鬼上司との契約結婚
魔法陣で転移した先は、広くて豪華な部屋だった。
サツキは転移魔法で移動するの初めてだけれど、この世界に引きずり込まれたときの感覚に似ている。
自分を引きずり込んだ黒い手を思い出し、サツキはフルリと体を震わせた。
「大丈夫か?」
カイルが心配そうな表情を浮かべ、サツキの顔をのぞき込んだ。
「大丈夫……です。でも、説明してくださるのですよね?」
「……ああ」
カイルの表情は不本意そうだ。
彼にとっても予想外で、意に沿わない結婚なのだろう。
「叔父さま、足が痛いよ」
そのとき、可愛らしい声にサツキとカイルは軽く目を見開いた。
「十分洗浄済みのようです。魔法薬を塗れば、すぐに治るでしょう」
「うん……」
「なぜ、城の外に出たのですか」
「少しだけ、外を見てみたくて……。子犬の姿なら僕だって誰も気がつかないと思ったんだ。でも……人がたくさん来たから慌てて逃げたら怪我をして動けなくなったの。ごめんなさい」
「ご無事で何より……さて、少し沁みますよ」
「やだ~!」
シアンは目を潤ませて首を振った。
明るいところで見ると、彼の瞳はカイルと同じ金色をしている。
いや、それだけでなく顔形も良く似ている。
「シアン殿下、こちらにいらしてください」
「……しみるのやだぁ」
シアンはそう言いながらサツキに抱きついてきた。
よしよしと撫でていると気持ちが落ち着いたのか、シアンは怪我をした足をカイルの方に恐る恐る差し出した。
「わーん!!」
カイルは大泣きしたが、魔法薬を塗ったおかげで、傷はみるみる塞がっていく。
「――助かった。サツキ」
「ええ、良かったです。大丈夫ですか? シアン殿下」
「うん! ねえ、サツキっていうの……?」
「ええ、サツキといいます」
傷が治って痛みが消えたのだろう。シアンが、サツキの手を引いた。
「サツキ……いい匂いがする。一緒に寝よう?」
「そうですね。一緒に寝ましょうか」
「わーい!」
「まさか、シアン殿下が誰かに甘えるとは……」
カイルが信じられないものを見たような表情を浮かべた。
しかし、子どもが甘えて誰かと寝たがるのはそれほど不思議なことではないとサツキは思う。
サツキにはきょうだいがいなかったし、あちらの世界で結婚もしていない。
だが、子どもは可愛いと思うし好きだった。
ベッドに一緒に行って背中をポンポンッと優しく叩きながら寝かしつけると、すぐにシアンはすやすやと眠った。
サツキが続き部屋になっていた寝室から戻ると、カイルは書類に目を通していた。
家に帰ってまで仕事なのかと、サツキは少々あきれた。
――だが、まずは聞かなければならないだろう。
カイルは、確かに先ほどサツキに自分と結婚するように言ったのだ。
「――どうしても、結婚しなければいけないのですか? 理由を説明してください」
「婚約者や配偶者がいない王族は、俺と祖父とシアン殿下しかいない」
「……」
「俺より祖父がましというなら、なんとかする」
「祖父って……先代国王陛下ですよね」
「そうなるな」
結婚しなくてはならない理由の説明にはなっていないが、選択肢は実質カイルしかないようだ。
カイルはシアンに『おじさま』と呼ばれていた。
そして、国王には姉と弟妹はいるが兄はいない。
まだ、サツキがこの世界に来て一年しか経っていなくても一般常識だ。
「――王弟殿下でいらしたのですね」
「王家の血を継いではいるが、俺は庶子だ。ウェルシュター伯爵位を陛下から授かったが……君に言うつもりはなかった」
「……もし私が王族のどなたかと結婚するとすれば、ウェルシュターさんしかいらっしゃらないことはわかりました。でも、どうして結婚しなければならないのですか?」
「第一王子シアン殿下が、犬に姿を変えることは現在秘匿されている――君と殿下が出会ったことは王家の影がすでに陛下に報告していることだろう」
「王家の影」
穏やかではない単語だ――本当に存在したことに驚いたが、秘密を知ったサツキは秘密裏に消されてしまうかもしれない。
「秘密を知ることが許されるのは、ルナティエル王族だけだ。だから、君には俺の妻になってもらうしかない。君には苦労はさせないつもりだ……仕事だと割り切ってくれてもいい」
「契約結婚ですね」
「巻き込んですまない……職場では今まで通り上司と部下として過ごそう」
カイルは重いため息をついた。
サツキはいつか結婚してみたいとは思っていたのだ。この世界で身寄りのない彼女にとって良い機会なのかもしれない。
仕事が忙しい、相手がいない、異世界に来てしまったから……言い訳しているうちに二十九歳だ。
――サツキは愛のある結婚に憧れていたが、この世界では恋愛結婚は主流ではない。
そのとき、カイルが唐突に床に跪いた。
いつも、周囲は彼に頭を下げていたけれど、彼自身が頭を下げるのを見たことがない。
――それは、彼が王族だからなのだが……。サツキは慌ててしまった。
「あの、どうか立ち上がってください」
「君を妻に請うておきながら……まだ、正式に申し込んでいない」
カイルが微笑んだ。
いつも、厳しい表情を浮かべているのに笑うと優しげで可愛らしい。
サツキの心臓は、図らずも高鳴る。
「サツキ……どうか俺の妻になっていただきたい」
「……」
あまりに麗しい王弟……そんな相手が自分に結婚を申し込んでいる。
だが、これは秘密を守るためだけの契約結婚なのだ。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
「聞いたことがない言葉だ」
「元いた世界の言葉です」
「そうか……」
こうして、サツキはカイルの契約妻になった。
それは、案外幸せで楽しく甘い日々と忙しい子育ての日々の始まりなのだった。