子犬の王子様
癒やしのモフモフ子犬王子が書きたくて
「ずいぶん帰りが遅くなったわね……」
サツキは帰路を急いでいた。
美しい黒髪を持つ彼女は、一年前にこの世界に転移してきた。
真夜中、仕事帰りに黒い腕のような物に腕を掴まれ、気がつけばこの世界にいた。
この世界には、他の世界からたまに人が紛れ込むことがあるのだという。
初めに出会ったのが現在の上司、カイル・ウェルシュターだったのはサツキにとって幸運だったといえよう。この世界には魔法があり、魔獣もいて、王都であっても一歩裏道に入れば治安が悪く、不思議で危険な場所なのだ。
ごく平凡な会社員だったサツキは、ある身体的な特徴以外はこの世界でも特別な存在ではなく、特別な力も持たない。
だから現在は、王立魔術院の事務員として毎日必死に働いている。
カイル・ウェルシュターは、黒髪に珍しい金色の目を持つ。
切れ長の目に整った鼻筋、形の良い唇。
この世界には美男美女が多いが、その中でも彼の美貌は特別だ。
――しかし、彼に恋に落ちることはないだろう。
カイルはとても厳しい。部下たちの間で密かに、鬼上司と呼ばれているのだから……。
――本日彼は、珍しいことに早退した。
何かの報告を受けた後、サツキに今日中に完成しなければいけない書類を預けて出掛けてしまったのだ。彼は確かに厳しいが、どちらかといえば他人よりも自分に厳しいタイプだ。
いつも冷静沈着な彼が青ざめ、急ぎの仕事を誰かに預けてまで行かねばならないとは、よほどの事態だろう。
有力貴族との取引で問題でも起こったのか……真夜中になっても彼は戻らなかった。
預けられた書類は、機密性の高い内容だったためサツキはこの時間までかかり一人で完成させたのだった。
「それにしても暗いわ……この眼鏡をかけていると、黄色いフィルターを通しているみたいで夜は見えづらいのよね」
普段かけている眼鏡のガラスは、一見透明で何の変哲もない。
しかし、視野が黄色く色づいて見えるのだ。
――この眼鏡をしているのは、サツキの秘密を守るためだ。
黒髪はそのままに、この世界に来てから急にサツキの瞳は淡い紫色になってしまった。
この世界において、紫色は魔女の瞳の色なのだという。
異世界人であることだけでも珍しいのに、いらぬ騒乱を読んではいけないと上司であるカイル・ウェルシュターが用意してくれたのだ。
――眼鏡を外すと、よく見えるようになった。
月は前にいた世界と変わらない……今日も美しく輝いて郷愁を誘う。
「いけない……本当に睡眠時間がなくなってしまうわ」
職場の王立魔術院と彼女が暮らす職員向けの宿舎は両方とも王城内にある。
しかし、王城はとても広い。このままでは、睡眠時間の確保ができない。
「近道をしようかしら」
王城の庭園、生け垣をくぐれば宿舎への最短ルートだ。
服は少々汚れてしまうかもしれないが、サツキはとにかく早く帰りたかった。
――生け垣をくぐると、丸く小さな何かが月の光を反射して輝いていた。
「子犬……」
近づいて見ると、それは白銀の毛並みを持つ子犬であった。
『グルル……』
「……迷い込んでしまったの? あら、怪我をしているのね」
子犬の足は赤く染まっていた。
恐らく怪我をして動けなくなってしまったのだろう。
「可哀想に……」
『グル……ル…………ワフ?』
警戒してうなり声を上げていた子犬が、三本足でピョコピョコとサツキに近づいてきた。
そしてクンクンと匂いを嗅ぐと、猛烈な勢いで尻尾を振り始める。
「あら、どうしたの?」
『ワフ!』
「……とりあえず、家に来る?」
『ワフ!』
手を広げると、子犬は自分から抱き上げられるようにサツキの膝に登ってきた。
サツキは子犬を抱き上げて歩き出す。
魔術師や薬師などが住む宿舎には、召喚獣を飼っている魔術師もいるし不思議な生き物を魔法薬の素材にしている薬師もいる。
サツキが子犬を連れていったからといって、大きな問題にはなるまい。
