思いつきで、アレに化けてみた結果
「大人になったらどこかの水族館で、ジンベちゃんを見てみたいな~」
「オイラは見たことねーけど、海に住んでる山あざらしは見たことあるって話してたな。オイラ達のちっちゃな体からしたらあいつらの体は島みたいにでっかくて、その上に住んだら国が作れそうなくらいだったって」
「海にいるのに山あざらしっていうの? 別の呼び方しなくていいの?」
「言われてみれば、確かに謎かも……?」
「呼び方っていえば、あなたの名前、聞くの忘れてたよね」
ミコトと暮らして何日過ぎたっけ? 日付を数える感覚のない暮らしをしてきた山あざらしにとっては漠然としていたけど、少なくとも「今更」と言うべき時間が経過しているのは間違いないだろう。
「オイラの名前は『サン』っていうんだぜ」
「いつか、あたしとサンも一緒に、ジンベちゃん見に行けたらいいね」
「そうだな」
「約束しとく? 指切りげんまん」
ミコトが小指を差し出しても、サンの小さな手の指でそこに対等に絡めさせるのは不可能である。仕方なく小指に抱きつき、しがみつく。ミコトがご機嫌に「はりせんぼん~」を口ずさみながら、指をぶんぶんと振り、サンは体ごと上下に揺さぶられる。これがふたりにとっての指切りげんまんとなった。
「頼むぜ大将! オイラをこの店で働かせちゃくんねえか!?」
「山あざらしが人間の店で働きたいなんて見上げた根性じゃねえか。気に入った! いっちょ雇ってやっか!」
「サン、大将のお店で働くんだって? 今日はなんか大人っぽいね」
彼が山あざらしから人間に化ける時、今までは少年の姿だったが、お勤めに合わせて青年の姿に化けてみた。
「山あざらしはみーんな、村で仕事してんだぜ。オイラは益キノコの料理人だったんだ」
益キノコとは人間の世界では毒キノコと呼ばれるもので、山あざらしにとっては栄養効果が抜群の高級食材だった。小さなキノコとほぼ同じサイズの山あざらしなので、それを捌く料理人の仕事は割と重労働だった。
大将のお店とは山元の家近くの歴史ある和食料理店で、あの「山あざらしの舟盛り」は代々、大将の店で作られてきた。
これまでは「おやすみ」を言い合って眠りに着いたサンとミコトだったが、サンが勤め始めてからはその習慣がなくなった。子供達を健やかに育むための「山元の家」は消灯時間が早すぎる。朝は「おはよう」が言い合えるのだからそれで良し、とサンは思っている。ミコトは内心、寂しく感じていたけれど。
その夜もサンは仕事でくたくたになって帰ってきたが、蚊帳の中ですやすやと眠っているミコトを見て、ちょっとした悪戯を思いついた。
「……海琴、起きて」
「ん~……パパぁ?」
サンは以前、チヨおばちゃんが見せてくれた写真でミコトの家族の姿を知った。父親の姿に化けて、ミコトを優しく揺り起こす。
「パパはね、海琴が心配で化けて出て来ちゃったんだ。久しぶりに会えたんだから言いたいことがあったら遠慮なく言っていいんだよ?」
姿を知っているだけでは、その人の口調なり性格なり再現出来ない。しかし、ミコト本人も父親のことはもうほとんど覚えていなかったから、不完全な成りきりでも疑いは抱かなかった。
「何でも言っていいの? じゃあねぇ~……ジンベちゃん、いつ見に行く?」
「……んん?」
「約束したじゃない。一緒にジンベちゃん見に行こうって。水族館、連れてってくれるって。パパが死んじゃった後にね、八景島の七海ちゃんも死んじゃってね。そのニュースを見てしばらくしてからだった。ママ、あたしとモカに言ったの」
『私達も、パパのところへ行こうか……天国でだったら、お金がなくっても……ジンベイザメさんに会えるかもしれないから……』
ミコト達の暮らしていた家から最も近くでジンベイザメが見られる場所は、八景島の水族館で暮らす「ジンベイザメの七海ちゃん」だった。
夫を自死で喪ったミコト達の母は、ひとりで子供ふたりを育てるのに必死だった。物理的な距離は遠くなくても、そこへ行くための時間も入場料金もなかなか捻出出来なかった。
水族館のジンベイザメが自然死したという何気ないニュースを聞いただけで。一気に現実の悲しみと生活の苦しさが押し寄せてきて、心が圧し潰されてしまったのだ。
