エルハラード。
これくらいの長さなら、何とか覚えられる。
わたしの本当のお父さんや、お兄ちゃん達に至っては、急いで覚える必要もないだろうしと諦めた。
わたしはぼんやりとしたまま、テーブルについた。
すると、お父さんとひとしきり「吉田拓郎談義」をしていた吉田くんが、笑顔と共にわたしにもコーヒーを差し出してくれた。
「はい、彩花にはミルク多めでね」
……朝から、吉田くんの全開スマイルはきつい。
かっこよすぎる。
お父さんから、新聞を受け取り、大雑把に流し見るのその切れ長な眼差し。
それに、コーヒーカップを握る綺麗な指先。
口元なんか、今は常に微笑みを浮かべていて。
これが職場に着くと、真一文字に引き締まるんだけど……
そして、艶やかな黒い髪は、彼の端正な顔を包み込んで。
どこをどうとっても、素晴らしいいい男そのものだった。
この人が、アステリアとかいうところから、わたしを救いに来たという。
信じろという方が無理だけど、でもあの牛鳥を見たらなあ……
考え込み、トリップしている間に、わたしは一応ちゃんと着替えていたようで。
気付いたら、吉田くんと肩を並べて歩いていた。
「ねえ、吉田くん」
そう声を掛けると、吉田くんは少しだけ寂しそうに微笑を浮かべた。
「やっぱり、その名前の方が呼びやすい?」
「呼びやすいよ。やだ、ラディなんて」
「じゃあ、仕事が終わって、彩花の部屋に戻ったら呼んでくれる?」
何で甘えん坊モードなの!
でも、捨てられた子犬のような眼差しの吉田くんには、わたしは絶対適わない……この間、ちゃんと悟ってしまった。
「……分かったよ。家に帰って、他の人がいなかったら、そう呼んであげるよ」
「本当?楽しみだな」
そう笑う吉田くんに、通り過ぎる同じ会社の社員達が、次々と声を掛ける。
ああ、また始まった。
吉田くんに、合コンの誘いをする男女。
昼食を誘う女子社員。
そしてわたしに向ける、数々の女性の嫉妬の眼差し。
……そりゃそうだろうな。
これだけいい男だもん。
今は、とっても無愛想な人に変身してしまったけれど。
吉田くんの笑顔は、わたしとわたしの両親にしか向けられない。
分かる。女性社員の皆の気持ち、分かるよ。
でも、わたしが望んだことじゃない。
というか、むしろ男が隣にいるだけで、わたしは怖くて仕方が無い。
どれだけ話した吉田くんも、実は少しまだ怖い。
どうしてか分からないけど……でも、怖いのは仕方ない……。
すると突然、背後から何かが突撃してきた。
咳き込んで、慌てて振り返ると、由利ちゃんだ。わたしの背中にへばりつき、美しい化粧を施した顔に、笑みを浮かべてる。
「おはよ、彩花!背中が辛気臭いよ」
なんて失礼な。辛気臭いだなんて。
でも由利ちゃんは、わたしに手を離すと、少し表情を改めた。
「ねえ、彩花。少し吉田くんを借りてもいい?」
貸すもなにも、吉田くんはわたしの所有物じゃないし。
返事のしようもなくて困っているわたしの前で、戸惑う吉田くんの腕を捕まえて、由利ちゃんはさっさと会社に向かってしまった。
あの超絶美形の吉田くんに、臆することの無い由利ちゃん。やっぱ凄い。
わたしは一つ肩を竦めて、吉田くんが隣にいないことで、周りのきつい視線を感じることのないままに居室へ向かった。
しばらく経って、吉田くんが首に手を当てて、机へ戻ってきた。
彼のデスクは、相変わらずわたしの隣。
家でも会社でも一緒なんて……うっとおしいけど、彼にしてみたら、わたしを護るためだそうだから。
そんな危険なんて、この会社内ではないと思うけど……。
吉田くんは、深くため息をつくと、わたしに顔を寄せて囁いた。
「宮下さんに、怒られた」
「え、由利ちゃんが?」
わたしが驚いて目を見開くと、吉田くんは頷いて苦笑した。
「彩花を手離したくないのなら、会社では藤森さんで通せって。そして、他の社員にも愛想よくしろってさ」
「……どうして?」
「俺に対する感情が、やがて彩花に対して敵意に変わるからだそうだ。凄いな、宮下さんは。あの弾丸トークは、さすが営業トップなだけあるな」
へんなところで吉田くんは関心して、切れ長の綺麗な目を細めた。