その予想は裏切られる――このあと、大事件になることも知らず、サツキは宿舎に向かうのだった。
* * *
「さて、傷の手当てをしなくてはね」
子犬の傷は思ったよりも深い。可哀想に……と思いながら、汚れを取るためにバスルームへ向かう。
「ごめんね……痛いと思うけど、このままにしておくと感染が怖いの」
『キュウン……?』
子犬は人間の言葉がわかるのか……キュンキュン鳴きながらも大人しく言うことを聞いた。
痛い思いをして疲れたのだろう。清潔な布で傷を保護すると、子犬は眠ってしまった。
「――ご飯とかどうしたらいいのかしら」
ため息をつくと、薄暗い部屋が急に金色の光に包み込まれた。
あまりのまぶしさに視界が奪われる。
そして、徐々に状況が見えるようになってきたとき、サツキは目を見開いた。
「は……? 子ども?」
そこにいたのは、白銀の髪の毛の四歳くらいの男の子だった。
「子犬が……子どもになった!?」
サツキは慌てて通信魔導具を手にした。
とても高価な品だが、異世界から来たサツキを利用しようとする輩が現れるかもしれないと、カイルが貸し出してくれたのだ。
「えっ……この世界では普通のこと!? ううん、聞いたことがないわ!」
宿舎には知り合いが多い。
しかしサツキが真っ先に頼ったのはなんだかんだ言って面倒見が良い鬼上司カイル・ウェルシュターであった。
「ウェルシュターさん! 子犬が子どもに! 信じてもらえないかもしれませんが……」
「すぐに行く、動くな」
「はい……?」
カイルはサツキから説明を聞くやいなや、ものの数秒で部屋に現れた。
部屋の床全体に魔法陣が広がったかと思うと、急に目の前に現れたのだ。
これが遠距離魔法であることをサツキはもう知っている……だが、遠距離移動魔法が使える魔導具は、王都に小さな屋敷が買えるほど高価で、しかも使い捨てなのだ。
カイルはサツキを見つめて眉根を寄せた。
これは、相当な問題が起きたときだけに彼が見せる表情だ。
しかし、そのことを問いただす前に彼は、サツキの横をすり抜けて少年の元に走り寄った。
「――シアン殿下!」
「え……?」
「良かった……無事で……」
カイルはいつものような余裕の表情をかなぐり捨てて、少年を抱きしめた……。
確かに『殿下』と彼は言った。
殿下というのは、王子や姫を呼ぶときに使われる。
しかもシアンというのは、病弱で表に姿を現さない、この国ルナティエルの第一王子の名前であるはずだ。
「んう……?」
シアンが目を覚ます。そしてカイルを見つめ、涙目になった。
「叔父さま!」
「良かった……本当に……生きた心地がしなかった」
「え……おじさま……?」
しばらくの間、再会を喜んでいた二人。しかし、サツキの心中は穏やかではない。
だって、少年が王子なのだとすれば、彼におじさまと呼ばれるカイルは……。
「さてサツキ」
――再びこちらを見たカイルの表情は限りなく深刻だった。
「は、はい!」
「君は俺と結婚してもらう」
「はい?」
「これは業務命令だ……それが嫌なら王族からの命令になる」
サツキは意味がわからなかった。
それはそうだろう……サツキは子犬を拾っただけのはずだったのだ。
だから、こう返答する以外になかった。
「業務命令を拝受いたします」
「よろしい……早速移動するぞ」
――だって王族からの命令だなんて恐ろしいではないか。
しかも、上司が王族だったことすら今日初めて知ったのだ。
カイルが胸元から紫色の魔石がついた魔導具を取り出した。
紫の魔石なんて希少すぎて、王立魔術院で働いているサツキでも見たことがない。
カイルが魔導具を起動すると、高価すぎるその魔石はいとも簡単に砕け散り、部屋の床には先ほどと同じ大きな魔法陣が浮かんだ。
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