もっとお金があれば、ジンベイザメが死んでしまう前に、子供達を連れて行けたかもしれないのに。
夫が死ななければ、お金も家族の時間も、もっともっとあったはずなのに……。
「あたしって薄情な娘だからさ。今はもう、あたしとの約束も守らないで死んじゃったパパよりもね……今もこの世のどこかで生きていて、あたしが会いに行けるまで待っててくれるジンベちゃんの方が好きなんだぁ」
久しぶりに会いに来てくれた父親に向ける表情としてはあまりにそぐわない、他人行儀な笑顔。「パパに化けるサン」へ向けるミコトの眼差しは、どこか冷めてすらいる。
幼い頃と現在でミコトの人柄が様変わりしたのは、両親がしたように、現世の辛苦から逃れるために死を選んでしまわないように。無意識の防衛反応。それだけではなかったのだとサンは思った。
ミコトは、母による無理心中から奇跡的に助かったのではなくて……かつて家族と共にいた頃のミコトの心は、一緒に天国へ旅立ったのだ。それはもしか、家族と共にいたいからというだけではなくて。「家族四人で七海ちゃんに会いたい」というあの頃の夢を叶えるため……。
「それにね、パパがいなくても、あたしにはもうジンベちゃんを一緒に見に行ける相棒がいるの。食べられて死んじゃうのが嫌だからって人間に化けちゃうくらいに、『生きていたい、死にたくない』って強く強く思ってる子なんだ。そういうのがあたし、いっちばん安心出来る。だから、あたしを心配して化けて出て来たりしないで大丈夫だよ」
パパは天国で、ママとモカと一緒に、楽しく仲良く暮らしてていいんだよ。
その言葉を受け取って、サンは無言で、化ける術を解く。山あざらしの姿に戻った。
「なぁーんだ、パパじゃなくてサンだったんだね。おかえりー。今日もちゃんと帰ってきてくれてよかったぁ」
ミコトは手のひらの上にサンを乗せると、自分の頬に寄せてすりすりした。つい数秒前の彼女の眼差しとは一変して、自分への慈愛に満ちた暖かな瞳。小さな体で彼女の大きな眼を間近に見上げながら、サンは一生ものの誓いを胸に刻みつける。
「……オイラの命あるうちは、ずっとそばにいてやっから。ミコトはオイラを残して、自分で死んだりしちゃダメだかんな。絶対、な」
「心配ないよ。あたし、今はまくらちゃんよりジンベちゃんより、サンがいちばん大好きだから。誰かさんみたいに、置いてきぼりにして寂しい思いさせたりしないもん。ぜーったい、ね」
もうすぐ、ミコトとサンが出会って一年くらいになる。大将は、「サンは山あざらしの舟盛りを作っているところなんて見たくないだろうから」と気遣って、彼に数日の有給休暇を与えてくれた。
その休暇を使って、ふたりの夢を叶えることにする。
二〇二三年現在、この国でジンベイザメが見られる水族館は沖縄、大阪、石川、鹿児島の四か所。彼らの暮らす村から交通の便も含めて最も近いのは、大阪だった。日帰りでは忙しすぎるので、チヨおばちゃんが予約してくれたユースホステルにも宿泊する旅の計画となる。
「山あざらしのまんまでいた方が足代も宿代も水族館のチケット代もかからない……なーんて野暮は言わせねえぜ! このためにオイラ、大将の店で働いて稼ぐことにしたんだかんな!」
「そうだったんだー。サンは働き者で偉いなぁ」
まだ山あざらしの姿のままのサンを手のひらにのせて、小さなあたまをよしよしと撫でてやるミコトである。
「てなわけでバッチリ人間に化けてっと……よし、出発しんこー!」
「えいえいおーっ」
ミコトと同じサイズの人間の少年に化けたサンは、お互いの片手に拳を作り、空へと掲げてコツンと寄せ合う。意気揚揚、初めての冒険の始まりだ。
さて、こんな感じ。今もこの国のどこかで、海と山の集落では数え切れないほどの山あざらしが。そこから自立した「化ける山あざらしのサン」と相棒のミコトは、楽しく仲良く暮らしているのかもしれない。……たぶん。
本作品は2023年10月に執筆しました。2024年元日の震災の影響で、1ページ前に記載した石川県の水族館のジンベイザメは亡くなったそうです。震災で悲しい想いをした全ての方に、心よりお見舞い申し上げます。