眼 前
「人間関係」という物がある。それが何か、一言で答えよと言われたら、僕は間違いなく「僕の苦手なこと」と答えるだろう。出来るのならばやりたくない事。なるべく避けたい嫌な事。それが人間関係だ。
僕がその、人間関係という物が嫌いなのには、もちろん理由がある。
人は皆、壁を作りたがる。相手との間に決してまたぐことのできない障壁を敷く。そこから先には絶対に足を踏み入れてはならず、踏み込んだものは皆鬱陶しく思われて、態度もあからさまに悪くなる。
ただし、それは初対面でなかった場合の話だ。初対面では、皆が壁を越えんとするものを避けるようになる。鬱陶しいというよりも、気持ち悪い物を見るような眼で、こちらを覗いてくる。まるで、こちらが悪いことをしたかのように、それが禁忌だとでも言うように、態度もくそもなく、徹底的に無視をしてくるようになる。
僕はそれが嫌だ。だから、人間関係という物が嫌いで、苦手だ。
「それはうそ。でしょう?」
暗田が頬杖をつきながら、僕に向かって言った。彼女は、目先まで伸ばした髪の毛の間から、僕のことをまっすぐ見つめていた。
「どうかな、分からない。僕は自分の全てを知ってるわけじゃないから」
暗田は、水晶のように透き通った眼球で僕の顔をじっと見つめた。
彼女は、クラスでかなり浮いている存在だった。前髪は目先まで伸ばし、後ろ髪は床につくのではないかと思うくらい伸びている。校則という物がある中、それに縛られない生き様を見せる彼女は、やはり、かなり目立った。加えて、年間を通して彼女は長袖の冬服にそでを通している。日焼けをしたくないのか分からないが、結果として、彼女の肌の露出は、両手と顔の下半分しかなかった。
放課後の教室、僕と暗田はお互い半身に夕陽を浴びながら話していた。遠くから運動部のランニングの声が聞こえるが、今の時間帯まで教室に残っているのは僕と彼女だけのようだった。
「それはみんなそうね。私も知らないから。ただ、一つ分かるのは、あなたが周囲に嘘をつきながら生活しているという事よ」
彼女の言う事は正しかった。僕は、この高校生活の三年間で、本心で話すことのできた人物がほとんどいない。暗田に対してはあまり本心を隠そうとはしないが、それは彼女が僕と同じような人間だったからだ。僕たちのような人間はそういない。
だからといって、彼女が僕と同じというわけではないが。
「まぁいいよ、それは。僕が嘘をついていようがいまいが、暗田以外には分からないだろう?」
「そうね。あるいは、私と同じように、相手を見抜くことができる人物がいれば別だけど」
彼女は昨年のある日、すれ違いざまに僕に、「あなた、人殺しの目をしているわ」と言い放った。その時は衝撃だった。なぜなら、僕は正真正銘の人殺しであったからだ。
僕は、彼女の顔を横目に、夕陽を眺めて立ち上がった。
「そろそろ帰らないと。僕はやらないといけないことがあるんだ」
立ち上がった僕の制服の裾を、暗田は両の手でつかんだ。彼女の全体重が載せられるような姿勢だったが、彼女が軽すぎるのか、僕は特に姿勢を崩したりはしなかった。
「…どうしたの?そうやって掴まれると、服の裾が伸びて嫌なんだけど」
「ねぇ、最近この辺りを賑わせてる事件、あなたも聞き覚えくらいはあるんじゃない?」
彼女にそういわれると、とある一つの事件が頭に思い浮かんだ。
男女問わず、成年、未成年問わず、街を一人で歩く人物の片目がくりぬかれる事件。名付けて「眼球強奪事件」とでもしようか。最近、この町では、夜間に一人で出歩くと、何者かの手によって、片目がくりぬかれてしまうらしいのだ。僕の近所の人も、その事件の被害者になったらしく、片目がない状態で生活しているようだった。今朝、黒い眼帯を右目につけて家から出ていくのを見かけた。
この事件で奇妙なところは二つある。
「一つは眼球の行方ね。他人の目を抉り出して、いったい何のつもりなのかしら」
僕の中で、それの答えは出ているのだが、おそらく彼女の中にも同様の答えが浮かんでいると思うので、黙ったままにした。
「二つ目はなぜ殺していないのかという事ね。さっさと殺して奪えばいいのに、目だけを執拗に狙うのはある種の変態性があるように感じるわ。片目を失った人たちが数日でいつもと変わらないように生活し始めるのにも、少し奇妙な感じがする」
「つまり、犯人は眼球マニアで、奪った眼球はその人物の家に保管されているという事だね」
暗田は木でできた椅子の背面にもたれかかり、顎を引いた。こうすると、完全に顔が見えなくなってしまう。
「まぁ、そうね。私の頭でもそうとしか考えられないわ。屈辱的だけど。」
彼女が何に不満なのか分からないが、とりあえず、彼女が僕を引き留めた理由と言うのは分かった。
「じゃあ、僕と一緒に帰れば襲われる心配はないね」
彼女は、普段は誰にも絶対に見せることのない笑みをこぼした。
「あなたが私を襲わなければね」
×××
僕と暗田は、歩道の端を一列になって歩いていた。かなり会話がしにくいが、僕と彼女はそもそも、会話をするために共に帰路についているわけではないのだ。ただ、一人でいると襲われてしまうがために、二人での帰宅を余儀なくされているだけなのだ。
「ねぇ、あなたがもし、片目を奪われたらどうする?」
僕は少し考えたが、あまり面白い回答が浮かんでこなかった。
通り過ぎる車の光に照らされ、影が前から後ろに流れていった。学校を出た時点でほとんど日が沈みかけていたために、今はもう太陽が地平線の向こう側にあるのだ。
「私なら、絶対に犯人を見つけるわ。それで、私と同じように犯人の片目をくりぬいてやるのよ」
後ろから、彼女の吐き捨てるような声が聞こえる。なんだか怒ってるような口調だった。彼女は普段からあまり感情というものを見せないので、それは珍しいことだ。
僕から左手にある公園で、ブランコに乗る男女の姿が見えた。彼らから見たら、僕らも恋人のように見えるのだろうか。
「で、あなたはどうするの?」
再び考える。自分が片目を奪われるという状況について、深く考えたことがないために、僕は即答できなかった。
二人の間に無言の二分が流れた。
やがて、僕は口を開いた。
「そうだね。僕は————」
僕の回答を聞いた暗田は、見なくても分かるくらいあからさまな態度で、僕を軽蔑した。
「あなたって本当に趣味が最低ね」
「答えさせたのは君の方だから」
以降、僕と彼女が別れるまで、二人はずっと無言のままだった。