第1話 運命の旋律、偽りの日常
歩きなれた幹線道路の向こう側。
想像を絶する悲鳴が鳴り響く。
その声が広まり、わたしに近づいてくる。
耳元で、ぐちゃり、と肉を削ぐ不快な音がした。
目の前にいるのは、私の知っている「生き物」じゃない。牛の巨躯に鳥の頭を持つ怪物。そして、その影から這い出してくる、腐敗臭を放つゾンビの群れ。
「……い、いや……」
腰が抜けて動けないわたしを庇うように、立つ背中。
紺色のスーツを纏った彼は、私だけが『知らない』男の人。
その彼が、銀色に輝く、一振りの剣を構えて、わずかに私に振り返る。
柔らかく、微笑んで。
「安心して。きみは俺が護るから」
その時の私は、まだ自分が「何者」であるかを知らなかった。
ただ、目の前に起きた「現実」が、ひどく、恐ろしかった。
この瞬間、わたしの運命の扉が開いたことに、まだ気づかなかった。
序章
第1話 見知らぬパートナー
「……っ!」
跳ね起きると、そこはいつもの自室だった。
指先がかすかに震えている。今のは、夢?
頬を伝う汗を拭い、荒い呼吸を整える。
窓の外からは、いつもの幹線道路を走る車の音が聞こえていた。
牛の怪物も、銀の剣を振るう男も、どこにもいない。
「彩花ー、起きたの?」
母の呼ぶ声が、私を現実へと引き戻してくれた。
眩しい朝日が、薄い色のカーテンから差し込んで、わたしの瞼を刺激する。
「うう……」
朝は、苦手。夜、早く寝ても、どうしてもすっきりと目覚められない。
だからかな、たまに今日みたいなおかしな夢をみることがある。
でも、早く起きなくちゃ。
今日は早朝会議があったはず。
「彩花ー、彩花ー?起きたの?」
ああ、お母さんの声。
私はのっそりと起き上がり、ベットの上で伸びをした。
私の名前は、藤森彩花。今月で24歳になる。彼氏いない暦を、ずっと更新中。
ルックスは、友達がいうにはそんなに悪くは無いそうだ。ただ、いいとも言ってくれないので、まあ在り来たりなんだろうな……。
でも、彼氏なんて欲しいと思わない。
むしろ、いらない。
実はわたし、少しだけ男の人が苦手……。年下だと結構平気なんだけど、男性と認識すると、全然駄目。
まず、緊張してしまって、まともに会話なんて出来ない。
だから、仕事でもなるべく女性と組ませてもらってる。
「はぁーい、起きたよ!支度して、すぐ降りるから!」
わたしは大声で返事をし、立ち上がってカーテンを開けた。
うん、いい天気。
今年初めての、営業会議。頑張ろう!
わたしの家族は、目の前で新聞を読みながら、パンをかじっているお父さん。
それを怒っているお母さん。
それに、わたしの足元でじゃれついている、ポメラニアンのポワン。
みんな仕事をしているから、ポワンはいつもお留守番で、ちょっと可哀想。
「週末に、散歩に連れて行ってあげるからね。それまで、我慢してね」
そう言ってわたしがポワンを一つ撫でると、甘えるように擦り寄ってくる。
わたしはロールパンを一つ口に放り込み、慌しくジャケットと鞄を手に取った。
「行ってきまーす!」
ローヒールのパンプスをつっかけて、走る準備。
やばいやばい、遅刻しちゃう!
何とかいつもよりも1本早い電車に飛び乗った。
よかった、間に合いそう。
わたしの職場は、駅で3つ目の大きな自社ビルを持つ文房具メーカー。
文房具だけではなくて、オフィス用品をだいたいほとんど取り扱っている。
わたしはそこの、営業をしている。
会社に入り、入社証を守衛さんに見せていると、後ろからばん!と背中を叩かれた。
思わず驚いて、咳き込んでしまう。
「おはよ、彩花!髪の毛跳ねてるよ。ドライヤーかけて来なかったんでしょ?」
朝から元気な声を上げるのは、今のわたしのパートナー、宮下由利ちゃん。
わたしよりも一つ年上の先輩だけど、すごく仲良くしてくれている。
「おはよう、由利ちゃん。今日も完璧だね……」
美人の部類に確実に入る由利ちゃんは、メイクもファッションも手を抜かない。
見た目は大人しそうな美人なのに、喋るとね……。
「あったりまえでしょ!せっかく女に生まれたんだから。オシャレしたいのは当然。でも男のためじゃないよ? 何で男のためになんか。もったいない」
わたしはそこまで言ってないのに。畳み掛ける由利ちゃんに苦笑して、二人でオフィスに入っていった。
「おはようございます、宮下さん」
「おはよう、由利ちゃん」
そう次々と男性社員に声を掛けられる由利ちゃんは、面倒臭そうに手をあげて答えている。
美人な由利ちゃん、もてもてなのに、どうも会社の男の人には興味ないらしい。
人を顔で判断するような、軽薄な男は好きじゃないんだって。
「だから、人の本質で勝負が出来る営業を選んだんだよ、わたしは。彩花も男を選ぶなら、顔じゃなくて中身で選びなさいよ」
由利ちゃんは、いつもわたしにそう言ってくれるけど……。
わたしはそもそも、男の人自体に興味がないんだけどな。
というか、怖い。
由利ちゃんに話しかける男の人が近付いてくるだけでも、ちょっと怖くて怯えてしまう。
何でこんなに男の人が苦手なのか、自分でもよく分からない。
トラウマがあったわけでもないのにな……。
さほど広くない、わたしの職場、営業一課のわたしの机の周辺に、人だかりが出来ている。
「何だろう?」
わたしが由利ちゃんに振り返った瞬間。
ぱちん、と何かが弾ける音がした。
静電気のような、何かが小さく破裂するような。
わたしの耳元で鳴ったその音に、ぞわりと一瞬鳥肌が立つ。
そして、それは恐らく隣の由利ちゃんも同じだったようだ。
「由利ちゃん……?」
虚空を見つめるように呆然としていた由利ちゃんは、わたしの声にはっと意識を戻し、可笑しそうに笑った。
「何言ってるの、いつもの朝の光景じゃない。吉田くん目当ての女の子達でしょ」
吉田くん……?誰、それ。
わたしは首を傾げながら、自分の席に着くと、再びぱちん、と音がした。
何だろう。静電気……?
