第3話 愛犬の隠された秘密と、おかゆの味
目が覚めたとき、吉田くんはいなかった。
よかった……。
ほっと息を付いた瞬間、部屋の扉がノックされた。
心臓が、高鳴る。
「どうぞ……?」
恐る恐る声を掛けると、現れたのは、トレーナーにジーンズ姿の吉田くんだった。
長い足に、ジーンズがよく似合うけど……
今は、まともに顔が見れない。
わたしに起きた、あの出来事。
吉田くんと……いや、あの場合はラディって言った方がいいのかな。
ラディと、キスをしてしまった現実を、わたしは覚えていた。記憶がなくなってしまわなかった。
悶々としているわたしをよそに、吉田くんは素晴らしい笑顔で、手にしていた湯気の立つものをわたしの膝の上に置いた。
ベッドにいるままのわたしの上には、トレーに載せた暖かそうなおかゆ。
「まだ、食欲ないだろうけど。でも、ずっと寝っぱなしだったんだ。少しでも食べて?」
吉田くんは、そう言ってわたしの額に手を伸ばした。
やだ。
間近にある、吉田くんの切れ長の瞳。
今は、漆黒に戻っているけど、さっきまで……眠りにつく前までは、沖縄の海のように澄んだ蒼で、それは綺麗で……。
でも、今は吸い込まれるような、真っ黒な瞳が、わたしを見つめている。
……もう、怖くない。
だけど……恥ずかしい。
吉田くんは、わたしから手を離すと、にっこりと微笑んだ。
その笑顔も、今は苦しい……。
「良かった、熱も大分下がったみたいだ。ポワン、こっちにおいで」
吉田くんの声に、わたしにずっと寄り添っていたポワンがベッドから降り、彼に抱かれた。
「ポワンには、下で食事を用意してあるよ。彩花、一人の方が食べやすいだろう?」
「あ……うん……」
「じゃあ、時間を見計らって、また来るから。ゆっくり食べていて。口に合うといいけど」
「え、吉田くんが作ってくれたの?」
驚いてわたしが言うと、吉田くんは悪戯っぽい笑みに変えた。
それもまた、堪らなく胸を締め付けてしまう。
「味の保障は出来ないけど。ああ、分かったよポワン。じゃあね、彩花」
吉田くんは、そう言って部屋を出て行ってしまった。
一人ぼっちになってしまった、わたしの部屋の中。
今まで、それが当たり前だったのに。
吉田くんが、わたしの前に現れてから、何度となくこの部屋に来るものだから、彼がいないと何だか変な気がする……。
わたしは首を振り、レンゲを一さじ口にした。
柔らかく煮込んだおかゆ。
暖かい。
それに……美味しい。
受け入れてあげられなくて、ごめんね、吉田くん。
辛いよね。
異世界まで護りに来るほど、きっとレーリアのことが好きで好きで堪らないはずなのに。
その本人が、これだもん。
やになって、嫌いになっちゃうかもしれないな……
そう思うと、わたしは何だか切なくて、悲しくて。
記憶が戻れば、吉田くんは嬉しいよね。
でも、わたしは今の彩花としての生活も大事なの。
お父さん、お母さん、ポワン、由利ちゃん、会社のみんな……
それを捨てる勇気なんか、ない。
ごめんね、吉田くん。
わたし、レーリアには敵わない。
わたし、レーリアに戻る勇気がまだない。
何だか泣けてきてしまった。
「食べ終わった?」
一時間くらい経って、吉田くんがまた部屋に来てくれた。
「うん、美味しかった。ご馳走様」
おかゆは、本当に美味しくて。完食してしまった。
カラッポになったお碗を見て、吉田くんは嬉しそうに笑った。
「良かった。じゃあ、下げてくるから」
そう言って部屋を出ようとした吉田くんに、わたしは声を掛けてしまった。
「待って、もう少し、いて」
何でかな。一人になりたくなかった。
吉田くんは、不思議そうにわたしを見ていたけれど、でも数歩わたしに近づいた。
……うん、怖くない。大丈夫。
しばらくわたしを見ていた彼の手が、ぽんぽんとわたしの頭を撫でた。
「すぐに戻るから。待っていて?」
……子供みたいなことを言ってしまったのかな。
わがままだったかな。
急に恥ずかしくなって、わたしは吉田くんが戻ってくるまで、布団を被ってしまっていた。
吉田くんは、その後すぐに戻ってきてくれて。
手には、ホットミルクがあった。
それをわたしに渡し、そして机の椅子に腰掛けた。
わたしはマグカップを受け取ったまま、押し黙ってしまっていた。
だって、何を話せばいいか分からない。
ただ、一人になりたくなかった。
吉田くんは何も言わないで、ポワンを抱き上げてその身体を撫でていた。
気まずい、沈黙。
ふと、わたしの脳裏によぎったことを言葉に出してみた。
「ねえ、昼間、あの牛鳥に言ってた言葉なんだけど」
「ああ、ティリシアの?」
「そう。誰に操られてるんだって聞いてたでしょ?ティリシア人じゃないの、あの牛鳥」
そうそう。それが気になっていたんだった。
吉田くんは、ポワンを撫でながら頷いた。
「あいつは、使い魔だよ。多分高度な魔力を持つティリシアの者の使い魔だ」
「使い魔……」
そういえば、吉田くん、戦っているときに言ってたっけ。
『ティリシアの使い魔! お前を操っているのは誰だ!』
使い魔の牛鳥が、更にあのゾンビもどきを操ってたのか。
確かに、そのボスは強い人なのかも。
「それに、今日はっきり分かった。多分、他の国はまだ、レーリアがこの地にいることに気付いてないな」
わたしが首を傾げると、吉田くんはポワンを下ろして、立ち上がり、わたしのベッドに腰掛けた。
近い……。
「それぞれの国で、使い魔の形が異なるんだ。まだ、あの、彩花が言う牛鳥しか見ていない。他の国は、気付いていない……幸いなことだな」
「それぞれの国……じゃあ、アステリアのは?」
やだなあ、気持ち悪いのだったら。
そう思ったわたしに、吉田くんは可笑しそうに笑った。
「いるよ、傍に」
え……?