「俺が上手く記憶を操作したまではよかったけど。まさかこんなに俺が注目を浴びるとは。計算外だった」
「じゃあ、もっと格好悪く変身すればよかったのに」
そう何気なく言ったわたしに、吉田くんは驚いたように目を見開いた。
「俺は、変身なんてしてないよ?」
「そうなの?」
正直、どっちでもいいんだけど。わたしは、その綺麗な顔が、吉田くん本人のものかどうかなんて。
でも、吉田くんは少し傷ついたような表情を浮かべた。……やめてよ、わたしが悪いことを言ったみたい。
「髪と瞳の色を変えただけだ。彩花……いや。藤森さんには、気に入らない外見だったかな……」
しょぼくれている吉田くんは、きっと他の女性社員からは母性本能をくすぐってしまうほど、可愛らしく映るだろう。
だけど、わたしには……。
「わたしに対して、他の人が敵意を燃やさないような魔法を掛けてくれればいいのに」
そう呟くと、吉田くんは小首を傾げてわたしを見つめ、そして首を振った。
「残念ながら、魔法で感情はコントロール出来ないよ」
わたしはその言葉に驚いて、吉田くんを正面から見てしまった。
……なんでその瞬間、嬉しそうな顔をするかな、吉田くん……。
でも、吉田くんはわたしの眼差しが先を求めていることに気付き、声を潜めながらも教えてくれた。
「俺がしてきたのは、記憶の操作。俺が今までも、ここにいたという記憶を植えつけた。出来るのは、そこまでだ。人間の感情をコントロールするのは、神の領域だからね」
「そうなんだ、へえ……」
「そしてね、自分よりも強い魔力を持つものには、魔法は使えない。だから俺は藤森さんには、魔法を掛けられない」
そうか。わたしはレーリアとかいう、祝福の女神だからね。
そこは理解している。
今は全然魔法なんて使えないけど、本当はアステリア一の魔力の持ち主らしいのだ、わたしは。
「封印してしまった力が戻るまでは、俺が傍にいて、きみを護るから。……約束だから」
やくそく……?
わたしが首を傾げた瞬間、始業のチャイムがなり、話はそこまでになってしまった。
続きは、絶対夜にでも聞こう。気になって仕方が無い。
その後、由利ちゃんの助言を受け入れた吉田くんは、今までと打って変わって他の人にも溶け込むように努力をしていた。すごい努力してるみたい。
額に、汗が滲んでるし。
昼休み中、頑張っていた吉田くんが机に戻ってきたら、わたしは何だか可哀想になってしまって。
吉田くんの頭を撫でてしまった。
ぐったりと机にうつ伏せていた吉田くんは、びくりと体を反応させた。
わたしはそれに気付き、自分でやってる行為にも気付き。
「ごめん……!」
手を引こうをしたんだけど。
わたしの手を、吉田くんはがっちりと掴み、逃がさなかった。
「嬉しい、もう少し……」
……嬉しいんだ。
すごい、意識すると恥ずかしいんだけど。
でも、吉田くんに結界を張ってもらうように頼むわけにもいかないし。凄く疲れそうだもんね、あれ。
周囲を慌てて見渡したけれど、幸いなことに誰もこちらを見ていない。
それに、気付いてしまった。
わたしの手を握った吉田くんの大きな手。
少し、震えている……。
まるで、わたしに「逃げないで、そばにいて」と言っているかのように。
仕方なく、そっと再び吉田くんの、サラサラとした髪を撫でた。
猫のように、気持ちよさそうに目を細める吉田くん。
細く開いた瞳は、じっとわたしを見つめてる。
「……藤森さん……レーリアが、俺の傍にいる。これだけで、こんなに嬉しいなんてな……」
そう呟くと、吉田くんはくすくすと笑って、撫でていない方のわたしの手を握り締めた。
机の下で、こっそりと。
きっとわたしは、顔を真っ赤にしてしまっていただろう。
髪を撫でていた手も止まってしまった。
「……日まで、きみを絶対護ってみせる。その後も。ずっと……」
呟いた、吉田くんの言葉はくぐもっていて、よく聞こえなかった。
何の日までなの?
『その後も』って言ってくれたけど、その前の言葉が気になって仕方が無い。
全身で、愛情を示してくれるこの人に、応えてあげられる日が来るのだろうか……。