すると、波を引いたかのように、側にたくさんいた女の子達が去っていく。
「じゃあね、吉田くん」
「今度は絶対付き合ってね」
「またお昼休みにね」
そう口々に言いながら。
わたしはその、吉田くんとやらに目を向けた。
わたしの隣の席は、無人だったのに。
そこに、背の高い、すらっとした男の人が座ってる。
少し長めの黒髪は、濡れた烏の羽のように艶やかで。
無表情でパソコンを操作している目は、切れ長で、ちょっとだけ冷たそう。
ふと彼は、わたしに目を向けて、にっこりと笑った。
……あまり見たことないような、すごいかっこいい男の人だった。
「おはよう、藤森さん」
低い、耳に心地いい声。
何でこの人、わたしのことを知ってるの?
「あの……新入社員の方ですか?」
恐る恐る尋ねると、微笑を浮かべた彼じゃなく、わたしの背後にいた由利ちゃんが、再びばーん!とわたしの背中を叩いた。
「何言ってるの!吉田くんは、あんたのチームパートナーじゃないの!」
「……へ?」
何とも間抜けな返事をしてしまったわたしに、かっこいい男の人はくすくすと笑った。
「藤森さん、朝弱いって言ってたから。寝ぼけているのかな。もうすぐ会議始まるから、それまでには目覚めておいた方がいいよ」
朝……弱いけど。
でも、そんな。
パートナーを忘れてしまうほど、激しくボケてなんてない!
わたしから目を離し、ええと、吉田くんは再びパソコンをかちゃかちゃと操作し始めた。
その彼に、何人もの同僚達が声を掛けるけれど、彼は無愛想にうなずくだけ。
そんな彼を信じられない
「吉田くん、本当に彩花にしか笑顔を見せないね。愛されてるじゃないのー」
「はい……?」
「だって、付き合ってるんでしょ?」
当然のように聞く、由利ちゃんに、わたしは盛大に目を見開いた。
どうして!初対面の人とわたしが、付き合ってることになってるの!!
わたしは由利ちゃんの手を取って、居室の端に引きずった。
「ねえ、正直に答えて。あの人、いつからここにいるの?」
由利ちゃんは、きょとんとしている。
「いつって……わたしと同期だから、3年前からだけど?」
「うそ……」
「嘘言ってどうすんの。ねえ、彩花、大丈夫?」
「待って待って、あの吉田くんて、フルネーム何ていうの?」
「吉田拓哉。ちょっと本当に、変だよ?」
3年前から、この会社にいるという吉田拓哉……
知らない……やっぱり分からない。
由利ちゃんは、他の人に呼ばれてわたしの肩を一つ叩き、そっちに行ってしまった。
わたしは、自分の席に戻ったけれど。
何だか信じられないものを見るかのように、吉田くんの横顔を見つめてしまった。
じっと食い入るように、その端正な顔を見ていると、吉田くんはわたしの視線に気づいて顔をこちらに向けた。
どきっとする。
だって他の人には、冷たい眼差しのままなのに。
吉田くんは今、目を細めて微笑んでる。
少し艶っぽいその眼差しに、私の鼓動が大きく跳ねた。
このドキドキが、吉田くんが怖いのか、彼の眼差しが、まるで吸い込まれるように優しさが含んでいるからなのか、私には分からなかった。
「もう少しで、プレゼン用の資料できるから。会議、頑張ろうな?」
「……うん……」
返事、出来ていただろうか。
返事、これで合っているのだろうか?
この不可思議な出会いが、どこか遠くの出来事のように感じながら、私は自分自身の意識を保つのに精いっぱいだった。
ただ、---そう、何故か。
吉田くんのキーボードを踊る指先を見つめたら、何故か今朝の夢が、脳裏を過っていくのを感じていた。




