世界一過保護な散歩道
結婚から数年が経った。
山頂の工房での生活は、相変わらず甘く、そして周囲が呆れるほどに過保護なままだった。
ある日の午後、アキはいつものように、シキを膝の上に乗せて髪を梳いていた。
アキの手つきは年々熟練し、シキはもはや彼女の手が触れるだけで、思考がとろけるような心地よさに浸るのが常となっている。
「……ねえ、アキ」
「何。……お腹空いた? それとも、眠い?」
アキはシキの首筋に顔を寄せ、その脈動を確かめながら問う。彼女にとって、シキのわずかな不調も見逃さないことは、もはや本能に近い。
「ううん、そうじゃないんだ。……あのさ、今日の散歩、おんぶじゃなくて、自分の足で歩きたいな」
アキの手が、ピタリと止まる。
彼女の黄金の瞳が、僅かに細められた。アキにとって、シキが地面を歩くことは「不純な大地に触れる」「転倒のリスクがある」「自分の腕の中から離れる」という、忌避すべき事象のオンパレードだ。
「……ダメ。昨日の雨で、道が少し緩んでる。滑って怪我をしたらどうする。……私が抱いていれば、お前は一歩も動かずに、一番いい景色まで行けるんだよ?」
いつもの、有無を言わせぬ過保護な論理。
けれど、シキはアキの膝の上でくるりと向き直り、彼女の頬を両手で挟んで、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「アキに守ってもらうのは、大好きだよ。……でもね、たまには自分の足で歩いて、隣にいるアキの横顔を見ながら、一緒に歩きたいんだ。……ダメかな?」
シキの瞳には、依存だけではない、一人の男としての強い「意思」が宿っていた。
アキは、その瞳に弱い。
彼女が愛したのは、自分が作り上げた「動かない人形」ではなく、自分の重すぎる愛をすべて受け止めた上で、こうして笑いかけてくれる「シキ」という存在そのものだったから。
「…………」
長い沈黙の後、アキは大きく、深く、負けを認めるように溜息をついた。
「……分かった。お前の負けだよ、シキ。……お前がそこまで言うなら、尊重してあげる」
アキはシキを膝から下ろすと、自分も立ち上がり、彼の隣に並んだ。
そして、当然のようにその手を、指を絡めて固く握りしめる。
「その代わり、一歩でもふらついたら即座に担ぎ上げるから。……いいね?」
「ふふ、分かってるよ。……ありがとう、アキ」
二人はゆっくりと、工房の扉を開けて外へ出た。
アキは繋いでいない方の指先で、シキが歩く数歩先の地面の凹凸を、魔術で密かに、かつ完璧に平らにならしていく。
「自由」を尊重すると言いながらも、結局はシキが歩く道すべてを自分の魔力で包み込み、一粒の小石すら彼に触れさせない。
それが、アキという龍の、不器用で、傲慢で、けれど至高の愛の形だった。
シキは隣を歩くアキの横顔を見上げ、繋がれた手の熱さを心地よく感じながら、確かな足取りで歩む。
「歩かされる」のではなく、「共に歩く」。
作者の友人が「結局アキの掌の上じゃないか!」とツッコミを入れつつも、その二人の歩幅が完璧に揃っていることに、何物にも代えがたい「幸福」を感じてしまうような――。
山頂へと続く道、二人の影は長く伸びて、どこまでも、どこまでも重なり合っていた。
(完)
ハッピーエンドが好きな人はここで離脱した方がいいかもしれません。話はまだ続きますが、ここで終わる方が幸せと感じる人もいるだろうと日常生活で一切空気の読めない作者なりの善意です。本音を言うならこれからも読んでもらいたいですが…




