一生君に飼い殺されたい
その日、山頂の都を囲む結界が、ほんのわずかな「揺らぎ」を見せた。
アキがシキのために焼く特製タルトの「完璧な焼き色」に集中しすぎていた、コンマ一秒の隙。
そこへ滑り込んできたのは、下界で『聖者』と称えられ、苦しむ人々を救うことを至上命題とする若き騎士、レオンだった。彼は伝説の龍に囚われた少年の噂を聞きつけ、幾多の困難を乗り越え、ついに工房のテラスへと辿り着いたのだ。
「……見つけたぞ。あぁ、なんてことだ。こんな禍々しい魔力の檻の中に……!」
レオンの視線の先。
そこには、純白の毛布に埋もれ、アキの尻尾を膝の上に乗せてのんびりと本を読むシキの姿があった。
「君! 大丈夫か!? 今助けてやる!」
レオンが叫び、聖剣を抜いてテラスのガラスを叩き割る。
ガシャアアン! と派手な音が工房に響き渡った。
シキは驚いて顔を上げたが、その表情にあるのは「救済への期待」ではなく、ただの「戸惑い」だった。
「えっ……誰? 泥棒……? アキ、アキ! 誰か来たよ!」
シキが慌ててアキを呼ぶ。その声に、工房の奥から一瞬で温度を奪うような冷気が溢れ出した。
黒いローブを翻し、黄金の瞳を殺意に染めたアキが、シキを背後に隠すようにして現れる。
「……何。私の工房に、許可なく土足で入ってきたゴミは」
アキの指先がわずかに動くだけで、周囲の空間がミシミシと軋む。
だが、聖者レオンは怯まなかった。彼はシキを見て、悲痛な声を上げる。
「龍よ! この少年を解放しろ! 彼の瞳を見ろ、完全に毒され、自分の意思を失っているではないか! 君、怖がらなくていい。この怪物を私が食い止めている間に、早く逃げるんだ!」
レオンはシキに向かって、必死に手を差し伸べた。
それに対し、シキはアキの服の裾をぎゅっと掴み、困惑した顔でレオンを見つめ返す。
「え、怪物……? 逃げるって、どこに?」
「どこにって……下界だ! 家族や友人がいる、自由な世界だよ!」
レオンの言葉に、シキは不思議そうに小首を傾げた。
「自由……。でも、下界は歩くと足が疲れるし、冬は寒いし、食べ物だってアキが作ってくれるものより美味しくないよ。それに、アキがいないと夜眠れないし……」
「それは洗脳だ! 依存させられているだけなんだ!」
レオンの絶叫に、アキが低く、愉悦を孕んだ笑い声を漏らす。
彼女はシキの腰に腕を回し、見せつけるようにその頬を自分の胸元へ引き寄せた。
「聞いた? ゴミ。……シキは、ここが一番いいって言ってるの。お前の言う『自由』なんて、シキにとっては不便で不快なノイズでしかないんだよ」
「違う! 君、騙されるな! 彼女は君を愛しているんじゃない、ただの所有物として管理しているだけだ! 彼女の瞳を見てみろ、それは愛する者の目じゃない、獲物を逃さない捕食者の目だ!」
レオンの指摘は、客観的に見れば100%正しかった。
アキの瞳にあるのは、慈愛などではなく、どろどろに溶けた執着と支配欲だ。
しかし、シキはその瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ふわりと微笑んだ。
「……知ってるよ。アキの愛が、すごく重くて、独り占めしたくてたまらないものだってことくらい。でも、僕はそれがいいんだ。世界中でアキだけが、僕の指先一本まで、僕より詳しく管理してくれる。それって、最高の愛じゃないの?」
「…………は?」
レオンの思考が停止する。
シキはさらに、無自覚な重い愛を言葉にした。
「君の言う自由って、誰も僕を縛ってくれない、誰も僕を独り占めしてくれないってことでしょう? そんなの、寂しくて耐えられないよ。僕は、アキの檻の中で、アキにだけ愛されて死にたいんだ」
シキのその言葉に、アキがゾクッとしたように肩を震わせる。
彼女の独占欲に、シキの無自覚な依存が最高の栄養を与えてしまった。
「……あぁ、シキ。……本当に、お前って子は」
アキはレオンのことなどもう忘れたかのように、シキを強く、骨が鳴るほど抱きしめた。
そして、ようやくゴミを見るような視線をレオンに戻す。
「……満足した? 聖者様。……シキの脳内に、お前の薄っぺらな『常識』を植え付けようとした罪。万死に値するけど……今日はシキの機嫌がいいから、掃除だけで済ませてあげる」
アキが指をパチンと鳴らす。
次の瞬間、レオンの体は目にも止まらぬ速さでテラスの外へと弾き飛ばされ、山頂から雲の下へと真っ逆さまに落ちていった。もちろん、死なない程度の防護魔法は(シキへの体面のために)かけてあるが、二度と登ってこれないような恐怖の呪いを添えて。
静寂が戻った工房で、シキが割れたガラスを見つめて呟く。
「……アキ、ガラス割れちゃったね。寒くなっちゃうかな」
「大丈夫。今すぐ直すし、お前が寒いなら、私がずっと抱いていてあげる。……ねえ、シキ」
アキはシキの耳元に唇を寄せ、熱い吐息と共に囁いた。
「さっきの言葉……もう一度言って。……誰に、どうされて死にたいんだっけ?」
シキは恥ずかしそうに、けれど逃げることなく、アキの首に腕を回した。
「アキの腕の中で、アキにだけ愛されて、一生飼い殺されたい……だよ」
アキの黄金の瞳が、歓喜で獣のように光り輝く。
下界の「普通の愛」が入り込む隙間など、この工房には一ミクロンも残っていなかった。
正直章を分ける必要なかったかもしれんと悩む今日この頃です。