「限りなく、形は変えているけれどね。でも、彩花の傍に、ずっといるよ? レーリアの使い魔は」
きっと、きょとんとしていただろうわたしに、吉田くんはポワンをひょいと持ち上げて、わたしに差し出した。
ポワン……?
「えええーーーーー!?」
わたしが盛大に叫び声をあげると、膝のポワンはすっくと立ち上がった。
ええ、立ち上がったのです。どういうことー!?
そして、左手……手なのかな、犬って。で、頭をガシガシとかき始めた。
「全くラディ! アタシの正体をバラすのは、レーリア様の記憶が戻ってからの約束でしょう!?」
話してる……ポワンが……嘘だ……。
「ごめんごめん、話の流れで」
「せっかく今まで、そっと影から見守ってきたっていうのに! アタシの計画していた、感動的な再会がオジャンじゃないの! ああ、レーリア様……じゃなく、彩花様のほうが今はよろしいわね? アタシは、レーリア様が生まれてから、ずっとお傍に着かせていただいている使い魔のポワンですのよ。ポメラニアンの形に変えてくださったのはレーリア様なんですけど、全くこの姿、夏は暑いし冬も暑いし蚤はつくしで、どうにもなりませんのよ。あ、失礼。愚痴を言うつもりは無かったんですけどね。それにしても彩花様、男性を簡単に部屋へあげるのは余りいいことではありませんわ。ラディだって一応男性なんだし、第一さっきだって、彩花様の隙を狙って唇を奪ったりして。最低ですわね、この男は」
げっ、く、唇を、奪うって……。
ああ、やっぱりあれは夢じゃなかった。しかも、ポワンに見られていた。
恥ずかしくて逃げ出したい思いでいっぱいだけれど、でも。けれどもそれよりも、驚きのほうが、上回っていて。
……弾丸トーク……。由利ちゃんといい勝負だな……。
わたしはぽかんとして、胸を逸らせて張り切って喋りたてまくるポワンを眺めていた。
「彩花、大丈夫?」
笑いを堪えた吉田くんの声に、わたしははっと我に返った。
えっと……えっと……。
「ポワン……?」
とりあえず、声を掛けてみた。
ポワンは嬉しそうにわたしを見上げ、そして首を傾げて笑った。……そう、笑ったのよ、犬が。
「何でしょう、彩花様?」
……もう、どうでもいいや。
全ての疑問が、何だか吹き飛んでしまった。
そしたら、とっても可笑しくなってしまって。
「……ぷっ……ふふふ……あはははは!!」
わたしはお腹を抱えて笑い出してしまった。
一度笑いのスイッチが入ると、もうどうにも止まらない。
涙を流して、ベッドをバンバン叩いて笑ってしまった。
涙を浮かべた目の端で、吉田くんとポワンが驚いて顔を見合わせるが見えたけど。
でも、もう笑うしかないのよ。
だって、今までずっと、普通の女の子として生きてきたわたしに突きつけられた現実。
笑い飛ばさないと、精神が持たない。
ひとしきり笑って、わたしは笑い疲れてそのまま眠った。
次の日に、わたしがどんなに精神的ダメージを受ける事実が待ち受けているか、知らずに。
その夜、すっかりと熱が下がったわたしが見た夢は、吉田くんとお父さんが、二人で吉田拓郎のライブに行ってる夢だった。
こんな平和な毎日だったらいいのになと、夢なのに、ぼんやりとわたしは考えていた。
ついに解かれた封印、重なる唇。
だが、幸せな時間は長くは続かなかった。
背後に忍び寄る、最悪の裏切り。
信頼していた「彼女」が浮かべたのは、美しくも残酷な微笑だった。
狂い出す組曲。
運命の歯車は、容赦なく二人を巻き込んでいく。
――次回、新章「裏切りの狂想曲」開幕。
第1話「救いの手、裏切りの微笑」へ続きます。




